南北アメリカ | 北ヨーロッパ (英国、北欧、バルト三国) |
西ヨーロッパ (仏、独、墺、ベネルクス、スイス) |
東ヨーロッパ・ロシア (ポーランド、チェコ、ハンガリー以東) |
南ヨーロッパ (イベリア半島、イタリア) |
東南ヨーロッパ (ギリシャ、バルカン、ブルガリア、トルコ) | アフリカ | 西・中央アジア(アラビア半島、ペルシア、アフガン以西) | 南・東南アジア、オセアニア (パキスタン以東) |
東アジア | |||
701-1100年表 | ||||||||||||
1101 | 1101年の十字軍(小心者の十字軍) ◯ルーム・セルジューク朝●十字軍 8.メルシヴァンの戦い ○ルーム・セルジューク朝連合●十字軍 |
1101 | 1101 | |||||||||
1102 | 1102 | ラムラの戦い ○ファーティマ朝●エルサレム王国:ボードゥアン1世、ブロワ伯エティエンヌ、ユーグ6世 |
1102 | |||||||||
1103 | 1103 | 1103 | ||||||||||
1104 | 1104 | 5.7 ハッラーンの戦い ○セルジューク朝●アンティオキア公国:ボエモン1世、タンクレード、エデッサ伯国:ボードゥアン2世、ジョスラン |
1104 | |||||||||
1105 | 1105 | 1105 | ||||||||||
1106 | 9.28 タンシュブレーの戦い ○イングランド王ヘンリー1世(弟)●ノルマンディー公ロベール2世(兄) ※イングランド王位を巡る兄弟の争い。敗れたロベールは生涯幽閉される |
1106 | 1106 | |||||||||
1107 | 1107 | 1107 | ||||||||||
1108 | 1108 | 1108 | ||||||||||
1109 | 1109 | 1109 | ||||||||||
1110 | ムラービト朝、サラゴサ(タイファ・サラグスタ)を征服 | 1110 | 1110 | |||||||||
1111 | 1111 | 1111 | ||||||||||
1112 | 1112 | 1112 | ||||||||||
1113 | 1113 | 1113 | ||||||||||
1114 | 1114 | 1114 | ||||||||||
1115 | 1115 | 女真族の完顔阿骨打、満州に金を建国 | 1115 | |||||||||
1116 | 1116 | 1116 | ||||||||||
1117 | 2.サラゴサ包囲戦(-18.12) ○アラゴン・ナヴァラ:アルフォンソ1世(武人王)、フランス十字軍●ムラービト朝 |
1117 | 1117 | |||||||||
1118 | 12.19 サラゴサ降伏 | 1118 | 1118 | |||||||||
1119 | 8.20 ブレミュールの戦い ○英:ヘンリー1世、ウィリアム・アデリン●仏:ルイ6世、ノルマンディ公ギヨーム・クリトン |
1119 | 1119 | |||||||||
1120 | 11.25ホワイトシップ号の遭難 ※イングランド王ヘンリー1世の嫡子ウィリアムが死亡し、正当な後継者が不在となる |
6.17 クタンダの戦い ○アラゴン・ナヴァラ:アルフォンソ武人王●ムラービト朝:アリー・イブン・ユースフ |
1120 | →小説「水滸伝」最終エピソードのモデルとなった戦い。この平定に梁山泊の首領と同名の「宋江」という将軍が参加した記録があるが、それが同時期に反乱を起こした後帰服した宋江と同一人物かは諸説ある |
海上の盟約 ※遼を挟撃するために北宋と金の間で結ばれた軍事同盟 方臘の乱(-21.4) ◯北宋:童貫●反乱軍:方臘 ※北宋は乱鎮圧のために遼攻撃で金に遅れを取る |
1120 | ||||||
1121 | 1121 | 宋江、36人の武将を率いて山東半島で乱を起こし張叔夜に降伏する ※水滸伝の原型となった事件 |
1121 | |||||||||
1122 | 1122 | 1122 | ||||||||||
1123 | 1123 | 1123 | ||||||||||
1124 | 1124 | 1124 | ||||||||||
1125 | 1125 | 金、遼を滅ぼす | 1125 | |||||||||
1126 | 1126 | 靖康の変(-1127) ○金●北宋:徽宗・欽宗 ※女真族の金に北宋が敗れ、漢民族が初めて河北を失う |
1126 | |||||||||
1127 | ヘンリー1世、ウィリアムの姉で神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の寡婦マティルダを呼び戻し後継者とする | 1127 | イマードゥッディーン・ザンギー、イラク北部でザンギー朝(-1250)を創始 | 欽宗の弟康王構(高宗)、臨安を都に南宋を建国 | 1127 | |||||||
1128 | マティルダ、アンジュー伯ジョフロワと再婚 | 1128 | 1128 | |||||||||
1129 | 1129 | 1129 | ||||||||||
1130 | ルッジェーロ2世、ノルマン朝シチリア王国を創始(-1816) | 1130 | アブドゥルムーミン、モロッコでムワッヒド朝(アルモハード朝:-1269)を創始 | 黄天蕩の戦い ○南宋:韓世忠・梁紅玉夫妻●金:斡啜 |
1130 | |||||||
1131 | 1131 | 1131 | ||||||||||
1132 | 1132 | 耶律大石(金に滅ぼされた遼の皇族)、トルキスタンに逃れ西遼(カラキタイ)を建国 | 1132 | |||||||||
1133 | 1133 | 1133 | ||||||||||
1134 | 1134 | 1134 | ||||||||||
1135 | 12.1 ヘンリー1世没、甥(姉アデルの子)エティエンヌはマティルダを認めず自ら英王(ブロワ朝スティーブン王)に即位するが、マティルダ派と内戦状態となる(無政府時代) | 1135 | 1135 | |||||||||
1136 | 1136 | 1136 | ||||||||||
1137 | アマルフィ公国、シチリア王国の侵攻で弱体化しピサ共和国に併合される | 1137 | 1137 | |||||||||
1138 | 無政府時代(The Anarchy) (-1153.11) △イングランド(スティーブン王)▲アンジュー家(ア:マティルダ派)、スコットランド[ス]) 6.10 クリザーローの戦い ○ス:ウィリアム・フィッツ・ダンカン●英:不明 8.22 スタンダードの戦い (ノーザラートンの戦い) ○英:ヨーク伯ウィリアム・ル・グロ●ス:デヴィッド1世 |
1138 | 1138 | |||||||||
1139 | 7.25オーリッケの戦い ◯ポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケス●ムラービト朝:アリー・イブン・ユーセフ ※アフォンソは「ポルトガル王」を名乗りカスティーリャ王国から独立(ポルトガル王国:-1910) |
1139 | 1139 | |||||||||
1140 | 1140 | 岳飛の北伐 7.8 郾城の戦い ○南宋:岳飛●金:完顔宗弼 朱仙鎮の戦い ○南宋:岳飛●金:斡啜 ※実際には発生しなかったとされる |
1140 | |||||||||
1141 | 2.2 リンカンの戦い ○ア:グロスター伯ロバート※●英:スティーブン王(捕) ※ヘンリー1世の庶子でマティルダの異母兄 9.14 ウィンチェスターの戦い (ウィンチェスターの敗走) ○英:スティーブン妃マティルダ※、ウィンチェスター司教ヘンリー、イープルのウィリアム●ア:マティルダ(ジョフロワ妃)、グロスター伯(捕) ※ヘンリー1世の娘マティルダとは別人 ※戦い後、グロスター伯とスティーブン王の捕虜交換が行われ、スティーブンが英王に復帰 |
1141 | 9.カトワーンの戦い ◯西遼:耶律大石●セルジューク朝:アフマド・サンジャル |
紹興の和議 ※金と南宋の和議。南宋では宰相秦檜が主導し、反対する将軍岳飛を処刑、韓世忠を免官とし、淮河以北の放棄、金への賠償金の支払いなどを定めた |
1141 | |||||||
1142 | 9.26-12初旬 オックスフォード包囲戦 ○英:スティーブン王●ア:マティルダ ※マティルダは雪の中をオックスフォード城から脱出する |
1142 | 1142 | |||||||||
1143 | 7.1 ウィルトンの戦い ○ア:グロスター伯●英:スティーブン王、ウィリアム・マーテル(捕) |
1143 | 1143 | |||||||||
1144 | 1144 | 11.28-12.24 エデッサ包囲戦 ○ザンギー朝:ザンギー●エデッサ伯国 ※エデッサの失陥が第2回十字軍の呼び水となる |
1144 | |||||||||
1145 | 1145 | 1145 | ||||||||||
1146 | 1146 | 9.ザンギー(ザンギー朝創始者)暗殺 | 1146 | |||||||||
1147 | 7.1-10.24 リスボン攻防戦 ◯ポルトガル:アフォンソ1世、十字軍:H・ド・グランヴィル他●バタホス・タイファ:不明 |
1147 | ムワッヒド朝、マラケシュを攻略 (ムラービト朝滅亡) |
第2回十字軍(-1148) ※教皇エウゲニウス、イベリア半島のレコンキスタも十字軍と認める |
1147 | |||||||
1148 | 1148 | 1148 | ||||||||||
1149 | 1149 | 6.29 イナブの戦い ○ザンギー朝:ヌールッディーン●アンティオキア公国:レーモン・ド・ポワティエ |
1149 | |||||||||
1150 | 1150 | 1150 | ||||||||||
1151 | 1151 | 1151 | ||||||||||
1152 | ウォリングフォード包囲戦 (-1153) △英:スティーブン王▲ア:ヘレフォード伯ロジャー・フィッツマイルズ |
1152 | 1152 | |||||||||
1153 | 11.6 ウォリングフォード協定 ※スティーブンの王位を保証し、その後はマティルダの子アンリが英王となることが定められ、無政府時代が解消 |
1153 | 1.25-8.19 アスカロン包囲戦 ○エルサレム王国:ボードゥアン3世●ムスリム |
1153 | ||||||||
1154 | 10.25 イングランド王スティーブン没、アンジュー伯アンリがヘンリー2世として即位 ※プランタジネット朝の始まり |
1154 | 1154 | |||||||||
1155 | 2.13-4.18 トルトーナ包囲戦 ○神聖ローマ:フリードリヒ1世●トルトーナ:オビッツォ・マラスピーナ |
1155 | 1155 | |||||||||
1156 | 1156 | 1156 | ||||||||||
1157 | 1157 | 1157 | ||||||||||
1158 | 1158 | 1158 | ||||||||||
1159 | 7.2 クレマ包囲戦(-60.1.25) ○神聖ローマ:フリードリヒ1世、ハインリヒ獅子公●クレマ |
1159 | 1159 | |||||||||
1160 | 1160 | 1160 | ||||||||||
1161 | 1161 | 11.26-27 采石磯の戦い ○南宋:陳康伯、虞允文●金:海陵王 |
1161 | |||||||||
1162 | 1162 | 1162 | ||||||||||
1163 | 1163 | 1163 | ||||||||||
1164 | 1164 | 1164 | ||||||||||
1165 | 1165 | 1165 | ||||||||||
1166 | 1166 | 1166 | ||||||||||
1167 | 5.29 モンテ・ポルツィオの戦い ○神聖ローマ帝国:マインツ大司教クリスティアン●ローマ都市同盟:オッド・フランジパーニ 12.1 ポンティーダの誓約 (ロンバルディア都市同盟の結成) ※神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に対抗するイタリア都市同盟 |
1167 | 1167 | |||||||||
1168 | 1168 | 1168 | ||||||||||
1169 | 1169 | サラーフッディーン(サラディン)、アイユーブ朝(-1250)を創始 | 1169 | |||||||||
1170 | 12.29 カンタベリー大司教トマス・ベケット、対立するイングランド国王ヘンリー2世の配下に暗殺される | 1170 | 1170 | |||||||||
1171 | イングランド王ヘンリー2世、アイルランド侵攻 ※ダブリン王国の滅亡 |
1171 | サラーフッディーン、ファーティマ朝を滅ぼす | 1171 | ||||||||
1172 | 1172 | 1172 | ||||||||||
1173 | 1173 | 1173 | ||||||||||
1174 | 1174 | 1174 | ||||||||||
1175 | 1175 | 1175 | ||||||||||
1176 | 5.29 レニャーノの戦い ○ロンバルディア同盟:ギー・ダ・ランドリアーノ●神聖ローマ帝国:フリードリヒ1世 |
9.17 ミュリオケファロンの戦い ◯ルーム・セルジューク朝:クルチ・アルスラーン2世●東ローマ:マヌエル1世コムネノス |
1176 | 1176 | ||||||||
1177 | 1177 | 11.25 モンジザールの戦い ◯エルサレム王国:ボードゥアン4世●アイユーブ朝;サラディン |
チャンパ王国(ベトナム)、クメール王都ヤショーダラプラ(アンコール)を破壊 | 1177 | ||||||||
1178 | 1178 | トンレサップ湖の戦い ○クメール:ジャヤーヴァルマン●チャンパ王国 |
1178 | |||||||||
1179 | 1179 | 6.10 マルジュ・アユーンの戦い ◯アイユーブ朝:サラディン●エルサレム王国;ボードゥアン4世 8.23-30 ヤコブの浅瀬の戦い ◯アイユーブ朝:サラディン●エルサレム王国;ボードゥアン4世 |
1179 | |||||||||
1180 | フリードリヒ1世、ザクセンへ侵攻しハインリヒ獅子公を降す | 1180 | 1180 | |||||||||
1181 | 1181 | ジャヤーヴァルマン、ヤショーダラプラを奪還してクメール王に即位 | 1181 | |||||||||
1182 | 1182 | 1182 | ||||||||||
1183 | 1183 | 1183 | ||||||||||
1184 | 1184 | 1184 | ||||||||||
1185 | 5.11-13 カヤラ川の戦い ○ポロヴェツ族:コンチャーク●ノブゴロド:イーゴリ・スヴャトスラーヴィチ ※ボロディンのオペラ「イーゴリ公」で知られる戦い |
←同オペラの曲中日本でも知名度の高い「韃靼人の踊り」の原題は「ボロヴェツ人の踊り」だが、「ポロヴェツ」の名に馴染みがないため、より東方に居住していたモンゴル系遊牧民族の中国名「韃靼」を使った | 1185 | 1185 | ||||||||
1186 | 1186 | 1186 | ||||||||||
1187 | 1187 | 7.4 ヒッティーンの戦い (ハッティンの戦い) ○アイユーブ朝:サラディン●エルサレム王国:ギー・ド・リュジニャン 10.2 サラディン、エルサレムを占領 →第3回十字軍の銃爪となる |
1187 | |||||||||
1188 | 1188 | 1188 | ||||||||||
1189 | 5.7 フィロメリオンの戦い ○十字軍:シュヴァーベン大公フリードリヒ6世●ルーム・セルジューク朝:カイホスロー1世 5.18 イコニウの戦い ○神聖ローマ:皇帝フリードリヒ●ルーム・セルジューク朝 |
1189 | 第3回十字軍(-1192) 8.28 アッコン包囲戦(-91.7.12)ギー・ド・リュジニャンらアッコン包囲を開始 |
十三翼の戦い(1193年とも) (ダラン・バルジュドの戦い) △ジャダラン:ジャムカ ▲モンゴル:テムジン |
1189 | |||||||
1190 | 6.10 フリードリヒ赤髭王、サレフ川で溺死 | 1190 | 1190 | |||||||||
1191 | 1191 | 7.12 アッコン陥落 ○十字軍:仏王フィリップ2世、英王リチャード1世●アイユーブ朝:サラディン 9.7 アルスフの戰い ○十字軍:リチャード1世●アイユーブ朝:サラディン |
第1次タラーインの戦い ○ラージプート連合:プリトゥヴィラージ3世 ●ゴール朝:シハーブッディーン |
1191 | ||||||||
1192 | 1192 | 7.27-8.8 ヤッファの戦い ○十字軍:リチャード1世●アイユーブ朝:サラディン 9.2 リチャードとサラディン、休戦協定を結ぶ ※第3回十字軍の終結 |
第2次タラーインの戦い ○ゴール朝:シハーブッディーン ●ラージプート連合:プリトゥヴィラージ3世 |
1192 | ||||||||
1193 | 1193 | サラーフッディーン(サラディン)、ダマスカスで死去 | 1193 | |||||||||
1194 | 1194 | 1194 | ||||||||||
1195 | 7.18 アラルコスの戦い ◯カスティーリャ:アルフォンソ8世●ムワッヒド朝:ムハンマド・ナースィル |
1195 | 1195 | |||||||||
1196 | 1196 | 1196 | ||||||||||
1197 | 1197 | 1197 | ||||||||||
1198 | 1198 | 1198 | ||||||||||
1199 | 4.イングランド王リチャード1世、アキテーヌ公領シャリュ城攻城戦で戦没 | 1199 | 1199 | |||||||||
1200 | 1200 | 1200 | ||||||||||
南北アメリカ | 北ヨーロッパ (英国、北欧、バルト三国) |
西ヨーロッパ (仏、独、墺、ベネルクス、スイス) |
東ヨーロッパ・ロシア (ポーランド、チェコ、ハンガリー以東) |
南ヨーロッパ (イベリア半島、イタリア) |
東南ヨーロッパ (ギリシャ、バルカン、ブルガリア、トルコ) | アフリカ | 西・中央アジア(アラビア半島、ペルシア、アフガン以西) | 南・東南アジア、オセアニア (パキスタン以東) |
東アジア | |||
1201 | 1201 | 1201 | ||||||||||
1202 | 8.1 ミルボーの戦い ○イングランド:ジョン王●フランス:フィリップ2世、ブルターニュ公アルテュール |
第4回十字軍(-1204) | 1202 | コイテン(クイテン)の戦い ○モンゴル:テムジン、ケレイト:オン・カン●反モンゴル連合:ジャムカ |
1202 | |||||||
1203 | 7.11-8.1 コンスタンティノープル包囲戦 ○十字軍:モンフェラット候国:ボニファーチョ1世、ヴェネツィア:エンリコ・ダンドロ●ビザンツ帝国:アレクシオス3世アンゲロス |
1203 | モンゴル対ケレイト ○モンゴル:テムジン●ケレイト:オン・カン(トォリル・ハン) |
1203 | ||||||||
1204 | 4.8-13 コンスタンティノープル包囲戦 ○十字軍:ボニファーチョ、ダンドロ●ビザンツ帝国:アレクシオス5世ドゥーカス ※十字軍がコンスタンティノープルを占領しビザンツ帝国一旦滅亡 カソリック国家ラテン帝国、亡命政権ニカイア帝国、ボニファーチョ1世によるテッサロニキ王国、ヴェネツィアによるナクソス公国などが成立 |
1204 | 1204 | |||||||||
1205 | 1205 | 第1次西夏遠征 △西夏▲モンゴル |
1205 | |||||||||
1206 | 1206 | マムルーク(イスラム世界の奴隷出身軍人)のアイバク、インド北部にマムルーク・スルターン朝(奴隷王朝:-1290)を樹立 ※インド最初のイスラム王朝 |
2.テムジン、モンゴルを統一し「チンギス・ハン」に即位 ※モンゴル帝国の成立 |
1206 | ||||||||
1207 | 1207 | 第2次西夏遠征 △西夏▲モンゴル |
1207 | |||||||||
1208 | 6.21 ドイツ王フィリップ、神聖ローマ皇帝戴冠を前に暗殺され、対立するオットー4世が神聖ローマ皇帝となる | 1208 | 1208 | |||||||||
1209 | 1209 | 第3次西夏遠征 △西夏△モンゴル |
1209 | |||||||||
1210 | 1210 | 1210 | ||||||||||
1211 | 1211 | 第1次対金戦争(-1215) ◯モンゴル●金 |
1211 | |||||||||
1212 | 7.16 ナバス・デ・トロサの戦い ◯カトリック連合:カスティーリャ王アルフォンソ8世、アラゴン王ペドロ2世、ナバラ王サンチョ7世●ムワッヒド朝:ムハンマド・ナースィル |
1212 | 1212 | |||||||||
1213 | 9.12 ミュレの戦い ○フランス/アルビジョア十字軍:シモン・ド・モンフォール●アラゴン:ペドロ2世、トゥールーズ:レーモン6世 |
1213 | 9.金の衛紹王、将軍胡沙虎のクーデターで毒殺 | 1213 | ||||||||
1214 | 7.27 ブーヴィーヌの戦い ○フランス:フィリップ2世 ●神聖ローマ:オットー4世、フランドル:フェラン、イングランド:ソールズベリー伯ロングソード |
1214 | 2 中都包囲戦(-15.5) ○モンゴル●金 金、開封へ遷都 |
1214 | ||||||||
1215 | →ジョン王に反旗を翻したイングランド諸侯をフランス王太子ルイが支援し、自らもイングランド王位を欲した戦い |
6.15 マグナ・カルタ(大憲章)制定 ※大陸の領土を失ってイングランドへ戻ったジョン王の権限が議会によって大幅に制限される 第1次バロン戦争(-1217) ○アンジュー帝国(イングランド)●造反諸侯、フランス |
1215 | 5. 中都陥落 | 1215 | |||||||
1216 | →大陸の領土を失い,数々の失政からマグナ・カルタを制定された「ジョン」の名を襲名した英王は今日までおらず、ジョンは「ジョン1世」と呼ばれるに至っていない。 | 7.19-10.14 ドーヴァー包囲戦 ○英:ヒューバード・ド・バー●仏:王太子ルイ(後のルイ8世) 10.18 イングランド王ジョン没、9歳の嫡男ヘンリー(3世)が即位 |
1216 | 1216 | ||||||||
1217 | 5.20 第2次リンカンの戦い ○英ペンブルック伯ウィリアム・マーシャル●仏:ペルシェ伯トーマス 8.24 サンドウィッチの戦い (ドーヴァーの戦い) ○英:ケント伯ヒューバート・ド・バー、フィリップ・ドービニー ●仏:ロベール・デ・コートニー、ユータス・ザ・モンク 9.11 ランベス条約 ルイは英王の地位を諦めて対価を受け取り仏へ帰還 |
9.22 トゥールーズ包囲戦(-18.7.25) ○トゥールーズ:レーモン6世 ●アルビジョア十字軍:シモン・ド・モンフォール(第2次バロン戦争を主導した同名の息子の父) |
1217 | 第5回十字軍(-1221) | 1217 | |||||||
1218 | 1218 | 5.29 ダミエッタ包囲戦 (-1219.11.5) ○十字軍:ザールブリュッケン伯シモン3世、エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌ●アイユーブ朝:アル・カーミル |
ホラズム・シャー朝のオトラル総督イナルチュク、モンゴルの隊商400人余をスパイとして逮捕・虐殺 ※翌年のモンゴル侵攻につながったとされるが異説もある |
第4次西夏遠征 ▲モンゴル△西夏 |
1218 | |||||||
1219 | 1219 | チンギス・ハンの征西(-1223) カラ・クムの戦い △モンゴル:ジョチ、スブタイ▲ホラズム・シャー朝:アラーウッディーン、ジャラールッディーン |
1219 | |||||||||
1220 | 1220 | モンゴル、サマルカンドを征服 | 1220 | |||||||||
1221 | 1221 | パルワーンの戦い ○ホラズム・シャー朝:ジャラールッディーン●モンゴル:シギ・クトク |
11.インダス河畔の戦い ○モンゴル:チンギス・ハン ●ホラズム・シャー朝:ジャラールッディーン |
1221 | ||||||||
1222 | 1222 | 1222 | ||||||||||
1223 | 5.カルカ河畔の戦い ◯モンゴル:ジェベ、スブタイ ●キプチャク・ルーシ連合:ムスチスラフ3世 |
1223 | 1223 | |||||||||
1224 | ドイツ騎士団領プロイセン成立 ※後のプロイセン公国 |
1224 | 1224 | |||||||||
1225 | 1225 | 大越(李朝)の外戚陳守度ら、陳朝(-1400)を樹立 | 1225 | |||||||||
1226 | 1226 | 第5次西夏遠征(-1227) ◯モンゴル●西夏 |
1226 | |||||||||
1227 | 1227 | 8.チンギス・ハーン没 ※後継のオゴデイ、西夏を滅ぼす |
1227 | |||||||||
1228 | 1228 | 第6回十字軍(-1229) | 大昌原の戦い ○金:完顔陳和尚●モンゴル:スブタイ |
1228 | ||||||||
1229 | 1229 | オゴデイ、モンゴルの第2代ハーンに選出される | 1229 | |||||||||
1230 | 1230 | 1230 | ||||||||||
1231 | 1231 | オゴデイ、イランに将軍チョルマグンを派遣しジャラールッディーンは逃亡中にクルド人により殺害 ※ホラズム・シャー朝の滅亡 |
10.安北府の戦い ◯モンゴル:サルタク●高麗:蔡松年、李彦文 |
1231 | ||||||||
1232 | 1232 | 2.三峰山の戦い ○モンゴル:トゥルイ、オゴデイ●金:完顔陳和尚、移剌蒲阿、完顔合達 |
1232 | |||||||||
1233 | 1233 | 1233 | ||||||||||
1234 | 1234 | 蔡州包囲戦 ○モンゴル●金:哀宗、末帝 ※モンゴル、金を滅ぼす |
1234 | |||||||||
1235 | 1235 | モンゴル2代皇帝オゴデイ、クリルタイで西方遠征を決定 | モンゴル・南宋戦争(-1279) ◯モンゴル●南宋 |
1235 | ||||||||
1236 | 9.22 ザウレの戦い (シャウレンの戦い) ○リトアニア(ジェマイティヤ人):ヴィキンタス●リヴォニア帯剣騎士団:総長フォルクヴィン ※多くの騎士を失った帯剣騎士団は翌年ドイツ騎士団に吸収される |
1236 | バトゥの西征(-1242)始まる | 1236 | ||||||||
1237 | バトゥの征西(-1242) 12.リャザン包囲戦 ○モンゴル:バトゥ、スブタイ●リャザン公国:ユーリー、オレグ |
11.27 コルテノオーヴァの戦い ○神聖ローマ:フリードリヒ2世●ロンバルディア都市同盟 |
1237 | 1237 | ||||||||
1238 | 3.シチ河畔の戦い ◯モンゴル:ブルンダイ●ウラジミール大公国:大公ユーリー2世 |
1238 | 1238 | |||||||||
1239 | 1239 | 1239 | ||||||||||
1240 | 7.15 ネヴァ河畔の戦い ○ノブゴロド公国:アレクサンドル・ネフスキー●スウェーデン:ビルイェル・ヤール 9-12:キエフの戦い ◯モンゴル:バトゥ●ルーシ:ドミトロー ※キエフ大公国の崩壊 |
1240 | 1240 | |||||||||
1241 | 2.13 トゥルスクの戦い ◯モンゴル:バイダル●ポーランド:ウラディームィル 3.18 フミェルニクの戦い ◯モンゴル:バイダル●ポーランド:クラクフ公ウラディームィル 4.9 レグニツァの戦い (リーグニッツ/ワールシュタットの戦い) ◯モンゴル:バイダル、カダン、オルダ ●ポーランド:ヘンリク2世、神聖ローマ(ドイツ騎士団、聖ヨハネ騎士団、テンプル騎士団) 4.11 モヒの戦い (シャイオ川の戦い) ○モンゴル:バトゥ、スブタイ ●ハンガリー:ベーラ4世 |
1241 | モンゴル2代皇帝オゴデイ・ハーン没 | 1241 | ||||||||
1242 | →ドラクロワの絵画で知られる戦い | 7.21-22 タイユブルの戦い ○仏:ルイ9世(聖王)、王弟ポワティエ伯アルフォンソ●英:ヘンリー3世、王弟コーンウォール伯リチャード |
3.バトゥの西征軍、オゴデイ死去を受けハンガリー・オーストリアから撤退 4.5 氷上の戦い (ペイプシ湖の戦い/チュード湖の戦い) ○ノブゴロド:アレクサンドル・ネフスキー●ドイツ騎士団 |
1242 | 1242 | |||||||
1243 | 6.キョセ・ダグの戦い (キョセ・ダーの戦い) ◯モンゴル:バイジュ●ルーム・セルジューク朝:カイホスロー2世 ※ルーム・セルジューク朝、モンゴルに服属 |
1243 | ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)成立 ※ヨーロッパから撤退したバトゥが、キプチャク高原を本拠地とした遊牧政権 |
1243 | ||||||||
1244 | 1244 | 7.15 エルサレム包囲戦 ○アイユーブ朝:アル=マリク・アル=サーリフ、ホラズム難民●エルサレム王国 10.17-18 ラ・フォルビーの戦い (ハルビーヤの戦い) ○アイユーブ朝:アル=サーリフ、ホラズム傭兵●エルサレム王国:ゴーティエ4世、騎士修道会(テンプル、聖ヨハネ、ドイツ、聖ラザロ騎士団)他 |
1244 | |||||||||
1245 | 1245 | 1245 | ||||||||||
1246 | →フリードリヒ2世の死去でオーストリア公国バーベンベルク家が男系が途絶え、姉マルガレーテが継承する。 | 6.15 ライタ川の戦い※墺・ハンガリー国境付近 ○オーストリア公国:フリードリヒ2世※●ハンガリー王国:ベーラ4世、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国:ロスチスラフ・ミハイロヴィチ ※喧嘩公。同時期の神聖ローマ皇帝とは別人 |
1246 | モンゴル3代皇帝グユク即位 | 1246 | |||||||
1247 | 1247 | 1247 | ||||||||||
1248 | 2.18 パルマの戦い ○ロンバルディア都市同盟:グレゴリオ・デ・モンテロンゴ●神聖ローマ:フリードリヒ2世 |
1248 | 第7回十字軍(-1250) | 4.グユク没 | 1248 | |||||||
1249 | 11.29 クリュッケンの戦い ○プロイセン:不明●ドイツ騎士団:ハインリヒ・ボーテル |
1249 | 11.22 アイユーブ朝7代スルターン、アル=サーリフ没、配下のマムルーク軍団は妻シャジャル・アッ=ドゥッルが指導者に立てる | 1249 | ||||||||
1250 | 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世没し、子のコンラート4世が即位 | 1250 | 2.8 マンスーラの戦い ○アイユーブ朝:ファフルッディーン・ユースフ、バイバルス ●十字軍:フランス王ルイ9世、アルトワ伯ロベール、ウィリアム2世ロンジェスビー 4.6 ファルスクールの戦い ○アイユーブ朝:トゥーラーン・シャー●十字軍:ルイ9世、ギヨーム・ド・ソナック ※ルイ9世は捕虜となり賠償を払って解放される |
アイユーブ朝の新スルターン、トゥーラーン・シャー、アッ=ドゥッルに殺される。 ※アイユーブ朝滅亡 アッ=ドゥッル結婚したマムルーク出身のアイバク、スルターンになる。 ※マムルーク朝の創始 |
1250 | |||||||
1251 | 1251 | 1251 | ||||||||||
1252 | オーストリアバーベンベルク家継承者マルガレーテ、20以上年下のボヘミア王オタカル2世と結婚 | 1252 | 1252 | |||||||||
1253 | 1253 | フレグの西征(-60) | 雲南・大理遠征(-54) ◯モンゴル:クビライ●大理:段興智 大理(現在の雲南省)中国領に |
1253 | ||||||||
1254 | 神聖ローマ皇帝コンラート4世没し、ホーエンシュタウフェン朝が断絶、ホラント伯ウィレム2世が即位 | 1254 | 1254 | |||||||||
1255 | 1255 | 1255 | ||||||||||
1256 | 神聖ローマ皇帝ウィレム2世、フリースラントへの遠征で没 ※神聖ローマ皇帝が不在となる「大空位時代」(〜1273)の始まりをいつにするかの定義は、上記1250年、54年、56年の3説がある。 |
第一次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争(-70) △ヴェネツィア▲ジェノヴァ |
1256 | イル・ハン国(フレグ・ウルス)成立 (現在のイラン・イラク・アナトリア地方) |
1256 | |||||||
1257 | 1257 | マムルーク朝のアイバク、アッ=ドゥッル夫婦、内紛で殺され、ムザッファル・クトルズがスルターンになる。 | 1257 | |||||||||
1258 | オックスフォード条項 英国王ヘンリー3世に対しシモン・ド・モンフォールら諸侯が議会の設置と王権の監視を認めさせる |
1258 | →降伏を拒否したバグダードは徹底的に破壊され80万〜200万人が殺されたと推定される |
1.11-2.10 バグダード包囲戦 ○モンゴル:フレグ、郭侃、バイジュ ●アッバース朝:ムスタアスィム ※アッバース朝の滅亡 6.25 アッコの海戦 ○ヴェネツィア:ロレンツォ・ティエポロ●ジェノヴァ |
第1次元越戦争(蒙越戦争) ◯陳朝ベトナム(越):チャン・タイ・トン、チャン・クォック・トアン●蒙古(元):ウリヤンカダイ ※南宋挟撃の目的で域内通過を求めた元を越が拒否。元は越は首都昇竜(タンロン:現ハノイ)を落とすが間もなく撤退。越は元への従属を継続 |
1258 | ||||||
1259 | 初夏or初秋 ペラゴニアの戦い ○ニカイア帝国:副帝ヨハネス・パレオロゴス●反ニカイア連合軍(エピロス専制侯国:ミカエル2世アンゲロス・コムネノス、アカイア公国:ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアン、シチリア王国) |
1259 | 8.11 モンゴル4代皇帝モンケ・ハーン、南宋遠征中に没 ※次弟クビライと末弟アリクブケが共にハーンを宣言する |
1259 | ||||||||
1260 | 7.13 ドゥルベの戦い |
7.13 クレッセンブルンの戦い ○ボヘミア王国:オタカル2世●ハンガリー王国:ベーラ4世、イシュトヴァーン5世 ※1246年のライタ川の戦いでのフリードリヒ2世戦死後に起こったオーストリア、シュタイアーマルク両公国継承争い。勝利したオタカルがオーストリアを領有する |
1260 | 9.アイン・ジャールートの戦い ○マムルーク朝:ムザッファル・クトゥズ、バイバルス●モンゴル:キト・プカ ※モンゴル、中東から撤退 10.バイバルス、クトゥズを殺し新スルターンになる 12.10 第1次ホムスの戦い ○モンゴル(イルハン朝):バイドゥ●マムルーク朝:アル・アフダル・ムハンマド、アル・アシュラフ・ムーサー |
モンゴル帝位継承戦争 (アリクブケの乱:-1264) ◯クビライ(兄)●アリクブケ(弟) |
1260 | ||||||
1261 | ボヘミア王オタカル2世、高齢で世継ぎを産めない妻マルガリーテと離婚するが、オーストリア領有は維持 | 1.22 ポカルウィスの戦い ○プロイセン(ナタンギア):ヘルクス・モンテ(マンタス)●ドイツ騎士団:レイデン伯 |
ニカイア帝国、コンスタンチノープルを奪回 ※ラテン帝国滅亡・東ローマ帝国再興 |
1261 | シムルトゥ・ノールの戦い ○クビライ●アリクブケ |
1261 | ||||||
1262 | ケーニヒスベルク包囲戦(-1265) ○ドイツ騎士団●プロイセン |
1262 | 1262 | |||||||||
1263 | レーバウの戦い ○プロイセン:モンテ●ドイツ騎士団:ヘルムリッヒ・フォン・レチェンベルグ |
1Q.セッテポッツィの戦い ○ヴェネツィア:G・ダンドロ●ジェノヴァ:P・アヴォケイト |
1263 | 1263 | ||||||||
1264 | シモン・ド・モンフォール※の乱 (第2次バロン戦争:-1267) ◯国王派●反乱軍 アルビジョア十字軍を率いた同名のレスター伯爵の子 4.ノーザンプトンの戦い ○国王派:ヘンリー3世●反乱軍:ド・モンフォール 5.13-14 ルーイスの戦い ◯反乱軍:ド・モンフォール●国王派:ヘンリー3世(捕) |
←※英国王ヘンリー3世、王太子エドワード、王弟コーンウォール伯などが捕虜となり、ド・モンフォールが実権を掌握。議会を招集するが急進的な改革を望まない諸侯は脱出した国王側に付く |
バルテンシュタイン包囲戦 ○ドイツ騎士団●プロイセン |
1264 | アリクブケ、クビライに降伏 | 1264 | ||||||
1265 | 8.4 イーブシャムの戦い ◯国王派:エドワード王太子●反乱軍:ド・モンフォール父子 |
1265 | 1265 | |||||||||
1266 | 5.15 チェスターフィールドの戦い ○国王派:ヘンリー・オブ・アルメイン、ジョン・ド・ワーレン●反乱軍:ダービー伯ロバート・フェローズ 12.13 ケニルワース包囲戦 ○国王派:ヘンリー3世、ド・ワーレン●反乱軍:不明 |
2.26 ベネヴェントの戦い ○ゲルフ(教皇派):シャルル・ダンジュー●ギベリン(皇帝派):マンフレーディ 6.23 トラーパニの戦い ○ヴェネツィア:J・ダンドロ●ジェノヴァ:L・ボルボニーノ |
1266 | カイドゥの乱(-1301) ※オゴデイの孫カイドゥ(ハイドゥ)、元朝に反旗を翻す |
1266 | |||||||
1267 | 1267 | 8.襄陽・樊城の戦い(-1273.3) ○モンゴル(元):アジュ、劉整、史天沢●南宋:呂文煥、李庭芝 |
1267 | |||||||||
1268 | 8.23 タリアコッツォの戦い ○ゲルフ(教皇派):シャルル・ダンジュー●ギベリン(皇帝派):シチリア王/エルサレム王コッラディーノ、バーデン辺境伯フリードリヒ1世 |
1268 | 5.アンティオキア包囲戦 ○マムルーク朝:バイバルス●アンティオキア公国:ボエモン6世 ※アンティオキア公国の滅亡 |
1268 | ||||||||
1269 | 1269 | マリーン朝、マラケシュを攻略 ※ムワッヒド朝滅亡 |
1269 | |||||||||
1270 | 1270 | 第8回十字軍(-1272) 8.25 ルイ9世※、チュニジアで陣没 ※死後列聖され、米国セントルイスに名を残す |
カラ・スゥ平原の戦い ◯フレグ・ウルス(イル=ハン国):アバカ●チャガタイ・ウルス:バラク |
三別抄の乱(-73) ○高麗・モンゴル●三別抄 ※モンゴルに服従した高麗政府に対する軍組織の反乱 |
1270 | |||||||
1271 | パガシュティンの戦い △プロイセン△ドイツ騎士団 |
1271 | クビライ、モンゴルの国号を大元(元)に改める | 1271 | ||||||||
1272 | 1272 | 1272 | ||||||||||
1273 | 選帝侯による選挙でスイス・ハプスブルク家出身のルドルフが神聖ローマ皇帝(ルドルフ1世、厳密には戴冠式を行っていないのでローマ王)に擁立される ※大空位時代の終了 |
←選帝侯の一人であるボヘミア王オタカル2世の勢力拡大を警戒した他の選帝侯たちは、高齢で凡庸そうなルドルフを皇帝に選ぶ、が・・・ | 1273 | 1273 | ||||||||
1274 | 1274 | 11.4-10 文永の役 ◯日本(鎌倉政権):北条時宗●元:ヒンドゥ、高麗:金方慶 |
1274 | |||||||||
1275 | 1275 | 2.19-21 丁家洲の戦い ○元:バヤン、アジュ●南宋:賈似道、孫虎臣、夏貴 |
1275 | |||||||||
1276 | 11.ウィーン包囲戦 ○神聖ローマ:ルドルフ1世●ボヘミア:オタカル2世 |
1276 | シリギの乱(-1278) ○元:クビライ、ヤクドゥ、バヤン●トゥルイ・ウルス:シリギ、トク・テムル、サルバン |
1276 | ||||||||
1277 | 1277 | ンガサウジャンの戦い ◯元:雲南駐屯軍●パガン朝ビルマ:ナラティーハパテ |
1277 | |||||||||
1278 | 8.26 マルヒフェルトの戦い ○神聖ローマ帝国:ルドルフ1世、ハンガリー王国:ラースロー4世●ボヘミア王国:オタカル2世 ※神聖ローマ皇帝ルドルフと即位を認めないオタカルの最終決戦。勝利したスイス出身のルドルフがオーストリアを領有してハプスブルク家興隆の礎となる。 |
1278 | 1278 | |||||||||
1279 | 1279 | 3.崖山(克R)の戦い ○元:張弘範、李恒●南宋:張世傑、陸秀夫 ※南宋滅亡 |
1279 | |||||||||
1280 | 1280 | 1280 | ||||||||||
1281 | 1281 | 6.8-8.22 弘安の役 ◯日本(鎌倉政権):北条時宗、神風●元:ヒンドゥ、洪茶丘、范文虎、高麗:金方慶 |
1281 | |||||||||
1282 | イングランドのウェールズ征服(-1283) ○イングランド:国王エドワード1世●ウェールズ公国:ルウェリン・アプ・グリフィズ |
3.30-4.28 シチリアの晩祷 (シシリアン・ヴェスパー) ※シチリアを支配していた仏アンジュー家に対するイタリア系住民の蜂起 8.シチリア晩祷戦争(-1302) △アラゴン連合王国、トリナクリア、ビザンツ△アンジュー・ナポリ王国、フランス、マヨルカ 9.4 アラゴン王ペドロ3世、シチリア王に即位、これに対し仏人ローマ教皇マルティヌス4世はペドロ3世を破門 |
←シチリアの晩祷事件でシチリア住民は仏系アンジュー家のカルロ1世(シャルル・ダンジュー)を拒否しアラゴン王国のペドロ3世を支持。ペドロはシチリアに上陸してシチリア王に即位し、ナポリを統治するアンジュー家と戦争になる。 |
1282 | 1282 | |||||||
1283 | 7.8 マルタの戦い ○アラゴン:ルッジェーロ・ディ・ラウリア●ナポリ:ギヨーム・コルナッツ、バルトルミ・ボンヴァン |
1283 | バモーの戦い ◯元:シャンウダル●パガン朝ビルマ:ナラティーハパテ |
1283 | ||||||||
1284 | 4.25 英王ジェームズ1世の嫡男(後のジェームズ2世)、ウェールズのカーナヴォン城で生誕 ※征服したウェールズの人心掌握のため「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号が与えられ、後英国王太子を指す称号となる |
6.ハーメルン事件 ○笛吹き男●130人の子供達 ※伝承の背景には開拓移民、聖地巡礼、伝染病、精神異常者による大量殺人などさまざまな仮説が提唱されている |
6.5 ナポリ湾の戦い ○アラゴン:ディ・ラウリア●ナポリ:カルロ2世 アラゴン十字軍(-1285) ○アラゴン:ペドロ3世●仏:フィリップ3世、ヴァロワ伯シャルル、マヨルカ:ジャウメ2世、ナヴァラ、ジェノバ 8.6 メローリアの海戦 ○ジェノヴァ:オベルト・ドーリア、ベネデット・ザッカリーア●ピサ:アルベルティノ・モロシーニ ※ピサは地中海の制海権を失う |
←教皇マルティヌス4世がシチリアを征服したアラゴン王ペドロ3世を破門し、後継に仏王フィリップ3世の子ヴァロワ伯シャルルを指名したことによる十字軍だが、アラゴンに撃退される | 1284 | 1284 | ||||||
1285 | 9.4 フォルミゲスの海戦 ○アラゴン:ディ・ラウリア●仏、ジェノヴァ 9.30-10.1 パニサルス峠の戦い ○アラゴン:ペドロ3世、ディ・ラウリア●仏:フィリップ3世 10.5 仏王フィリップ3世大胆王陣没 11.2 アラゴン王ペドロ3世没 |
←この年、シチリアの晩祷戦争の当事者であるシチリア王カルロ1世(シャルル・ダンジュー)、ローマ教皇マルティヌス4世、フランス王フィリップ3世、アラゴン王ペドロ3世は全員死亡する | 1285 | 1-6. 第2次元越戦争 ◯陳朝ベトナム(越):仁宗、チャン・クォック・トアン(陳国峻)●元:鎮南王トガン(クビライの庶子) ※南越のチャンパ朝を攻撃するために域内通過を求める元を越が拒否。越は今回も首都昇竜を落とされるがゲリラ戦と焦土作戦で抵抗し元を撤退に追い込む |
1285 | |||||||
1286 | 1286 | 4.ナヤン・カダアンの乱(-1292) ○モンゴル(元)●東道諸王※ ※チンギス・ハーンの弟たちの後裔にあたるモンゴル高原東方に領地を持つ諸王家で、ナヤンはそのうち最大のオッチギン家当主。その死後に乱を主導したのがカチウン家のカダアン |
1286 | |||||||||
1287 | 6.23 伯爵の戦い ○アラゴン:ディ・ラウリア●アンジュー:レイナルト3世、ナルジョ・ド・トゥーシー |
1287 | パガンの戦い ◯元:エセン・テムル●パガン朝ビルマ:チョウスワー ※パガン朝の事実上の滅亡 12. 第3次元越戦争(-1288) ◯陳朝ベトナム(越)●元 ※2度の遠征に失敗したクビライは息子トガンに9万の大軍を授けて本格的に陳朝ベトナム攻略に乗り出し、三度昇竜を占領する |
6.サラドゥルの戦い ○モンゴル:クビライ、李庭、ボロカン●ナヤン軍:タブタイ、金剛奴 7.シラ・オルドの戦い ○クビライ●ナヤン |
1287 | |||||||
1288 | 1288 | 雲屯(ヴァンドン)の戦い ○越:陳慶余●元:張文虎 4.9 白藤江の戦い (バクダンの戦い) ◯越:陳国峻、陳聖宗●元:トガン、ウマル ※雲屯で輜重船団を失い、昇竜でも焦土戦術で食料を得られなかったトガンは撤退を決意するが白藤江で越の計略に嵌り壊滅 |
←クビライは4回目のベトナム侵攻を企図するが自らの死で果たせず | 1288 | ||||||||
1289 | 1289 | 1289 | ||||||||||
1290 | 7.10 ハンガリー王ラースロー4世暗殺 | 1290 | ジャラールッディーン、奴隷王朝スルターンのカイクバードを殺しハルジー朝を樹立 ※奴隷王朝滅亡 |
1290 | ||||||||
1291 | 7.15 神聖ローマ皇帝ルドルフ1世没 8.1 ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの3州、強圧的な統治を行うルドルフの子アルブレヒト(スイス発祥のハプスブルク家出身)に対抗して原初同盟(盟約者団)を結成 ※スイス連邦成立の日とされ、後にシュヴィーツ(スイス)が国名となる |
2.19 タラスコン条約 ※アラゴン王をペドロ3世から継承したアルフォンソ3世が破門を解かれる |
1291 | アッコン(アッコ)の陥落 ○マムルーク朝:アシュラフ・ハリール●エルサレム王国:アンリ2世 ※エルサレム王国滅亡し十字軍は聖地を失う |
1291 | |||||||
1292 | 5.5 選帝侯会議、神聖ローマ皇帝にナッサウ伯アドルフを選出 ※勢力を拡大するハプスブルク家のアルブレヒトではなく、弱小のナッサウ伯を選ぶが、アドルフは積極的に対外戦争を行い諸侯の支持を失う |
1292 | カダアン父子、高麗で元・高麗連合軍に敗死 (ナヤン・カダアンの乱終結) |
1292 | ||||||||
1293 | 1293 | 1293 | ||||||||||
1294 | 第2次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争(クルツォラ戦争:-99) △ジェノヴァ▲ヴェネツィア |
1294 | クビライ・カン没 | 1294 | ||||||||
1295 | 1295 | 1295 | ||||||||||
1296 | 第1次スコットランド独立戦争(-1328) ◯スコットランド(ス)●イングランド 3.30 ベリック略奪 ○英:ロバート・クリフォード●ス:ダグラス卿ウィリアム・ハーディ 4.27 ダンバーの戦い ◯英:ジョン・ド・ワーレン●ス:ジョン・ベイリャル |
1296 | 1296 | |||||||||
1297 | 5.ラナーク事件 ○ス:ウィリアム・ウォレス●英:ウィリアム・ヘッセルリグ 6. スコーン襲撃 ○ス:W・ウォレス、ダグラス卿●英:ウィリアム・デ・オルメスビー 9.11 スターリング・ブリッジの戦い ○ス:W・ウォレス●英:サリー伯ジョン・ド・ワーレン |
フランス・フランドル戦争(-1305) △フランス△フランドル伯国(フ) |
1297 | 1297 | ||||||||
1298 | 7.22 フォルカークの戦い ○英:エドワード1世●ス:W・ウォレス ※英ではロングボウ部隊の有効性が実証され、スのW・ウォレスは失脚 |
6.23 神聖ローマ皇帝アドルフ、選帝侯会議で廃位 7.2ゲルハイムの戦い ○墺:アルブレヒト1世●ナッサウ伯アドルフ ※一騎打ちで決着を付けたとも言われるアルブレヒトが後継の神聖ローマ皇帝(ローマ王)に推挙される |
9.8 クルツォラの海戦 ○ジェノバ:ランバ・ドリア●ヴェネツィア:A・ダンドロ、M・クイリーニ ※ヴェネツィア軍に参加して捕虜になったマルコ・ポーロがジェノバの牢獄で口述筆記したのが「東方見聞録」とも伝わる |
1298 | 1298 | |||||||
1299 | 7.4 オルランド岬の海戦 ○アラゴン:ディ・ラウリア、アンジュー●シチリア:コンラッド・ドリア 12.1 ファルコナーラの海戦 ○シチリア:フェデリーコ2世●ナポリ:タラント公フィリッポ1世 |
オスマン、ルーム・セルジューク朝からの独立を宣言 ※オスマン帝国(-1922)の成立 |
1299 | オスマン1世、ルーム・セルジューク朝からの独立を宣言 ※オスマン朝の建国(-1922) 12.22-23 第3次ホムスの戦い (ワーディル・ハズナダールの戦い) ○モンゴル(イルハン朝):ガザン・ハン、チョバン●マムルーク朝:ナースィル・ムハンマド |
1299 | |||||||
1300 | 6.14 ポンサの戦い ○アラゴン:ディ・ラウリア、アンジュー●シチリア:C・ドリア |
1300 | 1300 | |||||||||
南北アメリカ | 北ヨーロッパ (英国、北欧、バルト三国) |
西ヨーロッパ (仏、独、墺、ベネルクス、スイス) |
東ヨーロッパ・ロシア (ポーランド、チェコ、ハンガリー以東) |
南ヨーロッパ (イベリア半島、イタリア) |
東南ヨーロッパ (ギリシャ、バルカン、ブルガリア、トルコ) | アフリカ | 西・中央アジア(アラビア半島、ペルシア、アフガン以西) | 南・東南アジア、オセアニア (パキスタン以東) |
東アジア | |||
1301 | 1301 | 8.1 テケリクの戦い ○元:カイシャン、チョンウル、オチチェル●カイドゥ軍:カイドゥ、ドゥア 8.3 カラ・カダの戦い ○元:カイシャン、オチチェル、ナンギャダイ、チョンウル●カイドゥ軍:カイドゥ、ドゥア |
1301 | |||||||||
1302 | 5.18 ブルッヘ(ブルージュ)の早課 ※ピーテル・デ・コニンク、ヤン・ブレイデルらがブルッヘに駐屯する仏軍を襲撃した事件 7.11 金拍車の戦い (コルトレイク/クルトレーの戦い) ○フ:ウィレム・ファン・ヒューリック●仏:アルトワ伯ロベール、ラウル2世・ド・クレルモン、ジャック・ド・シャティヨン |
8.31 カルタベッロッタの和平 ※シチリア晩祷戦争の講和条約 シチリア島はアラゴン王国、南イタリアはアンジュー家の支配とする |
1302 | 1302 | ||||||||
1303 | 4.4 アルクの戦い ○フ:ウィリアム・ユーリッヒ●仏:ジャック・ド・バイヨンヌ |
9.7 アナーニ事件 ※ローマ教皇ボニファティウス8世と対立した仏王フィリップ4世、教皇をイタリアのアナーニで捕え、憤死(10.11)させる |
1303 | 4.20-22 マージ・アル・サファーの戦い ○マムルーク朝:サラー、ムザッファル・バイバルス●モンゴル(イルハン朝):クトルグ・シャー、ムライ、キリキア:ヘトゥム2世 |
1303 | |||||||
1304 | 8.10-11 ジーリクゼーの海戦 ○仏・ホラント伯・ジェノヴァ:カーニュ領主レーニエ1世※●フ:ガイ・オブ・ナミュール ※現在のモナコ公国の実質的な創始者 8.18 モン・アン・ペヴェルの戦い ○仏:フィリップ4世、フルク・デュ・メール●フ:ウィリアム・ユーリッヒ、フィリップ・キエティ |
1304 | 1304 | |||||||||
1305 | 8.23 ウィリアム・ウォリス、イングランドに捕縛され処刑 | 6.23 アティス・シュル・オルジュ条約 ※ワロン・フランドル地方はフランス領となるが、フランドル伯領は独立を維持 |
1305 | 1305 | ||||||||
1306 | 6.19 メスヴェンの戦い ○英::ペンブルック伯エイマー・ド・ヴァランス●ス:ロバート・ブルース(ロバート1世) |
1306 | 1306 | |||||||||
1307 | 5.10 ロウドゥン・ヒルの戦い ○ス:ロバート1世●英:ペンブルック伯エイマー・ド・ヴァランス |
11.18 ○ヴィルヘルム(ウィリアム)・テル●息子の頭上の林檎 ○テル●ゲスラー代官 ※スイス独立にまつわる伝説。ハプスブルク家がオーストリアに拠点を移した後、代官支配となったスイス・ウーリ州での出来事とされる |
1307 | 1307 | ||||||||
1308 | 5.1 神聖ローマ皇帝(ローマ王)アルブレヒト1世、甥ヨーハンによって暗殺 11.選帝侯会議、ルクセンブルク伯ハインリヒをローマ王に推戴(ハインリヒ7世) |
1308 | 1308 | |||||||||
1309 | アヴィニョン捕囚(教皇のバビロン捕囚:-1377) ※フランス出身のローマ教皇クレメンス5世が仏王フィリップの要請で教皇庁をローマから南仏アヴィニョンに移す |
1309 | 1309 | |||||||||
1310 | 10.ローマ王ハインリヒ7世、戴冠式のためイタリア侵入(-13) ※アナーニ事件、アヴィニョン捕囚などローマ教皇への影響力を高めるフランスに対し、ローマ皇帝の座を維持するためのドイツの示威行動 |
1310 | 1310 | |||||||||
1311 | 1311 | 1311 | ||||||||||
1312 | 6.29 ハインリヒ7世、ローマで戴冠し62年ぶりに神聖ローマ皇帝となる ※イタリアの内乱でローマ到着まで2年を要し、教皇が不在(在アヴィニョン)のため枢機卿から冠を受ける |
1312 | 1312 | |||||||||
1313 | ハインリヒ7世の後継としてヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世とハプスブルク家のフリードリヒ3世(美王)が立候補し、選帝侯の支持も割れる ※どちらもルドルフ1世の孫 |
8.24 ハインリヒ7世、ナポリ遠征の途次病没 ※敵対するフランスや教皇派による暗殺とも |
1313 | 1313 | ||||||||
1314 | 6.23-24 バノックバーンの戦い ◯ス:ロバート1世●英:エドワード2世 |
1314 | 1314 | |||||||||
1315 | 11.15モルガルテンの戦い ○原初同盟:W・シュタウファッハ●ハプスブルク家:オーストリア公レオポルト1世 |
1315 | 1315 | |||||||||
1316 | 1316 | 1316 | ||||||||||
1317 | ブルサ包囲戦(26.4.6) ○オスマン帝国:オスマン1世、オルハン●ビザンツ帝国:サロス |
1317 | 1317 | |||||||||
1318 | 1318 | 1318 | ||||||||||
1319 | 1319 | 1319 | ||||||||||
1320 | アーブロース宣言 ※スコットランド、イングランドから独立 |
1320 | 1320 | |||||||||
1321 | 1321 | 1321 | ||||||||||
1322 | 3.16 バラブリッジの戦い ○英国王派:アンドリュー・ハークレイ●ランカスター伯爵派:ランカスター伯トマス、ヘレフォード伯 |
9.28 ミュールドルフの戦い ○ルートヴィヒ4世●フリードリヒ3世 |
1322 | 1322 | ||||||||
1323 | 1323 | 1323 | ||||||||||
1324 | 1324 | 1324 | ||||||||||
1325 | 1325 | 1325 | ||||||||||
1326 | 9.英王エドワード2世、王妃イザベラのクーデターで失脚・幽閉され、子のエドワード3世が即位 | 4.6 ブルサ陥落 ※オスマン1世、ブルサ包囲戦終盤に没。子オルハンが継承 |
1326 | 1326 | ||||||||
1327 | 9.英前王エドワード2世、王妃イザベラにより暗殺 | 1327 | 1327 | |||||||||
1328 | エジンバラ・ノーサンプトン条約でスコットランドの独立が承認される | 2.1 仏王シャルル4世没 5.29 フィリップ6世即位 ※カペー朝断絶とヴァロワ朝創始 ※シャルル4世の従兄弟フィリップに対し、シャルル4世の甥(姉の子)で英王エドワード3世も王位継承権を主張し、百年戦争につながる |
ニカイア包囲戦(-1331) ○オスマン帝国:オルハン1世●ビザンツ帝国:アンドロニコス3世パレオロゴス |
1328 | 1328 | |||||||
1329 | 6.7 スコットランド王ロバート1世没、子デイヴィッド2世が襲封 | 6.10-11 ペレカノンの戦い ○オスマン帝国:オルハン●ビザンツ帝国:アンドロニコス3世 |
1329 | 1329 | ||||||||
1330 | 10.英王エドワード3世、クーデターを起こし母イザベラを幽閉、その愛人モーディマーを処刑 | 8.テバの戦い ○カスティーリャ:アルフォンソ11世、ジェームズ・ダグラス●グラナダ:ウスマーン・ブン・アビ・アル・ウラ |
1330 | 1330 | ||||||||
1331 | 9.27 プウォフツェの戦い ○ポーランド:ヴワディスワフ1世●ドイツ騎士団:ディートリッヒ・フォン・アルテンブルク |
ニカイア(現イズニク)陥落 | 1331 | 1331 | ||||||||
1332 | 第2次スコットランド独立戦争(-1357) △スコットランド(ス)▲イングランド 8.ダブリン・ムーアの戦い ◯ベイリャル派:エドワード・ベイリャル●ブルース派(国王側):ドムナル2世、ロバート2世 |
1332 | 1332 | |||||||||
1333 | 7.ハリドン・ヒルの戦い ◯英:エドワード3世●ス:アーチボルト・ダグラス |
ニコメディア包囲戦(-1337) ○オスマン帝国:オルハン●ビザンツ帝国:アンドロニコス3世 |
1333 | 1333 | ||||||||
1334 | 1334 | 1334 | ||||||||||
1335 | 1335 | 1335 | ||||||||||
1336 | 1336 | インド南部にヴィジャヤナガル王国成立(-1649) | 1336 | |||||||||
1337 | 11.百年戦争(-1453.10) ○フランス●イングランド |
←当時のイングランド王室はフランス貴族出身でフランス語を話し、フランス本土にも広大な領地を持つなど異国同士の戦争というより内戦に近かった | ニコメディア(現イズミット)陥落 | 1337 | 1337 | |||||||
1338 | 1338 | 1338 | ||||||||||
1339 | 1339 | 1339 | ||||||||||
1340 | 6.23 スロイスの海戦 ○英:エドワード3世●仏:ユーグ・キエレ、ニコラ・ベユーシェ、ジェノバ:バルバヴェーラ |
1340 | 1340 | |||||||||
1341 | 4.30 ブルターニュ公ジャン3世、継承者を定めず没 ブルターニュ継承戦争 (百年戦争の戦役:-1364) ○モンフォール家、英●ブロワ家、仏 10.14-16 シャントソーの戦い(ルモーの戦い) ○ブロワ家●モンフォール家 |
←ブルターニュ家の継承争いに百年戦争中の英仏が介入し、代理戦争的意味合いを持つ | 1341 | 1341 | ||||||||
1342 | 9.30 モルレーの戦い ○ブロワ家/仏:シャルル・ド・ブロワ●モンフォール家/英:ノーザンプトン伯 |
1342 | 1342 | |||||||||
1343 | 1343 | 1343 | ||||||||||
1344 | 1344 | 1344 | ||||||||||
1345 | 1345 | 1345 | ||||||||||
1346 | 10.17 ネヴィルズ・クロスの戦い ◯英:ラルフ・ネヴィル、ヘンリー・ド・パーシー●ス:デヴィッド2世 ※百年戦争継戦中のイングランドにスコットランドが侵攻するが大敗して国王デヴィッド2世も捕虜になる |
8.26 クレシーの戦い ○英:エドワード3世、エドワード黒太子●仏:フィリップ6世、ルクセンブルク伯ヨハン, フランドル伯ルイ1世 9.4 カレー包囲戦(-1347.8.3) ○英:エドワード3世●仏:ジャン・ド・ヴィエンヌ |
←カレーは百年戦争後もイングランドに帰属し、1558年まで大陸唯一のイングランド領だった |
セルビア帝国(-1371)成立 ※セルビア王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンが皇帝に即位 |
1346 | 1346 | ||||||
1347 | 6.20 ラ・ロシュ=デリアンの戦い ○モンフォール家/英:トーマス・ダグワース●ブロワ家/仏:シャルル・ド・ブロワ(捕) |
1347 | 1347 | |||||||||
1348 | 1348 | 1348 | ||||||||||
1349 | 1349 | 1349 | ||||||||||
1350 | 8.29 ウィンチェルシーの海戦 (レ・ゼスパニョール・シュール・メールの海戦) ○英:エドワード3世、エドワード黒太子●カスティーリャ:シャルル・デ・ラ・セルダ、ジェノヴァ |
第三次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争(-55) △ジェノヴァ▲ヴェネツィア |
1350 | 1350 | ||||||||
1351 | 3.26 30人の戦い ○ブロワ家/仏:ジャン・ド・ボーマノワール●モンフォール家/英:ロバート・ベンバラ |
1351 | 紅巾の乱(-1366) ○白蓮教団(紅巾賊)→朱元璋●元朝 ※白蓮教徒の韓山童、北宋・徽宗の末裔と称し河南で挙兵。間もなく鎮圧されるが紅巾の乱の発端となる |
1351 | ||||||||
1352 | 8.14 モーロンの戦い ○モンフォール家/英:ウォルター・ベントレー●ブロワ家/仏:ネスレ卿ギー2世、ジャン・ド・ボーマノワール |
1352 | 1352 | |||||||||
1353 | スイスの原初同盟にチューリヒ、ルツェルン等が加わり八州同盟が成立 | 1353 | イル・ハン国滅亡 | 張士誠、江南で挙兵 | 1353 | |||||||
1354 | 1354 | 1354 | ||||||||||
1355 | 8.ネスビット・ムーアの戦い ◯ス:マーチ伯パトリック、ウィリアム・ダグラス●英:トーマス・グレイ、ウィリアム・デーカー |
1355 | 1355 | |||||||||
1356 | 1.10 神聖ローマ皇帝カール4世、金印勅書を発布 ※神聖ローマ皇帝を選出する七選帝侯を規定(ドイツの領邦国家体制が19世紀まで続く要因となる) 9.19 ポワティエの戦い ○英:エドワード黒太子、ジャン3世・ド・グライー●仏:ジャン2世(捕)、ドーファン・シャルル、フィリップ2世、ブルボン公ピエール |
1356 | 1356 | |||||||||
1357 | ベリック条約 イングランドが捕虜のスコットランド王デヴィッド2世を釈放し、スコットランドはその身代金を払う形で休戦 |
1357 | 1357 | |||||||||
1358 | 5.ジャックリーの乱 ※フランス国内の農民(蔑称ジャック)の大規模反乱 6.10メロの戦い ◯仏:ナバラ王カルロス2世●農民反乱軍:ギョーム・カルル |
1358 | 1358 | |||||||||
1359 | 1359 | 1359 | ||||||||||
1360 | 5.8 プレティニー・カレー条約 ※百年戦争の休戦条約 大陸におけるイングランド領地が最大となる |
1360 | 1360 | |||||||||
1361 | 1361 | 1361 | ||||||||||
1362 | エドワード3世、英語をイングランドの公用語と定める ※1066年以降使われてきたフランス語(アングロ・ノルマン語)の使用を禁止 |
1362 | 1362 | |||||||||
1363 | 1363 | →小型船主体の朱元璋軍が大型船主体の陳友諒軍を火攻めで破った戦いは、この時代の有力者・張士誠に仕えた羅貫中が三国志演義で赤壁の戦いを描くヒントになったとされる。 | 7.鄱陽湖の戦い ◯朱元璋、劉基●陳友諒、陳友仁 ※紅巾の乱に始まる混乱を勝ち抜いた朱元璋と陳友諒の決戦。 |
1363 | ||||||||
1364 | 5.16 コシュレルの戦い ○仏:ベルトラン・デュ・ゲクラン●ナバラ:ジャン・ド・グライー、英 9.29 オーレの戦い ○モンフォール家/英:ジャン4世●ブロワ家/仏:シャルル・ド・ブロワ ※ブルターニュ継承戦争が終結し、モンフォール家(ドルー家)がブルターニュ公国を継承 |
カッシーナの戦い ◯フィレンツェ:ガレオット1世マラテスタ●ピサ:J・ホークウッド |
1364 | 1364 | ||||||||
1365 | 1365 | 1365 | ||||||||||
1366 | 第1次カスティーリャ継承戦争(-1369) ○トラスタマラ伯エンリケ(後のエンリケ2世)、フランス、アラゴン●ペドロ1世、イングランド |
←カスティーリャ王国のエンリケ2世(トラスタマラ伯エンリケ)とペドロ1世という異母兄弟による王位争いを英仏がそれぞれ後援した、スペインにおける百年戦争の代理戦争 | 1366 | 隆平府包囲戦(-1367.9) ○朱元璋●張士誠 ※陳友諒を破った朱元璋、最後のライバル張士誠を本拠地隆平府に攻め滅ぼす |
1366 | |||||||
1367 | 4.3 ナヘラの戦い ○ペドロ1世、英:エドワード黒太子●エンリケ、仏:ベルトラン・デュ・ゲクラン |
1367 | 1367 | |||||||||
1368 | 1368 | 1.朱元璋(太祖洪武帝)、明朝(首都南京)を樹立 ※中国の統一王朝で初めて江南に都が置かれる |
1368 | |||||||||
1369 | 3.14 モンティエルの戦い ○エンリケ、仏:ゲクラン●ペドロ1世 ※ペドロ1世を謀殺したトラスタマラ伯エンリケがカスティーリャ王に即位(エンリケ2世)し戦争終結 |
1369 | 1369 | |||||||||
1370 | 12.4 ポンヴァヤンの戦い ○仏:ゲクラン、ブルゴーニュ:オリヴィエ・ド・クリッソン●英:ロバート・ノールズ |
1370 | ティムール、サマルカンドを都とするティムール朝を創始 | 1370 | ||||||||
1371 | 9.26 マリツァの戦い ○オスマン帝国:ララ・シャヒーン・パシャ●反オスマン連合:セルビア皇帝ウロシュ5世、プリレプ僭主ヴカシン、セラエ僭主ウグリェシャ 12.ウロシュ5世死亡しセルビア帝国断絶、ラザル・フレベリャノヴィチを君主とするセルビア公国成立(-1459) |
1371 | 1371 | |||||||||
1372 | 6.22-23 ラ・ロシェルの海戦 ○カスティーリャ:アンブロシオ・ボッカネグラ、仏●英:ペンブルック伯ジョン・ヘイスティングス |
1372 | 1372 | |||||||||
1373 | 英葡永久同盟締結 ※現在まで続く世界最古の同盟 |
英葡永久同盟締結 ※現在まで続く世界最古の同盟 |
1373 | 1373 | ||||||||
1374 | 1374 | 1374 | ||||||||||
1375 | 1375 | 1375 | ||||||||||
1376 | 1376 | 1376 | ||||||||||
1377 | 1.17教皇グレゴリウス11世、神聖ローマ皇帝の支援でローマに帰還 ※アヴィニョン捕囚の終結 第四次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争(キオッジャ戦争:-81) ○ヴェネツィア●ジェノヴァ |
1377 | 1377 | |||||||||
1378 | 9.20 大シスマ(教会大分裂、-1417) ※フランスがウルバヌス6世を認めずフランス系のクレメンス7世を擁立し、ローマとアヴィニョンに2人の教皇が並び立つ事態となる |
3.教皇グレゴリウス11世没、イタリア系のウルバヌス6世が後継教皇に選出 7.チオンピの乱(-82) ※フィレンツェの梳毛職人らの蜂起 |
1378 | 1378 | ||||||||
1379 | 5.プーラ(ポーラ)の海戦 ○ジェノヴァ:ルチアーノ・ドーリア●ヴェネツィア:ヴェットール・ピサーニ 7.リード・ブロンドロの海戦 ○ジェノヴァ:ピエトロ・ドーリア、パドヴァ、ハンガリー●ヴェネツィア 8.キオッジャ包囲戦(-80.6) ○ヴェネツィア:ピサーニ、カルロ・ゼーノ、元首アンドリオ・コンタリーニ●ジェノヴァ:P・ドーリア、マッテオ・マルッフォ |
1379 | 1379 | |||||||||
1380 | →日露戦争で日本海軍と戦ったロシアの戦艦ペレスヴェートとオスリャービャは、この戦いで活躍したモスクワ大公国の修道士英雄の名に因んでいる | 9.クリコヴォの戦い ○モスクワ大公国:ドミトリー・ドンスコイ●キプチャク・ハン国:ママイ ※「タタールのくびき」を脱却する端緒となるが、完全な解放にはさらに100年かかる |
6.24 キオッジャ包囲戦終結 ※包囲していたジェノヴァ軍がヴェネツィアに逆包囲され降伏 |
1380 | 胡惟庸の獄(-1390) ※洪武帝による大規模粛清の第1弾。宰相胡惟庸らが殺される。 |
1380 | ||||||
1381 | 5.ワット・タイラーの乱 ◯英:リチャード2世●農民反乱郡:ワット・タイラー |
トリノの和約 ※1256年以来のヴェネツィア・ジェノヴァ戦争が終結。ヴェネツィアが地中海の覇権を握り、ジェノヴァは衰退に向かう |
1381 | 1381 | ||||||||
1382 | 11.27 ローゼベーケの戦い ○仏:シャルル6世、フィリップ豪胆公、「屠殺者」オリヴィエ・ド・クリッソン●フランドル諸都市連合:フィリップ・ヴァン・アルテベルデ |
1382 | 1382 | |||||||||
1383 | 1383 | 1383 | ||||||||||
1384 | 1384 | 1384 | ||||||||||
1385 | 1385 | 1385 | ||||||||||
1386 | リトアニア大公ヨガイラ、ポーランド女王ヤドヴィガと結婚し、王配ヴワディスワフ2世ヤギェウォとなる (ポーランド・リトアニア連合の成立) |
7.9ゼンパハの戦い ○スイス盟約者団:ピーターマン・フォン・ガンドルディンゲン●オーストリア(ハプスブルク家):レオポルト3世 |
ポーランド女王(ハンガリー王の継承権も持つ)ヤドヴィガ、リトアニア大公ヨガイラと結婚 (ポーランド・リトアニア連合の成立) |
1386 | 1386 | |||||||
1387 | 1387 | イスファハーン包囲戦 ○ティムール朝:ティムール●ムザッファル朝:ザイヌル・アービディーン |
1387 | |||||||||
1388 | 8.5(8.19) オッターバーンの戦い ○スコットランド:ダグラス伯ジェームズ・ダグラス●イングランド:ヘンリー・ホットスパー・パーシー |
4.9 ネーフェルスの戦い ○スイス盟約者団●オーストリア(ハプスブルク家):アルブレヒト3世 |
1388 | 威化島回軍 ○反乱軍:李成桂(イ・ソンゲ)、曹敏修(チョ・ミンス)●高麗:崔瑩(チェ・ヨン) ※中国で明王朝が成立すると、親元の立場を取る高麗は李成桂と曹敏修を将ととする明討伐軍を派遣するが、両将は途中の威化島から引き返して首都開京を掌握、禑王を廃し子の昌王を擁立 5.18 ブイル・ノールの戦い ○明:永昌侯藍玉、延安侯唐勝宗、武定侯郭英●モンゴル:ウスハル・ハーン |
1388 | |||||||
1389 | 6.15 コソボの戦い ○オスマン帝国:ムラト1世、バヤズィト1世●セルビア:ラザル・フレベリャノヴィチ、ボスニア:ドヴルコ1世、ワラキア:ミルチャ1世 ※戦闘中に暗殺されたムラト1世を子バヤズィト1世が継承 ※以後、セルビアはオスマン帝国に臣従する |
1389 | 威化島回軍を成功させた李成桂と曹敏修が争い、曹敏修は失脚、昌王は廃されて父禑王と共に誅殺、恭譲王が即位 | 1389 | ||||||||
1390 | 1390 | 李善長の獄 ※洪武帝による大規模粛清の第2弾。初代左丞相李善長らが殺される。 |
1390 | |||||||||
1391 | 1391 | 1391 | ||||||||||
1392 | 1392 | 8.李成桂、恭譲王を廃し李氏朝鮮(-1897)を創始 ※当初は高麗王を継承。明王朝に昨封された1392.2に国号を「朝鮮」とする ※恭譲王の一族は2年後に処刑 |
1392 | |||||||||
1393 | 1393 | 藍玉の獄 ※洪武帝による粛清の第3弾。大将軍藍玉らが殺される。胡惟庸の獄からの一連の粛清激は「胡藍の獄」と総称され、3万人以上の功臣が粛清された。 |
1393 | |||||||||
1394 | 10.10 カラノヴァサの戦い ○ワラキア:ミルチャ1世●オスマン帝国:バヤズィト1世 |
1394 | 1394 | |||||||||
1395 | 5.17 ロヴィネの戦い ○ワラキア:ミルチャ1世●オスマン帝国:バヤズィト1世 |
1395 | 4.15 テレク河畔の戦い ○ティムール朝:ティムール●ジョチ・ウルス(キプチャクハン国):トクタミシュ |
1395 | ||||||||
1396 | 3.11 1426年まで30年間の英仏休戦協定が成立 | 9.25 ニコポリスの戦い (ニコポリス十字軍) ○オスマン帝国:バヤズィト1世、セルビア:ステファン1世 ●ハンガリー/神聖ローマ:ジギスムント、仏:ヌヴェール伯ジャン、フィリップ・ダルトワ、波、英、スコットランド、原初同盟、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ワラキア、ブルガリア |
1396 | 1396 | ||||||||
1397 | カルマル同盟締結(-1523) ※デンマーク・スウェーデン・ノルウェーの物的同君連合 |
1397 | (朝)第1次王子の乱 ○李芳遠●李芳碩、鄭道伝 ※李成桂(太祖)が世子とした末子芳碩(8男)らを異母兄芳遠(5男)らが殺害、太祖は2男芳果に譲位(定宗) |
1397 | ||||||||
1398 | 1398 | 4.ティムール、インド遠征 | 12.18 ティムール、デリー攻略 | 6.明の洪武帝(朱元璋)没、孫の朱允炆が即位(第2代建文帝) 建文帝、叔父にあたる周王、斉王、代王、岷王らを追放、湘王を自殺に追い込む |
1398 | |||||||
1399 | 9.29 イングランド国王リチャード2世、クーデターで廃位(プランタジネット朝断絶)、従兄ヘンリー・ボリングブルックがヘンリー4世として即位(ランカスター朝の創始) | 1399 | 10.30 アレッポの戦い ○ティムール朝:ティムール●マムルーク朝 |
ヤドゥ・ラーヤ、インド南部にマイソール王国(-1947)を建国 | 8.8.靖難の変(-1402.7.13) ◯燕王朱棣●建文帝 ※朱棣(朱元璋の4男)、甥の建文帝を倒して第3代永楽帝に即位 |
1399 | ||||||
1400 | 9.16 オワイン・グリンドゥールの乱(-1409) ○イングランド●ウェールズ反乱軍、フランス |
1400 | (朝)第2次王子の乱 ○李芳遠●李芳幹、朴苞 ※第1次王子の乱で権力を握った李芳遠に同母兄芳幹が叛くが敗れて流刑、乱後定宗は同母弟芳遠に譲位(太宗) |
1400 | ||||||||
1401-1700年表 | ||||||||||||
南北アメリカ | 北ヨーロッパ (英国、北欧、バルト三国) |
西ヨーロッパ (仏、独、墺、ベネルクス、スイス) |
東ヨーロッパ・ロシア (ポーランド、チェコ、ハンガリー以東) |
南ヨーロッパ (イベリア半島、イタリア) |
東南ヨーロッパ (ギリシャ、バルカン、ブルガリア、トルコ) | アフリカ | 西・中央アジア(アラビア半島、ペルシア、アフガン以西) | 南・東南アジア、オセアニア (パキスタン以東) |
東アジア |