南北アメリカ | 北ヨーロッパ (英国、北欧、バルト三国) |
西ヨーロッパ (仏、独、墺、ベネルクス、スイス) |
東ヨーロッパ・ロシア (ポーランド、チェコ、ハンガリー以東) |
南ヨーロッパ (イベリア半島、イタリア) |
東南ヨーロッパ (ギリシャ、バルカン、ブルガリア、トルコ) | アフリカ | 西・中央アジア(アラビア半島、ペルシア、アフガン以西) | 南・東南アジア、オセアニア (パキスタン以東) |
東アジア | |||
BC200-AD300年表 | ||||||||||||
301 | 301 | 1.司馬倫、恵帝から帝位を簒奪 3-4.斉王司馬冏(司馬炎の同母弟司馬攸の子、八王の4)が反司馬倫で挙兵し司馬穎、司馬顒、司馬乂、司馬歆らが呼応 司馬倫は部下に殺され恵帝が復位し、司馬冏が権力を掌握 |
301 | |||||||||
302 | 302 | 12.長沙王司馬乂(司馬炎17男、恵帝異母弟、司馬瑋同母弟、八王の5)が反司馬冏で挙兵、司馬冏は部下に捕らえられ処刑 | 302 | |||||||||
303 | 303 | 8.成都王司馬穎(司馬炎19男、司馬乂異母弟、八王の6)と河間王司馬顒(司馬懿弟司馬孚の孫、八王の7)、反司馬乂で挙兵 | 303 | |||||||||
304 | 304 | 1.司馬乂、司馬越の裏切りで幽閉され処刑、司馬顒が権力を掌握し、司馬穎が皇太弟となる 7.司馬越(司馬懿の弟司馬馗の孫、八王の8)、反司馬穎で挙兵するも司馬穎に敗れ、皇帝を奪われ領国へ敗走 8.都督幽州諸軍事王浚と東嬴公司馬騰、反司馬穎で挙兵。司馬穎は洛陽へ逃走し失脚 10.司馬穎に招聘された匈奴の劉淵、大単于を称し晋から自立 国号を漢(後の前趙)とする ※永嘉の乱の始まり(-316) ※五胡十六国時代の始まり 12.司馬穎は皇太弟を廃され、司馬熾(後の懐帝)が皇太子となる |
304 | |||||||||
305 | 西方正帝マクシミアヌス退位、コンスタンティウス・クロルスが正帝昇格※、フラウィウス・ウァレリウス・セウェルスが副帝となる ※コンスタンティヌス朝の創始 |
東方正帝ディオクレティアヌス退位、ガレリウスが正帝昇格、マクシミヌス・ダイアが副帝となる | 305 | 7.司馬越、司馬顒討伐を掲げて徐州で挙兵、同月、司馬穎の配下武将、司馬穎復権を掲げて趙魏で挙兵、司馬顒は司馬穎を復職させる | 305 | |||||||
306 | 7.25 西方正帝コンスタンティウス、エボラクム(現ヨーク)で没、子のコンスタティヌスが帝位を僭称 | 西方正帝コンスタンティウスの死に伴いセウェルスが正帝昇格 テトラルキア内戦(-324) マクシミアヌスの子マクセンティウス、ローマで反乱を起こし、引退した父マクシミアヌスを正帝に復帰させる |
306 | 10.司馬穎、恵帝の命で捕縛され処刑 11.晋の2代皇帝恵帝、東海王司馬越に殺害され、異母弟司馬熾が3代皇帝(懐帝)に即位 12.司馬顒、司馬越の弟司馬模が殺害 ※八王の乱終結 |
306 | |||||||
307 | 西方正帝セウェルス、マクセンティウス追討のためローマへ進軍するが、兵の大半が旧主マクシミアヌスに寝返り大敗、ラヴェンナで降伏し、9/16に処刑 東方正帝ガレリウス、マクセンティウス追討のためローマへ進軍するがマクシミアヌス・マクセンティウス父子方へ多くの兵が寝返り撤退 |
307 | 307 | |||||||||
308 | 11.11 東方正帝ガレリウス、親友リキニウスを正帝に就け、自らは半ば引退 | 308 | 308 | |||||||||
309 | 309 | 309 | ||||||||||
310 | ガレリウス、コンスタンティヌスを正帝として承認 | 310 | 310 | |||||||||
311 | 春.コンスタンティヌス、マクシミアヌスを殺害 | 5.11 ガレリウス帝没、甥のマクシミヌス・ダイア、リキニウスと並ぶ東方正帝を称する | 311 | 3.司馬越、懐帝と対立して洛陽を去り憤死 6.漢(匈奴)の石勒ら、洛陽を占拠し懐帝を捕縛(後に処刑) ※西晋の実質的な滅亡 |
311 | |||||||
312 | タウリノルム(トリノ)の戦い ○コンスタンティヌス●マクセンティウス ヴェローナの戦い ○コンスタンティヌス●マクセンティウス軍:ルリシウス・ポンペイアヌス 10.28 ミルウィウス橋の戦い ○コンスタンティヌス ●マクセンティウス |
312 | 312 | |||||||||
313 | 3.ミラノ勅令 ※西方正帝コンスタンティヌスと東方正帝リキニウスがキリスト教を公認し、1世紀のネロ帝以来のキリスト教弾圧が終了する |
4.30 ツィラッルムの戦い ○リキニウス●マクシミヌス・ダイア 8. マクシミヌス・ダイア没 |
313 | 高句麗、楽浪郡を滅ぼす | 313 | |||||||
314 | 10.8 キバラエの戦い ○コンスタンティヌス●リキニウス ※316年のこととも |
314 | 314 | |||||||||
315 | 315 | 315 | ||||||||||
316 | 316 | 長安、漢により陥落し西晋滅亡 | 316 | |||||||||
317 | 初頭.マルディアの戦い ○コンスタンティヌス●リキニウス、ウァレニウス・ウァレンス ※316年末のこととも |
317 | 3.司馬睿、建業を都として東晋を建国、建業を建康と改める | 317 | ||||||||
318 | 318 | 318 | ||||||||||
319 | 319 | 319 | ||||||||||
320 | 320 | チャンドラグプタ1世、インド北部にグプタ朝(-550頃)を創始(首都パータリプトラ) | ←マウリヤ朝の創始者チャンドラグプタと血縁関係はない | 320 | ||||||||
321 | 321 | 321 | ||||||||||
322 | 322 | 322 | ||||||||||
323 | 323 | 323 | ||||||||||
324 | 7.3 第1次アドリアノープルの戦い(ハドリアノポリスの戦い) ○コンスタンティヌス●リキニウス 7.ヘレスポンテスの海戦 ○コンスタンティヌス艦隊:クリスプス●リキニウス艦隊:アマントゥス 9.18 クリュソポリスの戦い ○コンスタンティヌス●リキニウス ※コンスタンティヌス1世(大帝)、東西ローマを統一 |
324 | 324 | |||||||||
325 | 5-6 第1ニカイア公会議 ローマに公認されたキリスト教の教義の解釈を統一するための最初の公会議。イエスの神性を認めるアタナシウス派が正統、イエスを神の従属するものとするアリウス派が異端とされた。 |
325 | 325 | |||||||||
326 | 326 | 326 | ||||||||||
327 | 327 | 327 | ||||||||||
328 | 328 | 328 | ||||||||||
329 | 329 | 329 | ||||||||||
330 | 5.11 コンスタンティヌス帝、植民都市ビュザンティオンに新首都を建設しコンスタンティノープルと改める | 330 | 330 | |||||||||
331 | 331 | 331 | ||||||||||
332 | 332 | 332 | ||||||||||
333 | 333 | 333 | ||||||||||
334 | 334 | 334 | ||||||||||
335 | 335 | チャンドラグプタ1世没、子サムドラグプタが継承 ※サムドラグプタは治世中に北インド各地へ遠征し、ベンガル湾からアラビア海に及ぶ広大な帝国を築く |
335 | |||||||||
336 | 336 | 336 | ||||||||||
337 | 337 | 337 | ||||||||||
338 | 338 | 338 | ||||||||||
339 | 339 | 339 | ||||||||||
340 | 340 | 340 | ||||||||||
341 | 341 | 341 | ||||||||||
342 | 342 | 342 | ||||||||||
343 | 343 | 343 | ||||||||||
344 | 344 | 344 | ||||||||||
345 | 345 | 345 | ||||||||||
346 | 346 | 346 | ||||||||||
347 | 347 | 347 | ||||||||||
348 | 348 | 348 | ||||||||||
349 | 349 | 349 | ||||||||||
350 | 350 | 350 | ||||||||||
351 | 9.28 ムルサの戦い ○皇帝コンスタンティヌス2世●僭称皇帝マグネンティウス |
351 | 1.氐族の苻健、前秦を建国 | 351 | ||||||||
352 | 352 | 352 | ||||||||||
353 | 僭称皇帝マグネンティウスと弟の副帝デケンティウス自殺 | 353 | 353 | |||||||||
354 | 354 | 354 | ||||||||||
355 | 355 | 355 | ||||||||||
356 | 356 | 356 | ||||||||||
357 | アルゲントラトゥムの戦い(ストラスブールの戦い) ○ローマ帝国:ユリアヌス●アラマンニ族:クノドマル |
357 | 357 | |||||||||
358 | 358 | 358 | ||||||||||
359 | 359 | 359 | ||||||||||
360 | 360 | 360 | ||||||||||
361 | 12.ユリアヌス、ローマ皇帝に即位 | 361 | 361 | |||||||||
362 | ローマ皇帝ユリアヌス、キリスト教優遇政策を止め異教を奨励する ※後世「背教者」と呼ばれる |
362 | 362 | |||||||||
363 | 3.5 ユリアヌス帝、ペルシアに出征 | 363 | 5.29 クテシフォンの戦い △東ローマ:ユリアヌス▲サーサーン朝ペルシア:メレナ、スレナ 6.26 サマラの戦い △ペルシア:メレナ、ノホダレス▲東ローマ:ユリアヌス、アナトリウス ※ユリアヌス帝、撤退中に戦死 |
363 | ||||||||
364 | 364 | 364 | ||||||||||
365 | 365 | 365 | ||||||||||
366 | 366 | 366 | ||||||||||
367 | 367 | 367 | ||||||||||
368 | 368 | 368 | ||||||||||
369 | 369 | 369 | ||||||||||
370 | 370 | 370 | ||||||||||
371 | 371 | 371 | ||||||||||
372 | 372 | 372 | ||||||||||
373 | 373 | 373 | ||||||||||
374 | 374 | 374 | ||||||||||
375 | 中央アジア発祥の遊牧民族・フン族に圧迫された西ゴート族がドナウ川を超えてローマ帝国の領域内に侵入する ※ゲルマン民族大移動の始まり |
375 | 375 | |||||||||
376 | ゴート戦争(-382) ○ゴート族●ローマ帝国 マルキアノポリスの戦い ○ゴート族:フリティゲルン●ローマ帝国:ルピキヌス |
376 | サムドラグプタ没、子チャンドラグプタ2世即位(〜415) ※グプタ朝の最盛期 |
376 | ||||||||
377 | 377 | 377 | ||||||||||
378 | 8.9 アドリアノープルの戦い (ハドリアノポリスの戦い) ○西ゴート:フリティゲルン、東ゴート:アラテウス、サフラクス ●ローマ帝国:東方正帝ウァレンス ※ローマ帝国にとってカンナエ以来の大敗北 |
378 | 378 | |||||||||
379 | 西方正帝グラティアヌス、テオドシウスをウァレンス後継の東方正帝にする | 379 | 379 | |||||||||
380 | 380 | 380 | ||||||||||
381 | 381 | 381 | ||||||||||
382 | 382 | 382 | ||||||||||
383 | ブリタニア軍司令官のマグヌス・マクシヌス、ローマ皇帝を宣してガリアへ侵攻 | 8.25 西方正帝グラティアヌス、マクシヌスを迎撃するが敗れルグドゥヌム(現リヨン)で処刑 | 383 | 10.淝水の戦い ○東晋:謝石、謝玄●前秦:苻堅、苻融 |
383 | |||||||
384 | 384 | 384 | ||||||||||
385 | 385 | 385 | ||||||||||
386 | 386 | 1.北魏建国 | 386 | |||||||||
387 | 西方正帝マクシムス、共同皇帝ウァレンティヌス2世を追放、ウァレンティヌスは東方正帝テオドシウスを頼る | 387 | 387 | |||||||||
388 | 8.28 皇帝マクシムス、アクイレイアで処刑 テオドシウス、ウァレンティヌス2世を西方正帝に復帰させる |
サヴァ川の戦い ○テオドシウス●マクシムス |
388 | 388 | ||||||||
389 | 389 | 389 | ||||||||||
390 | 390 | 390 | ||||||||||
391 | 391 | 391 | ||||||||||
392 | 5.15 テオドシウスの傀儡となっていたウァレンティヌス2世が謎の縊死 8.22 エウゲニウスが西方正帝となり、古代ローマの伝統宗教を容認する |
東方正帝テオドシウス、キリスト教を「国教」とする | 392 | 392 | ||||||||
393 | 393 | 393 | ||||||||||
394 | 9.5 フリギドゥスの戦い ◯テオドシウス●エウゲニウス ※テオドシウスが事実上の統一ローマ皇帝となる |
テオドシウス、イタリアへ進軍 | 394 | 394 | ||||||||
395 | 1.17 テオドシウス帝メディオラヌムで没、次男ホノリウスが西ローマ皇帝となる | 1.17 テオドシウス帝メディオラヌムで没、長男アルカディウスが東ローマ皇帝となる | 395 | ←ローマ帝国の東西分裂 帝国の分割統治は過去にもあったが、この後帝国が統一されることがなかったため、テオドシウスの死をもってローマ帝国分裂とされる |
←ただし、「東西ローマ」はあくまでも後世の呼称であり、当時は1つの「ローマ帝国」と認識されていた | 11.参合陂の戦い ○北魏:拓跋珪(道武帝)、拓跋虔●後燕:慕容宝 |
395 | |||||
396 | 396 | 396 | ||||||||||
397 | 397 | 397 | ||||||||||
398 | 398 | 398 | ||||||||||
399 | 399 | 399 | ||||||||||
400 | 400 | 400 | ||||||||||
南北アメリカ | 北ヨーロッパ (英国、北欧、バルト三国) |
西ヨーロッパ (仏、独、墺、ベネルクス、スイス) |
東ヨーロッパ・ロシア (ポーランド、チェコ、ハンガリー以東) |
南ヨーロッパ (イベリア半島、イタリア) |
東南ヨーロッパ (ギリシャ、バルカン、ブルガリア、トルコ) | アフリカ | 西・中央アジア(アラビア半島、ペルシア、アフガン以西) | 南・東南アジア、オセアニア (パキスタン以東) |
東アジア | |||
401 | 401 | 401 | ||||||||||
402 | 4.6 ポレンティアの戦い ○西ローマ帝国:スティリコ●西ゴート:アラリック 6. ヴェローナの戦い ○西ローマ:スティリコ●西ゴート:アラリック |
402 | 5.柴壁の戦い ○北魏:道武帝●後秦:姚興、姚平 |
402 | ||||||||
403 | 403 | 403 | ||||||||||
404 | 404 | 404 | ||||||||||
405 | 405 | 405 | ||||||||||
406 | 12.31 ヴァンダル族、ライン川を超えてガリアへ侵入 | 406 | 406 | |||||||||
407 | 407 | 407 | ||||||||||
408 | 408 | 408 | ||||||||||
409 | →アングロ・サクソンはユトランド半島(現デンマーク)から移動してきたゲルマン民族(ジュート人・アングル人・サクソン人)の総称。やがて最も有力になった「アングル人の土地」という意味で「イングランド」の名称が定着する | ローマ皇帝ホノリウス、ブリタンニアの支配権を放棄 ※ブリタンニアにアングロ・サクソン系の王国が乱立する「ヘプターキー(七王国)時代(-825)」の幕開け |
10.ヴァンダル族、ピレネー山脈を超えイベリアに侵入 ※ヴァンダルは「アンダルシア」の語源 |
409 | 409 | |||||||
410 | 8.ローマ劫略 ※西ゴートのアラリック1世、ローマを侵略 |
410 | 410 | |||||||||
411 | 411 | 411 | ||||||||||
412 | 412 | 412 | ||||||||||
413 | 413 | 413 | ||||||||||
414 | 414 | 414 | ||||||||||
415 | 8.15 西ゴート王アタウルフ暗殺 8.22 西ゴート王シゲリック暗殺 西ゴート王ワリサ、西ローマ帝国と和解 |
415 | 415 | |||||||||
416 | 416 | 416 | ||||||||||
417 | 417 | 417 | ||||||||||
418 | ワロサ、トロサ(現トゥールーズ)を都に西ゴート(ヴィシゴート)王国を建国 (現在の南仏、イベリア半島) |
←ワロサ、西ゴート王国を建国 (現在の南仏、イベリア半島) |
418 | 418 | ||||||||
419 | 419 | 419 | ||||||||||
420 | 420 | 劉裕、東晋の恭帝から禅譲を受けて宋(劉宋)を創始(-479) | 420 | |||||||||
421 | 421 | ローマ・サーサーン戦争(-422) | 421 | |||||||||
422 | 422 | 422 | ||||||||||
423 | 423 | 423 | ||||||||||
424 | 424 | 424 | ||||||||||
425 | 425 | 425 | ||||||||||
426 | 426 | 426 | ||||||||||
427 | 427 | 427 | ||||||||||
428 | 428 | 428 | ||||||||||
429 | 429 | ヴァンダル族のガイセリック(ゲンセリック)、ジブラルタル海峡を渡りアフリカを東進 | 429 | |||||||||
430 | 430 | 430 | ||||||||||
431 | 431 | 431 | ||||||||||
432 | リミニの戦い ○ボニファティウス●アエティウス |
432 | 432 | |||||||||
433 | 433 | 433 | ||||||||||
434 | 434 | 434 | ||||||||||
435 | 435 | ガイセリック、北アフリカにヴァンダル王国を建国 | 435 | |||||||||
436 | 436 | 北魏、北燕(五胡十六国)を滅ぼす | 436 | |||||||||
437 | 437 | 437 | ||||||||||
438 | 438 | 438 | ||||||||||
439 | 439 | ヴァンダル王国、ローマ領カルタゴを占領して都とする | 北魏、北涼を滅ぼし華北を統一 ※五胡十六国時代の終焉 |
439 | ||||||||
440 | 440 | この頃、現在のアフガニスタン北部に遊牧国家エフタルが成立(-567) | 440 | |||||||||
441 | 441 | 441 | ||||||||||
442 | 442 | 北魏、後仇池を滅ぼす ※五胡十六国時代の終焉をこの年とする場合もある |
442 | |||||||||
443 | 443 | 443 | ||||||||||
444 | 444 | 444 | ||||||||||
445 | 445 | 445 | ||||||||||
446 | 446 | 446 | ||||||||||
447 | ウトゥスの戦い ◯フン:アッティラ●東ローマ:アレネギスクロス |
447 | 447 | |||||||||
448 | 448 | 448 | ||||||||||
449 | 449 | 449 | ||||||||||
450 | 450 | 450 | ||||||||||
451 | →ローマは西ゴート、ブルグント、フランクなどの支援でフンを撃退するが自らも大損害を受け弱体化し、ガリアではフランク族が勢力を伸ばす | 6.20 カタラウヌムの戦い (シャロンの戦い) △西ローマ帝国:アエティウス、西ゴート王国:テオドリック1世、フランク族:メロヴィス▲フン:アッティラ |
451 | 451 | ||||||||
452 | アッティラ、北イタリアに侵攻し、ミラノ、アクイレイアを陥とすがローマ教皇レオ1世の説得で退去 | ←この時、アクイレイアの住民が守りやすい干潟に逃れて建設したのが後のヴェネツィア | 452 | 452 | ||||||||
453 | アッティラ、自らの婚礼の席で急死 ※長子エラクが継承するが配下のゲルマン部族が反旗を翻す |
453 | 453 | |||||||||
454 | ネダオ川の戦い ◯フン従属ゲルマン部族連合:ゲピド王アルダリック●フン:エラク |
9.21 西ローマの将軍アエティウス、皇帝ウァレンティアヌスにより刺殺される | 454 | 454 | ||||||||
455 | 3.16 皇帝ウァレンティアヌス、アエティウスの後任者により刺殺、 6.ヴァンダル王ガイセリックによるローマ略奪 ※新任の皇帝マクシムスは在位75日で殺される |
455 | 455 | |||||||||
456 | 456 | 456 | ||||||||||
457 | 457 | グプタ朝のスカンダグプタ、国内へ侵入したエフタルを撃退 | 457 | |||||||||
458 | 458 | 458 | ||||||||||
459 | 459 | 459 | ||||||||||
460 | 460 | 460 | ||||||||||
461 | ローマのガリア方面司令官アエギディウス、ガリア北部で自立 ※ソワソン管区(ソワソン王国)の成立(-486) |
461 | 461 | |||||||||
462 | 462 | 462 | ||||||||||
463 | 463 | 463 | ||||||||||
464 | 464 | 464 | ||||||||||
465 | 465 | 465 | ||||||||||
466 | 466 | 466 | ||||||||||
467 | 467 | 467 | ||||||||||
468 | バシアナエの戦い ◯東ゴート:ウァラメール●フン:デンキジック |
468 | ボン岬沖の海戦 ○ヴァンダム:ガイセリック●西ローマ:バシリスクス |
468 | ||||||||
469 | ボリア川の戦い ○東ゴート:ウァラメール、 ティウディミール●パンノニアのゲルマン部族連合(ゲピド、ヘルール、スエビ、スキリア族他):スエビ王フニムンド、スキリア王エデコ、オノウルフス他 |
469 | 469 | |||||||||
470 | 470 | 470 | ||||||||||
471 | 471 | 471 | ||||||||||
472 | 472 | 472 | ||||||||||
473 | 473 | 473 | ||||||||||
474 | 474 | 474 | ||||||||||
475 | 475 | 475 | ||||||||||
476 | 9.西ローマ帝国滅亡 ※西ローマ帝国の将軍オドアケルが皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃し、以後皇帝が設置されなかったため歴史上はこの年が西ローマ帝国滅亡とされるが、実質的な支配者はオドアケル→東ゴート王国として続く |
476 | 476 | |||||||||
477 | 477 | 477 | ||||||||||
478 | 478 | 倭王武、宋に遣使 ※これを最後に100年余り、中国の史書から倭(日本)の記述は途絶える |
478 | |||||||||
479 | 479 | 蕭道成、宋の順帝から禅譲を受け建康を都に斉(南斉)を建国(-502) | 479 | |||||||||
480 | 480 | 480 | ||||||||||
481 | クローヴィス、フランク王に即位 ※メロヴィング朝フランク王国の成立 |
481 | 481 | |||||||||
482 | 482 | 482 | ||||||||||
483 | 483 | 483 | ||||||||||
484 | 484 | ヘラートの戦い ○エフタル:アフシュワル●サーサーン朝ペルシア:ペーローズ1世 |
484 | |||||||||
485 | 485 | 485 | ||||||||||
486 | ソワソンの戦い ○フランク王国:クローヴィス1世●ソワソン管区:シアグリウス ※ソワソン管区滅亡 |
486 | 486 | |||||||||
487 | 487 | 487 | ||||||||||
488 | テオドリックのイタリア侵攻 ○東ローマ:テオドリック●オドアケル |
皇帝ゼノン、配下の東ゴート王テオドリックにオドアケル征討を命ず | 488 | 488 | ||||||||
489 | 8.イゾンツォの戦い ○東ゴート:テオドリック ●イタリア:オドアケル 9.ヴェローナの戦い ○東ゴート:テオドリック ●イタリア:オドアケル |
489 | 489 | |||||||||
490 | ラヴェンナ包囲戦(-493) ○東ゴート:テオドリック ●イタリア:オドアケル、オノウルフス |
490 | 490 | |||||||||
491 | 491 | 491 | ||||||||||
492 | 492 | 492 | ||||||||||
493 | 3.5 オドアケル、テオドリックに降伏し処刑 ※東ゴート王国の建国(王位に就くのは497年) |
493 | 493 | |||||||||
494 | 494 | 494 | ||||||||||
495 | 495 | 495 | ||||||||||
496 | トルビアックの戦い ○フランク王国:クローヴィス1世●アラマンニ族 ※アラマンニ族の自治は終わりフランク族の傘下に |
496 | 496 | |||||||||
497 | テオドリック、東ローマ皇帝から東ゴート王として認められる | 497 | 497 | |||||||||
498 | 498 | 498 | ||||||||||
499 | 499 | 499 | ||||||||||
500 | 500頃 ベイドン山の戦い ○ブリトン(ケルト):アーサー王?●サクソン:セルディック? ※アーサー王伝説の舞台 正確な発生年も詳細も不明だが、ケルト人の勝利でアングロ・サクソン人のイングランド支配は数十年遅れたとされる |
500 | 500 | |||||||||
南北アメリカ | 北ヨーロッパ (英国、北欧、バルト三国) |
西ヨーロッパ (仏、独、墺、ベネルクス、スイス) |
東ヨーロッパ・ロシア (ポーランド、チェコ、ハンガリー以東) |
南ヨーロッパ (イベリア半島、イタリア) |
東南ヨーロッパ (ギリシャ、バルカン、ブルガリア、トルコ) | アフリカ | 西・中央アジア(アラビア半島、ペルシア、アフガン以西) | 南・東南アジア、オセアニア (パキスタン以東) |
東アジア | |||
501 | 501 | 501 | ||||||||||
502 | 502 | 蕭衍、斉の和帝から禅譲を受け建康を都に梁(蕭梁)を建国(-557) | 502 | |||||||||
503 | 503 | 503 | ||||||||||
504 | 504 | 504 | ||||||||||
505 | 505 | 505 | ||||||||||
506 | 506 | 11.鍾離の戦い(-507.4) ○梁:韋叡、曹景宗●北魏:元英 |
506 | |||||||||
507 | 春 ヴイエの戦い ○フランク王国:クローヴィス1世●西ゴート:アラリック2世 ※フランクがガリア・アクィタニアを獲得(現在のフランスの原型の成立) |
←ヴイエの戦いで敗れた西ゴートはガリアの領土のほとんどを失い、イベリア半島に閉じ込められる | 507 | 507 | ||||||||
508 | クローヴィス、東ローマ皇帝アナスタシウス1世からアウグストゥスの称号を贈られ、西ローマ帝国の執政官に就く。 | 508 | 508 | |||||||||
509 | 509 | 509 | ||||||||||
510 | 510 | 510 | ||||||||||
511 | 11.27 フランク王クローヴィス1世没 領地はテウデリク、クロドメール、キルデベルト、クロタール(1世)の4子に分割相続される |
511 | 511 | |||||||||
512 | 512 | 512 | ||||||||||
513 | 513 | 513 | ||||||||||
514 | 514 | 514 | ||||||||||
515 | 515 | 6.大乗の乱 ◯北魏:元遥●法慶(大乗) |
515 | |||||||||
516 | 516 | 516 | ||||||||||
517 | 517 | 517 | ||||||||||
518 | 518 | 518 | ||||||||||
519 | 519 | 519 | ||||||||||
520 | 520 | インドのグプタ朝分裂 | 520 | |||||||||
521 | 521 | 521 | ||||||||||
522 | 522 | 522 | ||||||||||
523 | 523 | 523 | ||||||||||
524 | 524 | 六鎮の乱(-30) ◯北魏:爾朱栄●六鎮 |
524 | |||||||||
525 | 525 | 525 | ||||||||||
526 | 8.東ゴート王テオドリック没、孫アタラリック即位し、母アマラスンタが後見 | 526 | イベリア戦争(-532) △サーサーン朝▲東ローマ(ビザンツ帝国) |
←黒海とカスピ海の間にあったイベリア王国の宗主権を巡るペルシアとローマの戦い | 526 | |||||||
527 | 527 | 527 | ||||||||||
528 | 528 | 夏. タンヌリスの戦い ○サーサーン朝:クセルクセス●東ローマ:ベリサリウス |
ソンダニの戦い ○マールワー:ヤショーダルワン●エフタル:ミヒラクラ |
528 | ||||||||
529 | 529 | 529 | ||||||||||
530 | ダラの戦い ○東ローマ:ベリサリウス●サーサーン朝:ペロゼス 夏 サタラの戦い ○東ローマ:シッタス、ドロテウス●サーサーン朝:ミフル・ミフロー |
530 | 530 | |||||||||
531 | 秋. マルティロポリス包囲戦 ○東ローマ:ベッサス、ブーゼス●サーサーン朝:アデルゴードンバデス、bqウィ、ミフル・ミフロー |
531 | 4.19 カリヌクムの戦い △サーサーン朝:アザレテス▲東ローマ:ベリサリウス |
531 | ||||||||
532 | 1.13-18 ニカの乱 ※皇帝ユスティニアヌス1世に対する大規模な市民反乱 約3万人が殺害されて反乱は鎮圧する 9. 永久平和条約 ※東ローマのユスティニアヌス帝とサーサーン朝のホスロー1世の間で結ばれたイベリア戦争の平和条約だが、名前とは裏腹に8年しか続かなかった |
532 | 532 | |||||||||
533 | 533 | ヴァンダル戦争(-534) ○東ローマ帝国●ヴァンダル王国 9.14 アド・デキムムの戦い ○東ローマ:ベリサリウス●ヴァンダル:ゲリメル 12.15 トリカマルムの戦い ○東ローマ:ベリサリウス●ヴァンダル:ゲリメル |
533 | |||||||||
534 | 10.東ゴート王アタラリック没 母アマラスンタが即位 従兄弟テオダハドを共同統治者に指名 テオダハド、アマラスンタを幽閉して単独統治 |
534 | 3.ゲリメル、ローマに降伏 ※ヴァンダル王国の滅亡 |
魏の孝武帝、丞相高歓の排除に失敗して関中へ亡命し、高歓は孝静帝を擁立(東魏) ※北魏の東西分裂 |
534 | |||||||
535 | 4.アマラスンタ暗殺され、東ローマは東ゴート侵攻の口実を得る ゴート戦争(-554) ○東ローマ(ビザンツ帝国)●東ゴート王国 6.東ローマのベリサリウス、東ゴート(イタリア)遠征に出発 秋-12. パノルムス包囲戦 ○東ローマ:ベリサリウス●東ゴート |
535 | 宇文泰、保護した孝武帝を毒殺し文帝を擁立(西魏) | 535 | ||||||||
536 | 10-11.ナポリ包囲戦 ○東ローマ:ベリサリウス●東ゴート 12.東ゴート王テオダハド、退位を強いられ逃亡。後を継いだウィティギスの刺客に暗殺される |
536 | 536 | |||||||||
537 | カムランの戦い ○アーサー王●モルドレッド? |
3.第1次ローマ包囲戦(-538.3) ○ローマ:ベリサリウス●東ゴート:ウィティギス |
537 | 537 | ||||||||
538 | アリミヌム包囲戦(リミニ包囲戦) ○ローマ:ベリサリウス、ヨハネス●東ゴート:ウィティギス 4.メディオラヌム包囲戦(-539.3) ○東ゴート:ヴライアス、ブルグント族●東ローマ:ムンディアル |
538 | 538 | |||||||||
539 | 10-11.ベリサリウス、アウクシウムとファエシラエを攻略 | 539 | 539 | |||||||||
540 | ウィティギス、東ローマの和平案を受諾 5.ベリサリウス、ラヴェンナ無血入場 ※ベリサリウスはウィティギスを伴ってコンスタンティノープルへ帰還し、ヴェローナに拠るイルディバルドが東ゴート王になる |
540 | 540 | |||||||||
541 | トレヴィーゾの戦い ○東ゴート:イルディバルド●東ローマ:ヴィタリウス、ヘルール族 5.イルディバルド暗殺、甥エラリーコが東ゴート王になる 秋.エラリーコ暗殺、従兄弟トーティラが東ゴート王になる ヴェローナ包囲戦 ○東ゴート:トーティラ●東ローマ:コンスタンティーヌ、アレクサンダー |
541 | 541 | |||||||||
542 | 春.ファビエンチィアの戦い ○東ゴート:トーティラ●東ローマ:コンスタンティーヌ、アレクサンダー ムセリウム(現ムジェロ)の戦い ○東ゴート:トーティラ●東ローマ:ヨハネス、ベッサス、キプリアン ナポリ包囲戦(-543.4) ○東ゴート:トーティラ●東ローマ:コノン |
542 | 542 | |||||||||
543 | 4.ナポリ降伏 | 543 | 543 | |||||||||
544 | ベリサリウス、イタリア戦線に復帰 ※ユスティニアヌスの嫉妬により十分な戦力と補給を与えられず |
544 | 544 | |||||||||
545 | 年末〜.第2次ローマ包囲戦 (-546.12) ○東ゴート:トーティラ●東ローマ:ベッサス、ベリサリウス |
545 | 545 | |||||||||
546 | 12.17 ローマ陥落 1年にわたる包囲の後ローマを陥としたトーティラはローマを略奪し、城壁の1/3を破壊した |
546 | 546 | |||||||||
547 | 春.ベリサリウス、ローマを奪回し、破壊された城壁を修復する | 547 | 547 | |||||||||
548 | 548 | 8.侯景の乱(-552.3) ○梁(南朝)●侯景 |
548 | |||||||||
549 | 夏〜.第3次ローマ包囲戦(-549.1) ○東ゴート:トーティラ●東ローマ:ディオゲネス |
549 | 3.建康陥落 ○侯景●梁:武帝 |
549 | ||||||||
550 | 1.東ゴート、ローマ奪回 | 550 | この頃グプタ朝、エフタルにより滅亡 | 550 | ||||||||
551 | 秋.セナ・ガリカの海戦 ○東ローマ:ヨハネス、ヴァレリアン●東ゴート:インダルフ |
551 | 侯景、自ら皇帝を称する | 551 | ||||||||
552 | 4.東ローマ軍司令官ナルセス(ベリサリウスの後任)、イタリア北部に侵攻 6or7.ブスタ・ガロールムの戦い (タギナエの戦い) ○東ローマ:ナルセス●東ゴート:トーティラ王 10.モン・ラクタリウスの戦い ○東ローマ:ナルセス●東ゴート:テーイア王 |
アスフェルドの戦い ○ランゴバルド:アルボイーノ●ゲピド |
552 | 552 | ||||||||
553 | 東ローマ皇帝ユスティニアヌス、東ゴートを滅ぼす | 553 | 553 | |||||||||
554 | 554 | 554 | ||||||||||
555 | 555 | 555 | ||||||||||
556 | 556 | 12.西魏の恭帝、宇文泰の子・宇文覚に禅譲(北周) | 556 | |||||||||
557 | 557 | ブハラの戦い ○サーサーン朝ペルシア:ホスロー1世、突厥:イステミ(室点蜜)●エフタル:ガドファ |
557 | |||||||||
558 | クローヴィス1世の末子でソワソン王クロタール1世、父の死後分割相続されたフランク王国を再統一 | 558 | 558 | |||||||||
559 | 559 | 559 | ||||||||||
560 | 560 | 560 | ||||||||||
561 | 11.29 フランク王クロタール1世没 領地はカリベルト、グントラム、シギベルト、キルペリクの4子に分割相続される |
561 | 561 | |||||||||
562 | 562 | 新羅、朝鮮半島南部にあった任那日本府を滅ぼす | 562 | |||||||||
563 | 563 | 563 | ||||||||||
564 | 564 | 564 | ||||||||||
565 | 565 | 565 | ||||||||||
566 | 566 | 566 | ||||||||||
567 | 567 | この頃までにペルシア(ホスロー1世)と突厥(室点蜜)、共同してエフタルを滅ぼす | 567 | |||||||||
568 | ゲルマン系のランゴバルド族、北部イタリアに侵入しランゴバルト王国を建国(-774) | 568 | 568 | |||||||||
569 | 569 | 569 | ||||||||||
570 | 570 | この頃、メッカでムハンマド生誕 | 570 | |||||||||
571 | 571 | 571 | ||||||||||
572 | 572 | 572 | ||||||||||
573 | 573 | 573 | ||||||||||
574 | 574 | 574 | ||||||||||
575 | 575 | 575 | ||||||||||
576 | 576 | 576 | ||||||||||
577 | 577 | 北周の武帝、北斉を滅ぼし河北を統一 | 577 | |||||||||
578 | 578 | 578 | ||||||||||
579 | 579 | 579 | ||||||||||
580 | 580 | 580 | ||||||||||
581 | 581 | 2.北周の静帝(武帝の孫)、隋王楊堅に禅定 ※隋の建国 |
581 | |||||||||
582 | 582 | 582 | ||||||||||
583 | 583 | 583 | ||||||||||
584 | ソワソン王(ネウストリア王)キルペリク1世、部下により暗殺。末子クロタール(2世)がネウストリア王位を継承 | 584 | 584 | |||||||||
585 | 585 | 585 | ||||||||||
586 | 586 | 586 | ||||||||||
587 | 587 | 隋、後梁を滅ぼす | 587 | |||||||||
588 | 588 | 第1次ペルソ・テュルク戦争(-589) ○サーサーン朝ペルシア:バフラム・チョービーン●西突厥:葉護可汗(ヤブグカガン)、エフタル |
588 | |||||||||
589 | 589 | 隋、南朝の陳を滅ぼし中国を統一 ※南北朝時代の終焉 |
589 | |||||||||
590 | 590 | 590 | ||||||||||
591 | 591 | 591 | ||||||||||
592 | 592 | 592 | ||||||||||
593 | 593 | 593 | ||||||||||
594 | 594 | 594 | ||||||||||
595 | 595 | 595 | ||||||||||
596 | 596 | 596 | ||||||||||
597 | ローマ教皇グレゴリウス1世がイングランドに派遣したアウグスティヌス、初代カンタベリー大司教となる | 597 | 597 | |||||||||
598 | 598 | 隋の第1次高句麗遠征 ○高句麗:嬰陽王●隋:文帝、周羅睺 |
598 | |||||||||
599 | 599 | 599 | ||||||||||
600 | 600 | 2.倭の新羅侵攻 ○倭(日本):境部摩理勢●新羅 隋の文帝、皇太子楊勇を廃し次男楊広を立太子 |
600 | |||||||||
南北アメリカ | 北ヨーロッパ (英国、北欧、バルト三国) |
西ヨーロッパ (仏、独、墺、ベネルクス、スイス) |
東ヨーロッパ・ロシア (ポーランド、チェコ、ハンガリー以東) |
南ヨーロッパ (イベリア半島、イタリア) |
東南ヨーロッパ (ギリシャ、バルカン、ブルガリア、トルコ) | アフリカ | 西・中央アジア(アラビア半島、ペルシア、アフガン以西) | 南・東南アジア、オセアニア (パキスタン以東) |
東アジア | |||
601 | 601 | 601 | ||||||||||
602 | 602 | →学術的な慣習に従い7世紀以降の東ローマ帝国は「ビザンツ帝国」と記載するが、ビザンツ帝国という言葉が使われ始めたのは東ローマ帝国が滅亡した後の16世紀ころから | フォカス、東ローマに反旗を翻し皇帝マウリキウスを処刑、自ら皇帝となる 東ローマ・サーサーン戦争(-628) △東ローマ(ビザンツ帝国)▲サーサーン朝ペルシア |
602 | ||||||||
603 | 603 | 603 | ||||||||||
604 | 604 | 隋の文帝(楊堅)没、楊広が継承(煬帝) 煬帝、前皇太子の同母兄・楊勇を殺害 |
604 | |||||||||
605 | 605 | 605 | ||||||||||
606 | 606 | 第2次ペルソ・テュルク戦争(-608) ○サーサーン朝ペルシア:スムバト4世バグラトゥニ●西突厥、エフタル |
606 | |||||||||
607 | 607 | 607 | ||||||||||
608 | 608 | 608 | ||||||||||
609 | 609 | 609 | ||||||||||
610 | 10.ビザンツ帝国のカルタゴ総督ヘラクレイオス、皇帝フォカスを処刑し自ら皇帝となる ※ヘラクレイオス朝の創始 |
610 | ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ、ヒラー山で大天使ガブリエルに会い啓示を受ける ※イスラム教の始まり |
北京と杭州を結ぶ京杭大運河が完成 | 610 | |||||||
611 | 611 | 611 | ||||||||||
612 | 612 | 隋の第2次高句麗遠征 ○高句麗:乙支文コ(ウルチムンドク)●隋:宇文述 |
612 | |||||||||
613 | ネウストリア王クロタール2世、ブルグンド王シギベルト2世とその曾祖母で摂政ブルンヒルドを討ちフランク王国を3度目の統一 | アンティオキアの戦い ○サーサーン朝ペルシア:シャフルバラーズ●ビザンツ帝国:ヘラクレイオス |
613 | ムハンマド、メッカで一神教のイスラムの教えを説き始める ※この頃のアラブ人の宗教は多神教 |
隋の第3次高句麗遠征 ※楊玄感の乱が起こり撤退 楊玄感の乱 ○隋:衛玄、陳稜、宇文述●楊玄感 |
613 | ||||||
614 | 614 | 隋の第4次高句麗遠征 △高句麗▲隋:来護児 |
614 | |||||||||
615 | 615 | 615 | ||||||||||
616 | 616 | 616 | ||||||||||
617 | 617 | 617 | ||||||||||
618 | 618 | サーサーン朝のエジプト侵攻(-621) ○サーサーン朝●ビザンツ帝国 |
宇文化及、隋の煬帝と秦王楊浩を殺し許を建国 王世充、恭帝侗から禅譲を受けて鄭を建国 李淵、恭帝侑から禅譲を受けて唐を建国 |
618 | ||||||||
619 | 619 | 聊城の戦い ○竇建徳●宇文化及 |
619 | |||||||||
620 | 620 | 620 | ||||||||||
621 | 621 | 虎牢関の戦い ○李世民●竇建徳 ※王世充、唐に降伏(後殺害) |
621 | |||||||||
622 | 622 | 7.16 ムハンマド、迫害を避けメッカからヤスリブ(後のメディナ)へ脱出(聖遷:ヒジュラ) ※イスラム教ではこの日をもって暦(ヒジュラ暦)の始まりとする |
622 | |||||||||
623 | 623 | 623 | ||||||||||
624 | 624 | 3.バドルの戦い ◯メディナ:ムハンマド●メッカ:クライシュ族(ムハンマドの出身部族) |
←以後、この戦いのあったヒジュラ暦の第9月「ラマダーン」を断食月とする | 624 | ||||||||
625 | 625 | 3.ウフドの戦い ◯メッカ:クライシュ族●メディナ:ムハンマド |
625 | |||||||||
626 | 626 | 第3次ペルソ・テュルク戦争(-629) ○西突厥、ビザンツ帝国●サーサーン朝ペルシア |
7.2 玄武門の変 ◯李世民(次兄)●李建成(長兄)、李元吉(末弟) ※李世民、唐の2代皇帝(太宗)となる |
626 | ||||||||
627 | 627 | 4.ハンダク(塹壕)の戦い ◯メディナ:ムハンマド●メッカ:クライシュ族 12.12 ニネヴェの戦い ◯ビザンツ:ヘラクレイオス ●サーサーン朝:ラーザード |
627 | |||||||||
628 | 628 | 3.フダイビーヤの盟約 ※ムハンマド(メディナ)とクライシュ族(メッカ)の間で結ばれた和議→ムハンマドの権威が高まりイスラムへの改宗者が増える |
628 | |||||||||
629 | 629 | 9.ムウタの戦い ○ビザンツ帝国:テオドロス、アラブ人キリスト教徒●アラブ人イスラム教徒:ザイド・イブン・ハリサ、ジャフル・イブン・アビ・タリブ、アブドラ・イブン・ラワハ |
629 | |||||||||
630 | 630 | 1.ムハンマド、メッカを攻略 ※周辺部族も降伏してアラビア半島が統一され、メッカはイスラムの聖地となる |
630 | |||||||||
631 | 631 | 631 | ||||||||||
632 | 632 | 6.8 イスラム教創始者ムハンマド没 ※アブー・バクルをイスラム共同体の指導者(カリフ)に選出 ※正統カリフ時代(-661)の始まり |
←アブー・バクル支持派とムハンマドの娘婿アリー(後に4代カリフ)支持派の争いが現在のスンニ派・シーア派の争いの原点 | 632 | ||||||||
633 | 633 | 8.ドゥーマト・アッジャンダルの戦い ○正統カリフ:ハーリド・イブン・アル・ワリード●アラブ人キリスト教徒:ジュディ・イブン・ラビア |
633 | |||||||||
634 | 634 | 1.フィラーズの戦い ○正統カリフ:ハーリド・イブン・アル・ワリード●ビザンツ帝国、サーサーン朝ペルシア帝国 4.イスラムのシリア侵攻(-638) ○正統カリフ●ビザンツ帝国 8.23 初代カリフ アブー・バクル没※ウマル・イブン・ハッターブ(ムハンマドの妻の父)が2代カリフに選出 |
634 | |||||||||
635 | 635 | 635 | ||||||||||
636 | 636 | 8.15-20 ヤルムークの戦い ○正統カリフ:ハーリド・イブン・アル・ワリード●ビザンツ:テオドロス・トリテュイオス 11.16-19 カーディシーヤの戦い ◯正統カリフ:サード・ブン・アビー・ワッカース●サーサーン朝:ロスタム・ファルロフザード |
636 | |||||||||
637 | 637 | ウマル、サーサーン朝の首都クテシフォンを攻略 | 637 | |||||||||
638 | 638 | ウマル、エルサレムを支配下に置き、ウマル憲章で一定の制限付きでキリスト教、ユダヤ教の信仰も認める | 638 | |||||||||
639 | 639 | 639 | ||||||||||
640 | 640 | 7.6 ヘリオポリスの戦い ○正統カリフ:アムル・ブン・アル=アース●ビザンツ:テオドール |
640 | |||||||||
641 | 641 | 3-11 アレクサンドリア包囲 ○正統カリフ:アムル・ブン・アル=アース●ビザンツ:キュロス ※この時から現在までエジプトはイスラム国家の統治下にある |
641 | |||||||||
642 | 642 | ニハーヴァンドの戦い ○正統カリフ:アサード・ブン・アビー・ワッカース●ササン朝:ペーローズ・ホスロー |
高句麗の将軍淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)、対唐融和派の栄留王を殺して甥の宝蔵王を擁立し、自ら宰相(テマクリジ)に就く | 642 | ||||||||
643 | 643 | 643 | ||||||||||
644 | 644 | 11.2代カリフ、ウマル暗殺 ウスマーン・イブン・アッファーン(ムハンマドの娘婿)が3代カリフに選出 |
11.唐の第1次高句麗侵攻(-645.9) ○高句麗:淵蓋蘇文、楊萬春(ヤン・マンチュン)●唐:太宗、李勣、張亮、尉遅敬徳 |
644 | ||||||||
645 | 645 | 6.20-9.18 安市城包囲戦 ○高句麗:楊萬春●唐:太宗、李勣、長孫無忌 |
645 | |||||||||
646 | 646 | 5.ニキウの戦い ○正統カリフ:アムル・ブン・アル=アース●ビザンツ:マヌエル |
646 | |||||||||
647 | 647 | 647 | ||||||||||
648 | 648 | 648 | ||||||||||
649 | 649 | 649 | ||||||||||
650 | 650 | 650 | ||||||||||
651 | 651 | ※ヤズデギルド3世殺害されササン朝ペルシア滅亡 | 651 | |||||||||
652 | 652 | 652 | ||||||||||
653 | 653 | 653 | ||||||||||
654 | マストの海戦(リュキア沖海戦) ○正統カリフ:Abu al-A'war●ビザンツ:コンスタンス2世 |
654 | 654 | |||||||||
655 | 655 | 10.唐の高宗、王皇后を廃し武照※を皇后とする ※後の武則天 |
655 | |||||||||
656 | 656 | 6.17 3代カリフ、ウスマーン暗殺 アリー(ムハンマドの従弟で娘婿)が4代カリフに選出 11.駱駝の戦い ◯正統カリフ:アリー●反アリー派:アーイシャ、ズバイル・イブン・アウワーム、タルハ |
←史上初のイスラム教徒同士の戦闘。名称は、ムハンマドの寡婦アーイシャが駱駝に乗って出陣したことに因むが、イスラム学者が女性名と戦いをリンクしたくなかったからとも言われる |
656 | ||||||||
657 | 657 | 6.26-7.28 スィッフィーンの戦い △正統カリフ:アリー△シリア総督ムアーウィヤ |
←正統カリフながらムアーウィヤを討伐できなかったアリーの権威は低下し、ムアーウィヤが台頭する | 657 | ||||||||
658 | 658 | 658 | ||||||||||
659 | 659 | 659 | ||||||||||
660 | 660 | 3-7. 百済・唐戦争 ○唐、新羅●百済 7.9 黄山の戦い ○新羅:金法敏、金欽純、金品日●百済:階伯 7.18 泗沘包囲戦 ◯唐:蘇定方、新羅:金庾信●百済:義慈王 ※百済滅亡 |
660 | |||||||||
661 | 661 | 1.27 4代カリフ、アリー暗殺 ムアーウィヤ(1世)、ウマイヤ朝を創始 ※正統カリフ時代の終焉 |
唐の第2次高句麗侵攻(-662) ○高句麗●唐 |
661 | ||||||||
662 | 662 | 2.18 蛇水の戦い ○高句麗:淵蓋蘇文●唐:龐孝泰 |
662 | |||||||||
663 | 663 | 8.白村江の戦い (白江[ベッカン]の戦い) ○唐:劉仁軌、孫仁師、劉仁願、新羅:金法敏(文武大王:ムンムデワン) ●倭:上毛野君稚子、阿倍比羅夫、百済:余豊璋 ※百済復興の望み潰え、大陸への足がかりを失った倭(ヤマト朝)は慌てて西日本各地に防衛拠点(朝鮮式山城)を築く |
663 | |||||||||
664 | 664 | 唐の高宗による武皇后追放計画が露見、病弱な高宗に代わり武皇后が政権掌握 ※垂簾政治 |
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665 | 665 | 665 | ||||||||||
666 | 666 | 666 | ||||||||||
667 | 667 | 唐の第3次高句麗侵攻(-668) ○唐●高句麗 |
667 | |||||||||
668 | 668 | →多くの高句麗人が倭に亡命し、716年、各地の高句麗人を武蔵国に集めて高麗郡が設立される | 平壌陥落(高句麗滅亡) ◯唐・新羅●高句麗:宝蔵王 |
668 | ||||||||
669 | 669 | 669 | ||||||||||
670 | 670 | 3.唐・新羅戦争 (羅唐戦争:-676.11) ○新羅●唐 |
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671 | 671 | 671 | ||||||||||
672 | 672 | 672 | ||||||||||
673 | 673 | 673 | ||||||||||
674 | 674 | 674 | ||||||||||
675 | 675 | 675 | ||||||||||
676 | 676 | 11.伎伐浦海戦 ○新羅:施得●唐:薛仁貴 ※唐が朝鮮半島から撤退し新羅が半島を統一 |
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677 | 677 | 677 | ||||||||||
678 | 678 | 678 | ||||||||||
679 | 679 | 679 | ||||||||||
680 | オングロスの戦い ○ブルガル族:アスパルフ●ローマ:皇帝コンスタンティノス4世 |
680 | 4.ウマイヤ朝のムアーウィヤ1世没、子のヤズィード1世が継承 ※初の世襲によるカリフ継承 10.カルバラーの戦い (カルバラーの悲劇) ◯ウマイヤ朝:ヤズィード軍4000名●フサイン・イブン・アリーと配下の72名 |
←ムハンマドの孫でアリーの次男フサインが虐殺され、アリーの子孫のみを指導者と仰ぐ「シーア派」と、それ以外のカリフも認める「スンナ派」の、今日に至る対立の端緒となったカルバラーはシーア派の聖地となっている |
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681 | アスパルフ、ローマと講和条約を結びドナウ川南岸へ進出 ※第1次ブルガリア帝国(-1018)の建国 |
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683 | 683 | 11.ウマイヤ朝2代カリフ、ヤズィード1世没、子のムアーウィヤ2世の継承に不満を持つイブン・アッズバイルがメッカで反乱を起こしカリフを称して独立 | 683 | |||||||||
684 | 684 | ウマイヤ朝第3代カリフムアーウィヤ2世、即位から2カ月程度で没 8.18 マルジュ・ラーヒトの戦い ○ウマイヤ朝:マルワーン1世●イブン・アッズバイル支持派:アル・ダッハーク・イブン・カイス・アッフィフリ |
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685 | 685 | 1.4-6.アイン・アル・ワルダの戦い ○ウマイヤ朝:ウバイドゥッラー・イブン・ズィヤード、フサイン・イブン・ヌマイル●アリー家支持派(タッワーブーン:悔悟者達):スライマーン・イブン・スラド、リファー・イブン・シャッダード |
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686 | 686 | 8.ハーズィルの戦い ○ムフタール・アッサカフィー軍:イブン・アル・アシュタル●ウマイヤ朝:ウバイドゥッラー・ブン・ズィヤード、フサイン・ブン・ヌマイル・アッサクーニー |
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687 | テルトリーの戦い ◯アウストラシア:宮宰ピピン2世 ●ネウストリア:宮宰エブロイン ※カロリング家、フランク王国の実権掌握 |
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690 | 690 | 10.武則天(則天武后)、周(武周)を建国 ※唐の第3代皇帝高宗の皇后で4代中宗・5代睿宗の母だが睿宗を廃して自ら即位。中国史上唯一の女帝 |
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692 | 692 | メッカ包囲戦 ○ウマイヤ朝:ハッジャージュ・イブン・ユースフ●イブン・アッズバイル、 |
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693 | 693 | 693 | ||||||||||
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697 | ヴェネツィア共和国成立(-1797) ※歴史上最も長く続いた共和国 |
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698 | 698 | カルタゴの戦い ◯ウマイヤ朝●ベルベル人:カーヒナ、ビザンチン帝国 ※ウマイヤ朝、北アフリカをほぼ制圧 |
→大祚栄が高麗人(朝鮮系)なのか靺鞨人(ツングース系)なのかは韓国と中国・ロシア間で論争となっている | 大祚栄、渤海(-926)を建国 | 698 | |||||||
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700 | 700 | 700 | ||||||||||
701-1100年表 | ||||||||||||
南北アメリカ | 北ヨーロッパ (英国、北欧、バルト三国) |
西ヨーロッパ (仏、独、墺、ベネルクス、スイス) |
東ヨーロッパ・ロシア (ポーランド、チェコ、ハンガリー以東) |
南ヨーロッパ (イベリア半島、イタリア) |
東南ヨーロッパ (ギリシャ、バルカン、ブルガリア、トルコ) | アフリカ | 西・中央アジア(アラビア半島、ペルシア、アフガン以西) | 南・東南アジア、オセアニア (パキスタン以東) |
東アジア |