軽巡洋艦:6.1インチ(15.5cm)以下の主砲を搭載した巡洋艦。日本での正式名称は「二等巡洋艦」。主に水雷戦隊(駆逐艦部隊)の旗艦や潜水戦隊(潜水艦部隊)の母艦として活躍した。

艦名写真概要艦名の由来

天龍 Tenryu
公試排水量:3948t
全長:142.65m 
速力:33kt
主砲:14cm×4

魚雷:53.3cm×6
竣工:1919 
沈没:1942.12.18

天龍型(全2隻)1番艦。八八艦隊計画で水雷戦隊(駆逐艦主体の魚雷戦部隊)旗艦用として6隻の建造が予定されたが、艦型が小型に過ぎたため、2隻で打ち切られ、より大型の5500t級に移行した。小型のため航空機を追加搭載する余地がなく、1930年代には主砲を対空砲に換装した防空巡洋艦改装計画もあったが見送られた。
太平洋戦争では開戦時のウェーク島攻略戦をはじめ、カビエン攻略戦、第一次ソロモン海戦海戦などに参加するが、1942年末、潜水艦「アルバコア(ビンナガマグロ)」の雷撃により沈没。

長野・静岡県を流れる天竜川に因む。諏訪湖のただ1つの出口であり、日本三大急流に数えられ、水力発電用のダムが多く作られた。

同名の艦としては明治期のスループ(機帆走巡洋艦)に次いで2隻目。海上自衛隊に3代目(訓練支援艦)が在籍している。

龍田 Tatsuta
基準排水量:3230t

全長:142.65m 
速力:33kt

主砲:14cm×4
魚雷:53.3cm×6
竣工:1919 
沈没:1944.3.13

天龍型2番艦。1934年に発生した「友鶴事件」で転覆した水雷艇「友鶴」を佐世保まで曳航し、乗員13名の生還に寄与する。太平洋戦争劈頭のウェーク島攻略戦、カビエン攻略戦などに天龍とともに参加するが、姉妹館天龍が参加して大戦果を挙げた1942年8月の第一次ソロモン海戦には参加できず、翌1943年4月、新造駆逐艦の錬成部隊として新編された第11水雷戦隊旗艦任務に就く。1944年3月、サイパン輸送部隊の護衛として出撃、八丈島沖で潜水艦「サンドランス(イカナゴ)」の雷撃により沈没。

奈良県を流れる竜田川に因む。百人一首に採られた在原業平の「ちはやふる神よも知らぬ竜田川からくれなゐに水くくるとは」の歌で有名な紅葉の名所で、唐揚げの一種「竜田揚げ」は、竜田川の紅葉に因むとも、本艦の料理長が考案したとも伝わる。下流で大和川に合流する。

同じ名を持つ艦としては、日本海海戦にも参加した通報艦に次ぐ2代目。海上自衛隊では今のところ採用されていない。

球磨 Kuma
常備排水量:5500t

全長:162.15m 
速力;36kt
主砲:14cm×7
魚雷:53cm×8
竣工:1920 
沈没:1944.1.11

球磨型(全5隻)の1番艦。球磨型は天龍型を拡大強化したスタイルで、続く長良型6隻、川内型3隻と合わせて「5500t型」と総称される。独特の雨水除去装置の形状により、3本の煙突とも上部が膨らんでいる。この形状の雨水除去装置は、他では木曽の1、2番煙突に採用されているのみなので、本艦の識別は容易。太平洋戦争では天龍型に次ぐ古参ということもあり、主にフィリピン、仏印、蘭印方面で輸送任務などに従事。1944年1月、ペナン島沖で英潜水艦タリーホーの雷撃を受け沈没した。

熊本県を流れる球磨川に因む。県南部の宮崎県境付近の標高1000mを超える地点を源とし、人吉盆地を貫いて八代海に注ぐ延長115kmの球磨川は、最上川・富士川とともに日本三大急流に数えられている。

この名の艦としては初代であり、海上自衛隊でも今のところ採用されていない。因みに海軍の川名を付けられた巡洋艦でかなで2文字の艦は球磨・多摩・木曽・由良・鬼怒・加古・利根の7隻あるが、海上自衛隊の護衛艦に継承されたのは利根のみである。

多摩 Tama
常備排水量:5500t

全長:162.15m 
速力:36kt
主砲:14cm×7
魚雷:53cm×8
竣工:1921 
沈没:1944.10.25

球磨型2番艦。北方艦隊に編入されていたため、僚艦木曽とともに、1942年頃まで白とグレーの迷彩塗装となっていた。北方海域ではアッツ島沖海戦やキスカ撤退作戦などに参加。1944年10月のレイテ沖海戦では、敵空母部隊を引き付ける陽動部隊、小沢艦隊に属し、フィリピン北方のエンガノ岬沖で空母航空隊の空襲により魚雷1本を機関部に受け、低速で退避中に潜水艦ジャラオの雷撃を受け沈没。単艦行動だったため生存者はいなかった。

山梨県に端を発し、東京都と神奈川県の境を流れて東京湾に注ぐ多摩川に因む。山梨県では「丹波川(たばがわ)」と呼ばれ、下流では「玉川」という表記も多用される。秋川、浅川など支流も多い。下流は現在、東京と神奈川の都県境となっているが、平地故の氾濫による流路の変動が激しく、布田・野毛・等々力・丸子など、川の両岸に存在する地名も多い。

この名の艦としては初代であり、海上自衛隊でも今のところ採用されていない。

大井 Oi
重雷装艦 改装後仕様
満載排水量:6900t

全長:162.15m 
速力:33.6kt
主砲:14cm×4
魚雷:61cm×40
竣工:1921 
沈没:1944.7.19

球磨型3番艦。いわゆる「5500トン型」軽巡14隻の3隻目。艦隊決戦の秘密兵器として、1940年、同型艦北上とともに、61cm4連装魚雷発射管を、通常の軽巡洋艦や駆逐艦の5倍に相当する合計40門搭載した「重雷装艦」に改装されるが、期待された艦隊決戦は起こらず、一部発射管を撤去して「高速輸送艦」に改装されるが、潜水艦フラッシャーの雷撃で沈没。鮮明な写真は残されておらず、魚雷発射管の実際の形状などもよくわかっていない。

静岡県を流れる大井川に因む。江戸時代、西国からの防衛線として架橋や渡し船を禁じられ、渡河には川越人足の手を借りるしかなかった。水量が多くしばしば渡河禁止になったため、「箱根八里は馬でも越すが越すに越される大井川」と詠われた。現在は、明治期に作られた世界最長の木造橋「蓬莱橋」が架かる。
この名の艦としては初代であり、海上自衛隊では1960年代に就役したいすず型護衛艦に継承されている(1993年除籍)ちなみに、「大井」はひらがなでは3文字だが、英語表記は「Oi」と2文字で、しばしば世界で最も短い艦名とされる。

北上 Kitakami
回転搭載母艦 改装後仕様

満載排水量:7041t
全長:162.15m 
速力:23kt
対空砲:12.7cm×4
人間魚雷回天:8基搭載
竣工:1921 
除籍:1945.11.30

球磨型4番艦。いわゆる「5500トン型」軽巡14隻の4隻目。大井とともに重雷装艦→高速輸送艦という経緯をたどり、さらに艦尾にスロープを備えた特攻兵器(人間魚雷)「回天」搭載母艦へと再改装される。しかし、実際に回天を搭載しての迎撃任務に就くことはなく、大戦終了間際の呉空襲で大破し、航行不能状態で終戦を迎えた。5500t軽巡14隻中唯一太平洋戦争を戦い抜いたが、航行には修理が必要なため復員任務には用いられず、工作船として活動した後解体された。

岩手県に端を発して南に流れ宮城県石巻市で太平洋に注ぐ北上川に因む。東北地方では最も長い川で、岩手県・宮城県を南北方向にほぼ縦断しており、日本の川としては勾配がかなり緩い。流域には盛岡、花巻、平泉などの都市があり、石川啄木、宮沢賢治、松尾芭蕉など縁の文化人も多い。1960年代に流行した「北上夜曲」も名高い。

この名の艦としては初代であり、海上自衛隊では1960年代に就役したいすず型護衛艦に継承されている(1993年除籍)

木曽 Kiso

全長:162.15m 速力:36kt

主砲:14cm×7

魚雷:53cm×8

竣工:1921 沈没:1944.11.13

球磨型5番艦。重雷装艦に改装されなかった5500t級で唯一、最後まで水上機発艦用のカタパルトを装備しなかった。3本の煙突のうち1・2番のみ、球磨と同様の雨水除去装置を装備して上部が膨らんでいるのが他艦との識別ポイント。太平洋戦争では同型艦多摩と共に北方部隊の第5艦隊に所属し、白色迷彩塗装を施していた。1943年のキスカ撤退作戦後は南方に進出し、主に輸送任務に従事。1944年11月13日、マニラ湾で空襲により大破着底となり、放棄された。

長野県から岐阜県を経て愛知・三重県で伊勢湾に注ぐ木曽川に因む。濃尾平野を並行して流れる長良川・揖斐川とともに木曽三川と呼ばれるなかで最も長く、源流は長野県木曽郡。岐阜県美濃加茂市から愛知県犬山市までの区間は、ドイツのライン河畔に似ているとして「日本ライン」と呼ばれている。

この名の艦としては初代であり、海上自衛隊でも今のところ採用されていないが、海上保安庁の巡視船には採用されている。

長良 Nagara

公試排水量:7199t(要目は最終時)

全長:162.15m 速力:33.4kt

主砲:14cm×5

魚雷:61cm×8

竣工:1922 沈没:1944.8.7

5500トン型の第2グループになる長良型1番艦。球磨型とほぼ同型だが、搭載魚雷が53cmから61cmに強化され、航空機格納庫を設けるため艦橋が大型化されている。太平洋戦争では1942年に編成された機動部隊護衛を主任務とする第10戦隊旗艦としてミッドウェー・第2次ソロモン・南太平洋・第3次ソロモンの諸海戦に参加。その後は主に輸送任務に従事するが1943年11月クェゼリン環礁で空襲により魚雷が誘爆して大破、内地へ回航して修理と対空並走強化を行うが、1944年8月、天草沖で潜水艦クローカーの雷撃で沈没した。モデルは艦橋直後の魚雷発射管を撤廃して後部に集約し、対空兵装を強化した最終時のスタイルだが、近年の研究では、長良は魚雷発射管の集約を行わなかったことが判明している。

岐阜県(下流は岐阜・愛知県境)を流れる長良川に因む。郡上市の大日ヶ岳に端を発し、下流域では東の木曽川、西の揖斐川と分合流を繰り返しながら、濃尾平野を形成してきた。現在の大垣市付近は古来墨俣川と呼ばれ、源平争乱期や戦国期の戦いで知られる。ダムのない清流として知られ、岐阜市や関市で行われる鵜飼いは有名。郡上八幡を流れる吉田川も支流の一つである。

この名の艦としては初代で、戦後は海上保安庁の巡視船に採用例があるものの、海上自衛隊では使われていない。ひらがなだと接続助詞(~ながら)と混同されるので、艦名としては採用しづらいかも知れない。

五十鈴 Isuzu

防空巡洋艦 改装後仕様

常備排水量:5570t

全長:162.15m 速力;36kt

高角砲:12.7cm×6

魚雷:61cm×8

竣工:1923 沈没:1945.4.7

長良型2番艦。香港攻略戦、ガダルカナル戦役などに従事。1943年の損傷を機に、クラスで唯一、全ての主砲を撤去して高角砲、対空機銃を大量に搭載した防空巡洋艦に改装された。ただし、最初から防空艦として建造されたアメリカのアトランタ級やイギリスのダイドー級、駆逐艦秋月級などと比べると、大きさの割に武装は貧弱であった。レイテ沖海戦には小沢艦隊の一員として参加し生還するが、1945年4月、潜水艦チャー及びガビランの雷撃により沈没。

三重県南部を流れる五十鈴川に因む。延長約20kmほどの短い川だが、伊勢神宮内宮に沿って流れ、日常世界と神域を結ぶ宇治橋や、参拝者が心身を清める御手洗場などがある。自動車メーカー「いすゞ」の社名も、この川に由来する(元来はクルマの名前)。

この名の艦としては初代であり、戦後は海上自衛隊のいすず型護衛艦1番艦に名前が引き継がれた(1992年に退役)。

名取 Natori

常備排水量:5570t(最終時)

全長:162.15m 速力;36kt

主砲:14cm×5

魚雷:61cm×8

竣工:1922 沈没:1944.8.18

長良型3番艦。第5水雷戦隊の旗艦として太平洋戦争を迎え、マレー、蘭印方面で活躍。1942年3月のバタビア沖海戦で米重巡ヒューストン、豪軽巡パースの撃沈に貢献。その後も南西方面で活躍するが、1943年1月に潜水艦の雷撃を受け、さらに爆撃被害も受けて修理に1年以上を要した。修理後は第3水雷戦隊に編入され1944年6月のマリアナ沖海戦に参加するが、同年8月、潜水艦ハードヘッドの雷撃により沈没。

宮城県を流れる名取川に因む。名取市との境界となる河口付近を除き、延長55kmの全域が仙台市に含まれ、「仙台の奥座敷」と呼ばれる秋保温泉も川沿いにある。河口の名取市側は、東日本大震災からの復興が進む「閖上(ゆりあげ)漁港」。仙台を歌った名曲「青葉城恋唄」の歌い出しに登場する「広瀬川」は、名取川の支流である。

この名の艦としては初代であり、海上自衛隊でも今のところ採用されていない。ひらがなで書くと「珍味」のイメージが強すぎて採用されにくいかも。

鬼怒 Kinu

常備排水量:5570t(最終時)

全長:162.15m 速力:36kt

主砲:14cm×5

魚雷:61cm×8

竣工:1922 沈没:1944.10.26

長良型5番艦。第4潜水戦隊旗艦として太平洋戦争を迎え、大戦中の殆どを南遣艦隊、南西方面戦隊などに所属して過ごしたため、主要な海戦に参加することはなかった。1944年10月のレイテ沖海戦では、重巡青葉、駆逐艦浦波とともに第16戦隊を編成し、レイテ島への兵員輸送任務に従事するが、まず青葉が潜水艦の雷撃で大破しマニラへ帰港。鬼怒と浦波は輸送船とともにレイテ島オルモックへの兵員輸送を成功させるが、マニラへの帰途、米護衛空母部隊の航空攻撃で両艦とも撃沈された。

栃木県と茨城県を流れる鬼怒川に因む。古来、栃木県地域の古名から「毛野川」と呼ばれ、江戸時代までは「絹川」「衣川」などの字が当てられ、明治以降に「鬼怒川」となった。茨城県守谷市付近で利根川に合流するが、江戸時代までの利根川は東京湾に注いでおり、千葉県銚子市で太平洋に注ぐ現在の利根川本流は元々鬼怒川の流れである。

この名の艦としては初代であり、海上自衛隊でも今のところ採用されていない。

阿武隈 Abukuma

常備排水量:5570t(最終時)

全長:162.15m 速力;36kt

主砲:14cm×6

魚雷:61cm×8

竣工:1922 沈没:1944.8.7

長良型6番艦。訓練中の衝突事故で艦首を損傷し、修理の際に艦首形状が変更されたため、5500t型の中で最も識別の容易な艦となった。1941年12月の真珠湾攻撃では、第1水雷戦隊旗艦として駆逐艦9隻を率いた。1942年中盤以降は北方戦線の第5艦隊に配属され、アッツ島沖海戦、キスカ撤退戦に参加。1944年10月のレイテ沖海戦では志摩艦隊に属してスリガオ海峡に突入するが、被雷により戦線を離脱し、退避中に航空攻撃を受け沈没した。

福島県から宮城県に流れる阿武隈川に因む。東北地方では北上川に次ぐ長さを誇る。関東と陸奥を隔てる白河関付近に端を発し、須賀川・郡山・二本松・福島といわゆる「福島中通り」に沿って流れ、伊達氏発祥の伊達を過ぎると宮城県に入り、丸森・角田・亘理を抜けて岩沼で太平洋に注ぐ。

この名の艦としては初代であり、海上自衛隊ではあぶくま型護衛艦の1番艦に継承されている。

川内 Sendai

常備排水量:5595t

全長:162.15m 速力:35.3kt

主砲:14cmx7 魚雷;61cmx8

竣工:1924 沈没:1943.11.2

5500トン型の第3グループになる川内型1番艦。このクラスは煙突が4本になったのが大きな特徴で、後部マストと主砲の配置も球磨/長良型とは異なっている。5500トン型では最も新しかったため、太平洋戦争では水雷戦隊の旗艦として酷使され、3隻とも軽巡洋艦の中では比較的早期に戦没している。川内は、第3水雷戦隊旗艦として太平洋戦争を迎え、南方作戦、ガダルカナル戦役などで活躍した後、1943年11月、ブーゲンビル島沖の夜戦で米艦隊と交戦して沈没した。

熊本県に端を発し、宮崎県北部を経由して鹿児島県で東シナ海に注ぐ川内川に因む。全長137kmは九州では筑後川に次ぎ二番目に長い。
「川内」は一般には「かわうち」「かわち」と読まれることが多く、元々は宮城県仙台市と同様、「仙台」「千代」「千台」などの字も宛てられていた模様。この名の艦としては初代であり、海上自衛隊ではあぶくま型護衛艦の4番艦に継承されている。

神通 Jintsu

常備排水量:5595t

全長:162.46m 速力:35.3kt

主砲:14cmx7 魚雷;61cmx8

竣工:1925 沈没:1943.7.13

川内型2番艦。訓練時の衝突事故で艦種を破損し、那珂と同様のダブルカーブ型に改修された。「花の二水戦」と呼ばれ、水雷戦隊の中で最も練度が高く最新鋭駆逐艦が配置される、第二艦隊第二水雷戦隊の旗艦として太平洋戦争を迎える。スラバヤ沖海戦を経て参加した第二次ソロモン海戦で被爆損傷。1943年7月12日未明、ソロモン諸島コロンバンガラ島への輸送任務に参加。麾下の駆逐艦5隻と共に、巡洋艦3・駆逐艦10隻の米軍部隊と遭遇。敵艦隊を探照灯照射したことで集中砲撃に遭い沈没し、司令官伊崎俊二少将以下乗員多数が艦と運命を共にするも、探照灯照射により他の駆逐艦が雷撃で反撃し駆逐艦1隻を撃沈、巡洋艦3・駆逐艦2を大破させて神通の仇を討った。

岐阜県に端を発し、富山湾で日本海に注ぐ神通川に由来。艦名は「じんつう」だが、川名は「じんづう」と濁る。富山市から富山平野を南下し、岐阜県境で高原川を分けると宮川と名を改めて飛騨市古川、高山市街地を抜けて川上岳(かおれだけ)の源流に至る。昭和期、高原川沿いにあった神岡鉱山がからのカドミウム鉱毒が四大公害病の一つ、イタイイタイ病を引き起こして悪いイメージが付いてしまったが、本来はサクラマスが遡上する清流であり、ます寿司は富山名物として名高い。

この名の艦としては初代であり、海上自衛隊ではあぶくま型護衛艦の2番艦に継承されている。

那珂 Naka

常備排水量:5595t

全長:162.46m 速力:35.3kt

主砲:14cmx7 魚雷:61cmx8

竣工:1925 沈没:1944.2.17

川内型3番艦。本来は2番艦だったが、横須賀工廠での進水を目前に関東大震災に遭遇し船台から落下。一旦解体して再建造したため3番艦となり、この際、艦首形状がスプーン型から凌波性に優れたダブルカーブ型に変更された。太平洋戦争では第二艦隊第四水雷戦隊旗艦としてパリクパパン沖海戦、スラバヤ沖海戦などで活躍するが、1942年4月、クリスマス島攻略戦で潜水艦シーウルフの魚雷を受け大破、修理と改装に約1年を要し、ガダルカナル戦役などに参加できなかった。修理後は主に護衛・輸送活動に従事したが、1944年2月のトラック大空襲で沈没。

栃木県の那須岳付近を水源とし、茨城県都水戸市などを経由して太平洋に注ぐ那珂川に因む。栃木県北部から茨城県中部へ、ほぼ南東方向に流れる関東随一の清流で、下流では水戸市民憩いの千波湖などを合わせ、ひたちなか市と大洗町の境で太平洋に注ぐ。因みに同じ名前の川は福岡県にもあり、二級河川ながら下流で九州随一の歓楽街・中洲を形成して知名度は高いが、艦名の由来はあくまでこちら側。

この名の艦としては初代であり、海上自衛隊でも今のところ採用されていない。

夕張 Yubari

常備排水量:3141t

全長:140m 速力:35.5kt

主砲:14cm×6 魚雷:61cm×8

竣工:1923 沈没:1944.4.28

同型艦なし。5500t型軽巡と同等の武装を、約半分の排水量で実現した、実験的軽巡洋艦。その重武装ぶりは海軍を擁する世界各国の注目の的となり、設計者である平賀譲造船大佐の名を高めた。しかし、艦型が小型過ぎるために航続距離が短いことや、拡張性に乏しく、多くの5500t軽巡が航空機搭載設備を追加装備したのに対し、本艦(と最古参の天龍型)はその余地がないなど、問題も少なくなかった。それでも1942年8月の第一次ソロモン海戦では三川艦隊の一翼を担い出撃。米豪重巡4隻の撃沈に一役買った。1944年4月28日、輸送任務の途次南太平洋で潜水艦ブルーギルの雷撃により沈没。

北海道夕張市の夕張山地を水源とし、江別市で石狩川に合流する夕張川に因む。

この名の艦としては初代であり、海上自衛隊ではゆうばり型護衛艦の一番艦に継承されている(2010年退役)。

阿賀野 Agano

満載排水量:8501t

全長:174.5m 速力:35kt

主砲:15.2cm×6 魚雷:61cm×8

竣工:1942 沈没:1944.2.17

阿賀野型1番艦。5500トン型最終クラスの川内型以来久々に建造された水雷戦隊旗艦用の軽巡洋艦。主砲が15.2cmx6門と5500型(14cmx7門)より強化されたが、太平洋戦争開始後竣工の新鋭艦にもかかわらず高角砲(対空砲)が8cmx4門と貧弱であることは当時から指摘されていた。竣工時は、水雷戦隊ではなく、機動部隊護衛を主任務とする第10戦隊の旗艦となり、1943年11月のブーゲンビル島沖海戦に参加するが活躍の機会は少なく、直後のラバウル空襲で航空魚雷により大破、トラック島への避退中にさらに潜水艦の魚雷を受け航行不能となり曳航でトラックへ入港。応急修理を終えた1944年2月、本格修理のため内地へ向かうが翌日米潜水艦スケートの雷撃で沈没した。

福島県に発し新潟県北部で日本海に注ぐ阿賀野川に因む。旧越後国ではこの川の北側が揚北(阿賀北)と呼ばれた。戦国時代、上杉謙信は常に揚北衆の反乱に手を焼き、上洛の機会を逸する一因となった。

能代 Noshiro 阿賀野型2番艦。1943年秋から伝統の第2水雷戦隊旗艦を務める。1944年10月のレイテ沖海戦では大和・武蔵を始めとする栗田艦隊を護るが、レイテ突入を果たせず撤退する帰途、米空母艦載機の空襲により沈没した。 秋田県を流れる米代川(よねしろがわ)下流の別名、能代川に因む。ちなみに新潟県にも「能代川」があるが、こちらの読みは「のうだいがわ」
矢矧 Yahagi 阿賀野型3番艦。損傷(後に戦没)した阿賀野の後を受ける形で第10戦隊の旗艦となり、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に参加。レイテ沖海戦の局地戦であるサマール沖海戦では敵護衛空母部隊と砲火を交える。海戦後、第10戦隊は解体され、僚艦能代の戦没に伴い第2水雷戦隊旗艦を継承する。戦艦大和の最後の出撃になった天一号作戦にも第2水雷戦隊旗艦として駆逐艦8隻を率いて随行。坊ノ岬沖海戦で大和に先駆けて沈没した。 長野県に端を発し、岐阜県を経て愛知県の三河湾で太平洋に注ぐ矢矧川(矢作川)に因む。太閤記で、秀吉が蜂須賀小六に矢作橋で出会う場面があるが、矢作橋が架橋されたのは1601年で、秀吉の時代に橋はなかった。

酒匂 Sakawa

阿賀野型4番艦にして日本海軍で最後に竣工した巡洋艦。就役時にはすでに実戦の機会はなく終戦時に無償で残存。戦後は復員艦として活躍した後米軍に引き渡され、1946年ビキニ環礁での原爆実験「オペレーション・クロスロード」に供され沈没した。

神奈川県を流れる酒匂川に因む。太平洋戦争に参加した「川」を艦名とする巡洋艦のなかで、「二級河川」に分類されている唯一の川。概ねJR御殿場線と並行して流れ、上流の静岡県側では鮎沢川と名を変え、富士山麓の御殿場市に至る。いっぽう神奈川県側の上流には行楽地として賑わうダム湖の丹沢湖がある。

大淀 Oyodo

満載排水量:11433t

全長192m 速力:35.2kt

潜水艦隊旗艦として造られた特殊な軽巡洋艦。サイズでは重巡の古鷹・青葉型を凌ぎ、前部に装備された2基の15.5cm3連装主砲は戦艦大和級の副砲と同じもの。艦隊後部には、全長約45mという海軍最大の大型カタパルトを装備し、高速水上偵察機「紫雲」6機を搭載する予定だったが紫雲は実戦に間に合わず、大戦後期にはその広大な格納庫を改造して、日本連合艦隊最後の旗艦となる。1944年10月のレイテ沖海戦では、海軍首脳部は陸上(神奈川県日吉)に移動して旗艦任務を解かれ、小沢艦隊に所属し生還。その後ミンドロ島沖海戦に参加した後、北号作戦で内地に生還するが、1945年7月の呉軍港空襲で大破転覆した。

宮崎県を流れる大淀川に因む。延長約107kmのほとんどは宮崎県内で、河口部で県都宮崎市、上流域で県下第2の都城市を流れるが、源流は都城に隣接する鹿児島県曽於市。大淀型は本来は2隻建造される予定であり、建造されなかった2番艦は「仁淀」(高知県を流れる川に因む)となる予定だった。
この名の艦としては初代であり、海上自衛隊ではあぶくま型護衛艦の3番艦に継承された。

香取 Katori

満載排水量:6753t

全長:133.5m 速力:19kt

主砲:14cm×4 魚雷:53cm×4

竣工:1940 沈没:1944.2.17

香取型練習巡洋艦の1番艦。艦種としては軽巡洋艦に類別される。練習艦は主に士官候補生の訓練用に用いられ、遠洋航海や他国海軍との交流にも用いられるために居住性が重視されている。日本海軍では従来、退役間近の艦が練習艦に充てられていたが、初めて専用の練習艦として建造された。ただし、就役時にはすでに戦時体制であり、有事には高い居住性を活かして方面艦隊や潜水艦隊旗艦としての役割を担うこととされていた。太平洋戦争開戦時には潜水艦隊である第六艦隊の旗艦を務める。1944年2月には、輸送船団を護衛する海上護衛総隊に編入されるが、直後のトラック空襲で沈没した。

神社名が付けられた練習巡洋艦のシリーズで、1番艦の本艦は千葉県の香取神宮に因む。同型艦はいずれも「か」で始まる神社名が付けられた。同じ名前の艦としては、明治時代の戦艦(三笠の次のモデル)に次いで2代目。3代目は海上自衛隊で初めて、専用の練習艦として建造された「かとり」(退役済み)。

鹿島 Kashima

満載排水量:6697t

全長:133.5m 速力:19kt

主砲:14cm×4

竣工:1940 除籍:1945.10.15

香取型2番艦。1940年、1番艦香取とともに練習艦隊を編成して上海まで航海したのが唯一の本来任務であり、その後は南洋方面艦隊の旗艦任務に就いて太平洋戦争を迎えた。
同型艦で唯一対潜掃討艦に改装され、魚雷発射管を撤去して対空砲を強化する改装を受けている。太平洋戦争を無傷で生き延び、戦後は復員輸送艦として活躍の後解体された。模型は対空兵装を強化した大戦末期の姿。
茨城県の鹿島神宮に因む。香取神宮と鹿島神宮は、まだ利根川が東京湾に注いでいた時代から、広大な内海「香取海」を隔てて向かい合う位置にあり並び称された。軍艦名でも初代の香取型戦艦に続き「香取型の2番艦」となっている。3代目は、海上自衛隊の現役練習艦「かしま」で、同型艦ではないが、これも初代練習艦「かとり」の後を継いだもの。

香椎 Kashii

満載排水量:6720t

全長:133.5m 速力:18kt

主砲:14cm×4 魚雷:53cm×4

竣工:1941 沈没:1945.1.12

香取型3番艦。竣工は太平洋戦争開戦の直前で、すでに長期間の練習航海に出る余裕はなく、礼砲など練習艦としての装備を外した実践向けの装備で竣工した。太平洋戦争の前半はシンガポールを拠点とする南遣艦隊の旗艦として活動し、敵に艦種を誤認させるためにダミーの第二煙突を装備する時期もあった(模型はこの状態)。太平洋戦争後半は内地へ戻り、船団護衛を主任務とする海上護衛総隊に編入されるが、1945年1月、仏領インドシナ(現在のベトナム)で空襲を受け沈没した。この時護衛していたヒ86船団は、太平洋戦争中でも最悪の被害を出した護送船団で、輸送船10隻は全て失われ、護衛の海防艦3隻のみが僅かに生き残った。

福岡県にある香椎宮から。建造中止となった4番艦の予定艦名も「橿原」といずれも「か」で始まっており、同型艦が同じ頭文字を付ける例は、英国が戦艦・巡洋艦・駆逐艦などで多用しているものの他国では例が少なく、日本の軍艦では珍しい。
同じ名前を持つ艦名は旧海軍、自衛隊ともにない。

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