重巡洋艦 8インチ(20.3cm)以上の主砲を搭載した巡洋艦、日本では一等巡洋艦。艦名は山の名。

艦名写真概要艦名の由来

古鷹 Furutaka

基準排水量:8700t

全長:185.2m 速力:33.0kt

主砲:20.3cm×6

魚雷発射管:61cm×8

竣工:1926 沈没:1942.10.12

古鷹型1番艦。前級のいわゆる5500t型巡洋艦の主砲が14cm×7門で、米オマハ型(15cm×12門)や英ホーキンス型(19cm×7門)に太刀打ち出来ないため、平賀譲造船官の設計で20cm×6門の強力な砲力を持つ巡洋艦として設計された。竣工時は20cm単装砲×6基だったが、1936年からの改装で20.3cm連装×3基に換装されている。太平洋戦争では第6戦隊に所属し、南洋攻略戦、珊瑚海海戦に参加。1942年8月からのガダルカナル戦役では、第一次ソロモン海戦で米巡洋艦部隊の壊滅に貢献するが、同年10月のサボ島沖海戦で米艦隊のレーダー射撃を受け、反撃するも集中砲撃により沈没。

広島県江田島市にある古鷹山に因む。標高394m。江田島は呉港から約5km、広島港から約8kmの瀬戸内海に浮かぶ島で、本土との距離は最も近いところで約1.5kmしか離れていない。1888年に海軍兵学校(士官を養成する学校)が東京から移転して以来、海軍の町として知られ、現在も海上自衛隊幹部候補生学校や海上自衛隊第1術科学校が所在して観光名所にもなっている。隣接する能美島及び倉橋島を経由して呉市街地まで道路がつながっているが、遠回りになるため広島市からは高速船やフェリーで渡るのが一般的。

加古 Kako

基準排水量:8700t

全長:185.2m 速力:33.0kt

主砲:20.3cm×6

魚雷発射管:61cm×8

竣工:1926 沈没:1942.8.10

古鷹型2番艦。古鷹と同じ経緯で20cm単装砲6基から20.3cm連装砲3基に改装された。ワシントン軍縮会議で補助艦(事実上重巡洋艦)の排水量上限が10000tとされた結果、8000t級の古鷹/青葉型は、10000t級の妙高型・高雄型や米英の重巡と比べると非力感は否めなかったが、太平洋戦争開始から同型艦古鷹と共に中南部太平洋方面の戦線で活躍する。1942年8月からのガダルカナル戦役では、米豪の重巡4隻を撃沈した第一次ソロモン海戦の帰途、米国の旧式潜水艦S-44の雷撃で沈没。日本の重巡として、ミッドウェー海戦で沈んだ三隈に次ぐ2隻目の喪失艦となった。

兵庫県を流れる加古川に因む。延長は96kmで上流は佐治川、篠山川とも呼ばれる。重巡なのに山岳名ではなく河川名が名付けられているのは、もともと川内型軽巡洋艦の4番館として予算が採られていたため。予算的にも1番艦の古鷹より先に成立しており、本来は竣工も先のはずだったが、建造中の事故により遅れ、2番艦となった。

青葉 Aoba

基準排水量:9000t

全長:185.2m 速力:33.4kt

主砲:20.3cm×6

魚雷発射管:61cm×8

竣工:1927 沈没:1945.7.28

古鷹型の改良型である青葉型1番艦。古鷹型と主砲砲門数は同じだが、古鷹型が人力装填の20cm単装砲6基であったのに対し、機力装填の20cm連装砲3基となり、発射速度が改善された(古鷹型も後に連装砲3基に改装)。太平洋戦争劈頭より古鷹/青葉型4隻で構成される第6戦隊の旗艦を務め、ガダルカナル戦役を唯一生き延びた。その後も42年に艦隊戦、43年に空襲、44年に潜水艦の雷撃でそれぞれ大破しながらも生還するが、終戦直前の呉軍港空襲で大破着底した。モデルは前檣が三脚に改修された戦争後期の姿。こうの史代の漫画「この世界の片隅に」で主人公の幼馴染が乗艦していたのがこの艦で、アニメ化された映画でも呉で着底した姿が描写されていた。

福井県と京都府の境にある青葉山に因む。標高は693mで別名「若狭富士」。舞鶴軍港からもほど近い。古鷹・青葉型は、二等巡洋艦として計画されたために川の名が付けられた加古以外の3隻に、海軍基地(鎮守府)があった呉・舞鶴・横須賀に縁のある山名が付けられていることになる。なお、仙台城(別名青葉城)があり青葉城恋唄でも知られる宮城県仙台市の青葉山は無関係。

衣笠 Kinugasa

基準排水量:9000t

全長:185.2m 速力:33.4kt

主砲:20.3cm×6

魚雷発射管:61cm×8

竣工:1927 沈没:1942.11.14

青葉型2番艦。古鷹・青葉型で構成された第6戦隊は、沈没した加古を除く3隻が1942年10月に発生したサボ島沖海戦に参加。米軍のレーダー射撃で旗艦青葉が真っ先に砲撃を受け戦線脱落、古鷹も大破離脱(のちに沈没)するなか、駆逐艦初雪とともに反撃に転じ、駆逐艦1隻を撃沈、軽巡・駆逐艦各1隻を大破した。大破した青葉の内地回航後も第6戦隊で唯一の歴戦艦としてガダルカナル海域で活動するが、1942年11月の第三次ソロモン海戦でガダルカナル島砲撃援護の帰途、空母航空隊の爆雷撃で沈没した。 神奈川県横須賀市にある衣笠山に因む。標高134m。横須賀軍港の南約4kmに位置する。本来の地名は「きぬかさ」だが、艦名、現在の町名、JRの駅名いずれも「きぬがさ」と濁る。平安末期、ここには豪族・三浦氏の本拠・衣笠城があったが、1180年、源頼朝の挙兵に味方したために平家方の猛攻を受け落城。89歳の当主・三浦義明は、一族を逃がすと一人城に残って討ち死にした。城址と谷を隔てた東側は、県内屈指の桜の名所としても知られる衣笠山公園となっていて、眼下に横須賀市街地を見下ろせる。

妙高 Myoko

公試排水量:14743t

全長:203.8m 速力:33kt

主砲:20.3cm×10

魚雷発射管:61cm×16

竣工:1929 処分:1946.8.10

妙高型1番艦。ワシントン海軍軍縮条約で定められた補助艦の上限(排水量10000t、8インチ砲10門)に対応した最初のクラス。太平洋戦争開戦直後の1942年1月、航空爆撃により日本の大型艦として最初の損傷を受けるが、修理後、スラバヤ沖海戦で英巡洋艦エクセターを撃沈。珊瑚海、ミッドウェー、第二次ソロモン、南太平洋の各海戦にも参加する。1943年11月のブーゲンビル島沖海戦では駆逐艦初風と衝突し、海戦も米軍に完敗した。マリアナ沖海戦を経てレイテ沖海戦では航空魚雷1本を受け落伍。本国回航の途中で潜水艦パーゴールの雷撃により艦尾切断。曳航されたシンガポールで終戦時も残存。翌年海没処分。

新潟県にある妙高山に因む。別名越後富士。斑尾・黒姫・戸隠・飯綱と共に「北信五岳」として知られる中でも最高峰で、標高は2454m。外輪山である赤倉山と共に、スキー場や温泉地としても名高い。古くは「越の中山」と呼ばれたが、好字令で「名香山」と書かれ、仏教における須弥山信仰から、須弥山の漢訳である「妙高」の字が充てられるようになった。
同名の艦としては初代で、海上自衛隊では、こんごう級イージス護衛艦の3番艦に継承されている。

那智 Nachi

公試排水量:14743t

全長:203.8m 速力:33kt

主砲:20.3cm×10

魚雷発射管:61cm×16

竣工:1928 沈没:1944.11.5

妙高型2番艦(竣工は1番艦妙高より早い)。スラバヤ沖海戦後は、北方を担当する第5艦隊旗艦となり、アリューシャン攻略戦に参加。1943年3月のアッツ島沖海戦では、劣勢の米艦隊撃滅に失敗し、司令官・細萱戊子郎中将は更迭される。その後南方へ戻り、1944年10月のレイテ沖海戦では志摩艦隊の旗艦としてスリガオ海峡に向かうが、微速で退避してきた最上を停止状態と誤認して衝突、艦首を損傷して突入を断念、退却した。1944年10月マニラ湾で空襲により沈没。強運を誇った妙高型4隻で最初の戦没艦となった。 和歌山県にある那智山に因む。那智山という名前の山はなく、熊野那智大社や那智滝(飛瀧神社)の背後に聳える大雲取山、烏帽子山、光ヶ峯、妙法山などの総称。3番艦の羽黒同様、山岳信仰の霊場に由来する。因みに富山に本社を置く工業機械メーカー・不二越のブランド「NACHI」は熊野那智大社と本艦に由来する。同名の艦としては初代。仮名で「ナチ」となるとつまらない忖度から護衛艦名に継承される可能性は低いかも知れないが、ナチスの「NAZI」と「NACHI」では全く発音が異なる。

羽黒 Haguro

公試排水量:14743t

全長:203.8m 速力:33kt

主砲:20.3cm×10

魚雷発射管:61cm×16

竣工:1929 沈没:1945.5.16

妙高型4番艦。スラバヤ沖海戦、珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、ブーゲンビル島沖海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦など多くの海戦に参加。レイテ沖海戦では、重巡部隊が次々と落伍していくなか、利根と共に最後まで生き残る。1945年5月、アンダマン諸島への輸送任務に就いた羽黒と駆逐艦神風は、マレーシアのペナン島沖で英国駆逐艦5席と遭遇。レイテ沖海戦の損傷で全速を発揮できず、2番主砲塔も破壊されたままなうえ、輸送任務のために魚雷も全て下ろしていた羽黒は、圧倒的に不利な状況のなか神風を離脱させて単艦奮戦するが、衆寡敵せず沈没した。 山形県にある羽黒山に因む。山岳信仰と仏教が混淆した修験道の霊場、出羽三山の一つで標高414m。地理的には、出羽三山の最高峰・月山(標高1984m)の一丘陵に過ぎないが、三山をまとめた出羽三山神社があり、信仰・観光の中心となっている。国宝指定されているなかでは最北の五重塔が遺る。同名の艦としては初代。海上自衛隊では、2019年7月に進水し、21年3月に竣工予定となっている「まや型」2番艦(海上自衛隊のイージス護衛艦として通算8隻目)に継承されている。

足柄 Ashigara

公試排水量:14743t

全長:203.8m 速力:33kt

主砲:20.3cm×10

魚雷発射管:61cm×16

竣工:1929 沈没:1945.6.8

妙高型3番艦。1937年、英国王ジョージ6世の戴冠記念観艦式に参列した際、「餓えた狼」と形容された。太平洋戦争劈頭のスラバヤ沖海戦で英重巡エクセター撃沈に貢献するが、その後はシンガポール方面を担当する南遣艦隊や北方警備の第5艦隊などに所属し、華々しい海戦に参加する機会が少なかった。しかし、1944年10月のレイテ沖海戦では志摩艦隊に属して奮戦、同年12月のミンドロ島沖海戦では、「日本海軍最後の勝利」とされる輸送作戦に成功している。姉妹艦羽黒の沈没から1カ月も経たない1945年6月、シンガポール沖で英潜水艦トレンチャントの雷撃で沈没した。 金太郎で有名な神奈川県箱根の足柄山に因む。足柄山という名前の山はなく、箱根外輪山の最北にある金時山(標高1212m)から北の足柄峠に至る山々の総称。金時山は、平安時代の武将源頼光の四天王の一人、坂田公時(幼名・金太郎)の出身地という伝説に由来。今でもクマが出没するかどうかは不明。同名の艦としては初代で、海上自衛隊では、あたご型イージス護衛艦の2番艦に継承された。

高雄 Takao

満載排水量:13400t

全長:203.8m 速力:34kt

主砲:20.3cm×10

魚雷発射管:61cm×16

竣工:1932 処分:1946.10.29

高雄型1番艦。船体、武装は妙高型とほぼ同等だが、艦隊指揮能力を重視して艦橋を大型化したのが最大の相違点。その後、第四艦隊事件を受けて高雄と2番艦愛宕は艦橋の小型化を実施したため、鳥海、摩耶より艦橋は一回り小さい。太平洋戦争開戦時より南方作戦、蘭印作戦、アリューシャン作戦、ガダルカナルの戦い、マリアナ沖海戦などに参加。1944年10月のレイテ沖海戦劈頭、米潜水艦ダーターの雷撃を受け魚雷2本が命中。作戦続行不可能となってシンガポールへ回航。そのまま終戦を迎え、1946年にマラッカ海峡で海没処分。

京都府にある高雄山に因む。同名の艦としては戊辰戦争時の新政府軍艦、明治時代の輸送船、明治時代の巡洋艦、未成の巡洋戦艦(後述)に次ぐ5代目。京都市北西部にある高雄(高尾)は、近隣の槇尾、栂尾とともに「三尾」と称され、高雄山神護寺は紅葉で有名。同型艦愛宕の由来である愛宕山とは同じ山系に属する。八八艦隊構想では、赤城級巡洋戦艦の3番艦に付けられる予定であった。東京の高尾山は無関係。

愛宕 Atago

満載排水量:13400t

全長:203.8m 速力:34kt

主砲:20.3cm×10

魚雷発射管:61cm×16

竣工:1932 沈没:1944.10.23

高雄型2番艦だが、高雄より2カ月早く竣工した。高雄型4隻で編成される第4戦隊は第二艦隊に所属し、特に愛宕は太平洋戦争開戦から沈没まで、第二艦隊旗艦として活躍した。太平洋戦争では高雄とともに多くの海戦に参加し、特に1942年11月の第三次ソロモン海戦では、霧島・高雄とともに米戦艦サウス・ダコタを大破に追い込んだ。1944年10月のレイテ沖海戦でも栗田艦隊旗艦として出撃するが、パラワン水道で潜水艦ダーターの雷撃を受け沈没。決戦を前に総旗艦が真っ先に撃沈されるという、海戦の行方を想起させる出来事だった。 京都府にある愛宕山に因む。同名の艦としては明治時代の砲艦、未成の巡洋戦艦(後述)に次ぐ3代目。愛宕山は山城と丹波の国境にあり、戦国時代、明智光秀が本能寺の変の直前「時は今天が下しる五月かな」と詠んだとされる愛宕百韻の舞台。愛宕神社は全国に勧請されたため、愛宕山も東京・芝をはじめ各地にある。八八艦隊構想では、赤城級巡洋戦艦の4番艦に付けられる予定であった。4代目として海上自衛隊5隻目のイージス艦「あたご」に継承されている。

摩耶 Maya

公試排水量:15159t

全長:203.8m 速力:34.6kt

主砲:20.3cm×8

魚雷発射管:61cm×16

竣工:1932 沈没:1944.10.23

高雄型4番艦。1番艦高雄・2番艦愛宕のような大改装を受ける前に太平洋戦争が勃発したため、鳥海と共に巨大な艦橋構造物が残った。1943年11月、ラバウル空襲で100名以上が死傷する損害を被り、内地で修理の際、3番主砲を撤去して対空砲を強化した「防空巡洋艦」に改装される。有力な対空能力はマリアナ沖海戦で威力を発揮するが、続くレイテ沖海戦では、空襲前日の10月23日、愛宕・高雄の被雷から数分後、潜水艦デースの雷撃で轟沈。一説に、前を進む妙高型2隻と比べて遥かに巨大な艦橋が戦艦と誤認させ、目標になったとも。摩耶の生存者は戦艦武蔵に移乗するが、武蔵も翌日の空襲で沈没し、多くの摩耶乗員が戦死した。 兵庫県にある摩耶山に因む。標高698m。同名の艦は、明治期の摩耶型砲艦に次ぐ2代目。山名の由来は、日本中に出没伝説の残る怪僧空海が、中国からブッダの母「摩耶夫人(マーヤー)」の像を持ち帰り、山頂の忉利天上寺に安置したことから。ケーブルカー・ロープウェイで手軽に行ける掬星台展望台から見下ろす神戸市街地は、日本三大夜景として有名。山名とはいえ、外国人由来の艦名は珍しい。3代目は、2018年7月進水、20年3月竣工予定の、海上自衛隊7隻目のイージス護衛艦となる「まや型」1番艦に継承されている。

鳥海 Chokai

満載排水量:12986t

全長:203.8m 速力:35.5kt

主砲:20.3cm×10

竣工:1932 沈没:1944.10.25

高雄型3番艦。高雄・愛宕のような大改装を受けることなく太平洋戦争を迎え、摩耶と異なり戦中も大規模な改装を受ける機会がなかった。同型艦の中では最も武運に恵まれ、1942年8月にガダルカナル海域で起こった第1次ソロモン海戦では、三川軍一中将率いる第八艦隊の旗艦として米・豪の重巡4隻を撃沈する殊勲を上げる。1944年10月のレイテ沖海戦でも、序盤に同型艦3隻が潜水艦攻撃により沈没・脱落する中で唯一生き残り、サマール沖海戦でも敵空母部隊に肉薄するが、航空攻撃により航行不能となり駆逐艦藤波の魚雷により処分。乗員を救助した藤波も単独避退中に米軍機の攻撃により撃沈されたため両艦とも生存者はなく、最後の最後に運を使い切ってしまう形になった。

山形・秋田県境にある鳥海山に因み、明治時代の摩耶型砲艦に次ぐ2代目。同型艦4隻の中で唯一田舎にある山。出羽富士、秋田富士と呼ばれる秀麗な山だが、山容は見る方角によって大きく異る。艦名はのちに、こんごう型イージス護衛艦に引き継がれる。こんごう、きりしま、みょうこうに次ぐやっぱり4番艦だが、全部田舎の山で疎外感がない。

最上 Mogami

基準排水量:12200t

全長:200.6m 速力:36.5kt

主砲:20.3cm×6

航空機:最大11機

竣工:1935 沈没:1944.10.25

最上型1番艦。最上型4隻は、古鷹・青葉型、妙高型、高雄型で重巡が合計12隻となり、ロンドン軍縮条約の制限でこれ以上重巡が建造できないため、15.5cm砲15門搭載の「軽巡」として建造、条約明け後に20.3cm砲10門の「重巡」に改装した。ミッドウェー海戦で大破後、後部主砲塔2基を取り外して航空機甲板を設置した「航空巡洋艦」に改装される。大戦中に僚艦と2回も衝突したり、味方の輸送船を撃沈したりと、あまり武運に恵まれなかった感が強いがハイブリッドなスタイルから人気は高い。1944年10月のレイテ沖海戦では、西村艦隊に属してスリガオ海峡夜戦に臨み、米艦隊の攻撃を受け沈没。 山形県を流れる最上川に因む。同名の艦としては、明治~大正期の通報艦に次ぐ2代目。芭蕉が奥の細道の旅で「五月雨をあつめて早し最上川」と詠んだように、球磨川・富士川と並んで日本三大急流に数えられる急峻な川で、全長229kmは、一つの県だけを流れる川としては日本最長。最上型は軽巡として建造されたため、軽巡の命名ルールに則り川の名前が付けられた。海上自衛隊では、いすず型護衛艦の2番艦に継承されたが1991年に除籍。旧海軍時代から数えて4代目が、2021年3月、新型多機能フリゲート「もがみ型護衛艦」の1番艦として進水した(2022年3月就役予定)。

三隈 Mikuma

基準排水量:11200t

全長:200.6m 速力:36.5kt

主砲:20.3cm×10

魚雷発射管:61cm×12

竣工:1935 沈没:1942.6.7

最上型2番艦。太平洋戦争では緒戦から最上と行動を共にし、1942年3月のバタビア沖海戦では、米重巡ヒューストンと豪軽巡パースの撃沈に貢献。インド洋での通商破壊戦で商戦10隻を撃沈する。6月のミッドウェー海戦で。最上型4隻はミッドウェー島砲撃を命じられるが途中で中止となり、熊野-鈴谷-三隈-最上の単従陣で撤退の途中、転舵命令の混乱により最上が三隈に追突してしまう。三隈の損害は軽かったものの、艦首を大破して高速を出せない最上を護衛して退避する途中、米軍機の攻撃を受け沈没して日本の重巡喪失第1号となった。 大分県を流れる三隈川に因む。利根川(坂東太郎)、吉野川(四国三郎)とともに日本三大暴れ川に数えられる筑後川(筑紫次郎)の上流であるため全国的な知名度は低いが、豊富な水量が江戸時代に天領として栄え、「豊後の小京都」と呼ばれる日田の繁栄をもたらし、今日も屋形船や鵜飼などが観光の目玉となっている。同名の艦としては本艦が初代で、戦後、ちくご型護衛艦の3番艦に継承されたが、1997年に除籍されている。

鈴谷 Suzuya

公試排水量:13887t

全長:200.6m 速力:35.5kt

主砲:20.3cm×10

魚雷発射管:61cm×12

竣工:1937 沈没:1944.10.25

最上型3番艦。建造中に起こった第四艦隊事件で最上型の船体の脆弱性が判明し、鈴谷・熊野は形状を改めて完成したため、鈴谷型と呼ばれることもある。最上・三隈との外見上の分かりやすい相違点は、第3砲塔と艦橋の間にあった吸気口がなくなったこと。太平洋戦争では、蘭印、インド洋方面に展開後、ミッドウェー海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、マリアナ沖海戦に参加。1944年10月、レイテ沖海戦のサマール沖海戦で航空爆撃により魚雷が誘爆し、沈没した。 当時は日本の領土だった南樺太を流れる鈴谷川に因む。標高1045mの鈴谷岳に端を発し、南樺太最大の都市であった豊原市(現在のユジノサハリンスク)を経て宗谷海峡に面した亜庭湾に注ぐ。もちろん、今後海上自衛隊の護衛艦や海上保安庁の巡視船に採用される可能性はない。

熊野 Kumano

基準排水量:12000t

全長:200.6m 速力:35.3kt

主砲:15.5cm×15

魚雷発射管:61cm×12

竣工:1937 沈没:1944.11.25

最上型4番艦。モデルは15.5cm3連装砲塔5基(15門)を搭載した、厳密には軽巡に分類される改装前の状態。この15.5cm砲は性能が高く、重巡に改装されて取り外されると大和型戦艦の副砲、大淀型軽巡洋艦の主砲に流用された。最上型重巡4隻で構成される第7戦隊旗艦として太平洋戦争を迎え、鈴谷と共に多くの海戦に参加する。1944年10月、レイテ沖海戦のサマール島沖海戦では、早々に米駆逐艦ジョンストンの雷撃を受け艦首を喪失し脱落。マニラへ退避後応急処置を施し内地回航を試みるが潜水艦の雷撃で再び損傷。サンタクルーズ港で応急修理を受けるが、空母タイコンデロガ機の攻撃でついに力尽切た。 奈良県に端を発し、和歌山県を経て三重県で熊野灘に注ぐ熊野川に因む。同名の艦としては初代。全長のほとんどは奈良県で、上流は天ノ川、下って十津川と呼ばれる。支流の北山川にある瀞八丁は名勝として名高い。海上自衛隊では、ちくご型護衛艦(乙型)の10番艦に継承されたが2001年に除籍。2020年11月に進水したもがみ型護衛艦(3900t型FFM)2番艦に継承され、2022年3月就役予定。

利根 Tone

公試排水量:13320t

全長:201.6m 速力:35.5kt

主砲:20.3cm×8

竣工:1938 沈没:1945.7.28

利根型1番艦。主砲を前部に集中し、後部を水上機6機を搭載する飛行甲板とした「航空巡洋艦」とも言うべき偵察任務を重視したタイプ。主砲は4基8門と従来艦よりも2門少ないが、高度な索敵能力を駆使して、太平洋戦争劈頭より南雲機動部隊の勝利に貢献する。しかし、戦争の転換期となった1942年6月のミッドウェー海戦では、本艦の偵察機の発進遅れと艦種識別の不手際が敗北の一因となった。1944年10月のレイテ沖海戦では、栗田艦隊に所属した重巡10隻のうち、羽黒とともに最後まで生き残り、アメリカ護衛空母部隊をあと一歩まで追い詰める。大戦末期、呉軍港空襲で大破着底。 関東平野を流れる利根川に因む。元々東京湾に注ぐ暴れ川だったが、江戸時代初期の利根川東遷事業で、銚子で太平洋に注ぐ形に改修された。同名の艦としては、明治末~大正期の防護巡洋艦に次ぐ2代目。最上型と異なり、最初から20.3cm砲搭載の重巡洋艦だったが、15.5cm砲搭載の軽巡洋艦として計画されたため川名が付けられた。海上自衛隊では、あぶくま型護衛艦の6番艦に継承されている。

筑摩 Chikuma

公試排水量:13320t

全長:201.6m 速力:35.4kt

主砲:20.3cm×8

竣工:1939 沈没:1944.10.25

利根型2番艦。日本で最後に竣工した重巡洋艦。太平洋戦争序盤は利根と共に南雲機動部隊の一員として参加。ミッドウェー海戦では本艦偵察機が雲下の敵艦隊を見逃したことが敗北の一因となった。常に行動を共にした利根と比べると不運で、1942年10月の南太平洋海戦では爆弾3発を受け大破の損害を受ける。最後の戦いとなったレイテ沖海戦では、サマール島沖での戦いで米国護衛空母部隊の航空攻撃により艦尾を吹き飛ばされて航行不能となり、駆逐艦野分により海没処分される。生存者が収容された野分もその後撃沈されたため、筑摩の生存者は、航空機搭乗員を除くと米軍に救助された1名のみであった。

長野・埼玉・山梨の県境に聳える甲武信ヶ岳に端を発し、新潟県で海に注ぐ信濃川の長野県内における呼称。同名の艦としては大正期の防護巡洋艦に次ぐ2代目。一般には、島崎藤村の詩集や五木ひろしの歌に用いられた「千曲川」という表記の方が有名。この川と上高地から流れる犀川が合流するところが「川中島」で、ここから北側が信濃川と呼ばれる。筑摩郡から更級郡が分かれたという歴史的な経緯から、長野県の旧筑摩郡(松本・安曇野・木曽地域)には筑摩川は通っていない。海上自衛隊では、あぶくま型護衛艦の5番艦に継承されている。

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