戦艦 Battleship:帆船時代の戦列艦(Battle Line Ship)から発展した艦種。日清・日露戦争から第二次世界大戦前夜までの海戦の主役

巡洋戦艦 Battle Cruiser:戦艦の攻撃力と巡洋艦の高速力を併せ持った艦種。防護巡洋艦(Protected Cruiser)→装甲巡洋艦(Armoured Cruiser)を経て到達した巡洋艦のバリエーションで、防御力の低さが弱点

 艦名  写真  概要艦名の由来

史上最大の主砲を搭載

大和 Yamato

満載排水量:72809t

全長:263m 速力:27kt

主砲:46cm×9

竣工:1941 除籍:1945.4.7

大和型1番艦。同型艦武蔵とともに世界最大の戦艦で、有効な46cm砲を搭載した唯一のモデル。太平洋戦争開戦直後に完成し、戦争前半の連合艦隊旗艦を務める。日本海軍の「決戦思想」のもと、ミッドウェー海戦を除き出撃することはなかったが、戦局の悪化から1944年6月のマリアナ沖海戦、10月のレイテ沖海戦に参加。1945年4月、米軍の沖縄上陸に呼応して片道出撃の特攻部隊として出撃したが、すでに航空機の援護なしでの水上艦の活動は覚束ない状況であり、敵空母部隊の航空攻撃の前に衆寡敵せず鹿児島県坊ノ岬沖で撃沈された。乗員約3000名の9割以上が戦死した。呉市の大和ミュージアムには、1/10サイズの大和の巨大な模型が展示されており、海底に沈む大和の検証から新事実が判明する都度修正が重ねられている。

大和国(現在の奈良県)に因む。同時に、日本全体の古称でもあり、旧くは「ヤマト」に「倭」もしくは「大倭」の字を充てていた。奈良時代に地名は好字2文字にするように布令された際、「倭」と同音の「和」を使った「大和」と表記されるようになった。

同じ名前の艦としては、明治初期に建造された葛城型国産スループ(帆走軍艦)2番艦の名を継ぐ2代目。東郷平八郎が初代艦長を務めた先代大和は、同型艦武蔵とともに測量艦として長年活躍し、日本海の海底山脈「大和堆」などにその名を残す。1935年の退役後も横須賀に係留されて戦艦大和より長命を保ち、戦後解体された。

20本以上の魚雷に耐えた脅威の防御力

武蔵 Musashi

満載排水量:72809t

全長:263m 速力:27.5kt

主砲:46cm×9

竣工:1942 除籍:1944.10.24

大和型2番艦。日本海軍で最後に竣工した戦艦で建造は三菱長崎造船所。海軍工廠で建造された大和と比べて、民間造船所製の武蔵は内装などが豪華だったと云われ、艦隊旗艦設備も充実していた。実際に大和に代わり1943年2月から1944年5月まで連合艦隊旗艦を務めるが、この間に山本五十六、古賀峯一の両連合艦隊司令長官を失っている。竣工時は15.5cm副砲が艦橋前後の他左右にも配置されていたが、後に撤去され対空機銃が増設された。1944年10月のレイテ沖海戦では、米軍空母部隊の攻撃により魚雷20本以上、爆弾直撃17発、至近弾20発という空前絶後の被害を受け沈没した。モデルは副砲塔4基を搭載した竣工直後の状態。

武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県川崎市、横浜市等)に因む。旧くは「无邪志」「胸刺」などと書かれ、奈良時代の好字例で「武蔵」となった。「武」が「ム」なのはともかく、「蔵」がなぜ「サシ」なのかは定説がない。当時は現在の東京湾岸は広い湿地帯であり、武蔵国は東海道ではなく東山道に属していた。艦内には武蔵国一宮である氷川神社(埼玉県さいたま市)が祀られていた。

同じ名前の艦としては、明治新政府が購入したアメリカ製帆船、初代大和とも同型艦の葛城型スループに次ぐ3代目。2代目は大和と同様測量艦に転じ、「武蔵堆」にその名を残している。

日本海軍の象徴、ビキニに眠る

長門 Nagato(最終時)

基準排水量:39120t

全長:225m 速力:25kt

主砲:41cm×8 副砲14cmx18

竣工:1920 沈没:1946.7.29

長門型1番艦。第二次世界大戦を生き延びた唯一の日本戦艦。太平洋戦争開戦時の連合艦隊旗艦であり、戦間期の日本海軍を象徴する存在。戦争後期のマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦を生き抜き、中破の状態で横須賀軍港で終戦を迎えた。戦後はアメリカに接収され、1946年、ビキニ環礁での原爆実験で沈没した。 長門国(現在の山口県西部)に因む。古来、関門海峡を指して「穴門(あなと)」と呼んでおり、この地域も「穴戸国」だったが、8世紀初めまでに「長門国」に改称された。江戸時代は、周防国(現在の山口県東部)と共に毛利氏の領地であったため、「防長二州」という呼び方もされる。
海上自衛隊の護衛艦名として何度も噂に上るが、未だ実現していない。ヘリ空母に旧国名が使われるようになって「護衛艦ながと」実現の可能性は前進したが、2つの大戦間を代表する戦艦として太平洋戦争前の国民に広く親しまれた艦名であるという由緒が、かえって採用しにくくしているのではないか。

国民に親しまれたS字煙突時代

長門 Nagato(第一次改装後)

常備排水量:33800t

全長:215.8m 速力:26.5kt

主砲:41cm×8 副砲14cmx20

(要目は竣工時)

竣工時の長門は、機関の関係から2本煙突だったが、第1煙突の排煙が艦橋に流れ込む問題があった。当初は煙突前部にカバーを付けたがあまり効果はなく、第1煙突を屈曲させて強制的に後方に排煙するようにして解決した。1934年に改装工事に入るまでこのスタイルであり、国民や世界に本艦を印象づけることとなった。また、煙突を屈曲させて上部でまとめる、日本重巡独特のスタイルの原型にもなった。宮崎駿監督のアニメ映画「風立ちぬ」にもS字煙突の長門が登場している。

長門・陸奥は、大正時代に計画された「八八艦隊」の第1弾であり、40cm主砲を10門に増やした強化型の加賀型(加賀・土佐)、さらに高速化した紀伊型(紀伊・尾張他2隻)の建造が決まっていたが、ワシントン軍縮条約により頓挫。紀伊型は解体、すでに進水していた加賀型も廃棄されることになったが、空母改装予定だった巡洋戦艦天城が関東大震災で大破したため、急遽加賀が空母に改装された。長崎で建造された土佐は標的となって沈められたが、その姿は「軍艦島」の名の由来となった。

未だ解明されぬ「謎の爆沈」

陸奥 Mutsu

基準排水量:39050t

全長:225m 速力:25.3kt

主砲:41cmx8、14cmx18

竣工:1921 沈没:1943.6.8

長門型2番艦。戦間期、米コロラド級3隻、英ネルソン級2隻と共に、40cm砲を搭載する「ビッグ・セブン」と称された最強の存在であり、姉妹館長門とともに、交互に連合艦隊旗艦を務め、日本海軍の象徴として親しまれた。1943年6月、瀬戸内海江田島沖で爆発事故を起こし沈没。乗員1474人中生存者は353人に過ぎなかった。原因は今以て不明だが、吉村昭の小説「陸奥爆沈」では窃盗を疑われた水兵の自殺説が強く示唆されている。国内の、比較的浅い場所に沈んだため、主砲・副砲・スクリュー・錨など、多くの装備品が引き揚げられ、各地の博物館や神社などで展示されている。

陸奥国(現在の概ね青森・岩手・宮城・福島県)に因む。戦後、自衛隊での採用事例はないが、日本初の原子力船が「むつ」と命名された。しかし、航行試験中に放射能漏れを起こすなどトラブルが続き、結局原子炉を撤去してディーゼル推進の海洋地球研究船「みらい」に生まれ変わった。2代続けての縁起の悪さを考慮すると、今後自衛艦や海上保安庁の巡視船に採用することは低いと思われる。

扶桑型の主砲配置を適正化

伊勢 Ise

満載排水量:40169t

全長:215.8m 速力:25.4kt

主砲:36cmx12、14cmx16

竣工:1917 航空戦艦へ改装:1943

伊勢型1番艦。本来は扶桑型の3・4番艦として計画されていたが、扶桑の実績から砲塔配置を変更するなど設計を改めた伊勢型として建造された。前型の扶桑型が、3・4番主砲を第1煙突の前後に振り分けていたのに対し、第1煙突後部に背負い型で配置したのが大きな違いで、大改装後のスタイルをみると、扶桑型(扶桑・山城)の艦橋がいかにもひょろ長く脆弱に見えるのに対し、本級は煙突が艦橋に近いことも手伝って重厚なイメージがある。ミッドウェーでの敗戦後、空母戦力強化のために戦艦の空母化が検討され、折しも姉妹艦日向が第5砲塔を爆発事故で失っていたこともあり、本級2隻が対象となった。戦時であることから工期短縮のため後部の第5・第6砲塔を撤去して飛行甲板を装備した、他に例を見ない「航空戦艦」が誕生した。

伊勢国(現在の三重県中部)に因む。伊勢といえば天照大神を祀る伊勢神宮であり、天孫降臨の地・高千穂がある2番艦日向と好一対をなしている。海上自衛隊が満を持して投入したヘリ空母でも、ひゅうが型の2番艦に採用された。

主砲爆発事故が航空戦艦への契機

日向 Hyuga

基準排水量:36000t

全長:215.8m 速力:25.3kt

主砲:36cmx12、14cmx16

竣工:1918 航空戦艦へ改装:1943

伊勢型2番艦。太平洋戦争開戦後の1942年、後部の第5砲塔が演習中に爆発事故を起こし、直後のミッドウェー海戦には、第5砲塔を撤去した後に3連装対空機銃4基を搭載して出撃した。この奇貨と同海戦で空母4隻を喪失したことが、日向と姉妹艦伊勢を航空戦艦に改装する大きな要因となった。伊勢と日向は艦型が酷似していることでも知られるが、最大の相違点は後部マスト頂部のヤードが、マストの前側に付いているのが日向、後ろ側に付いているのが伊勢で、これは識別のためにあえてそうしたとされている。 日向国(現在の宮崎県)に因む。同じ名前を持つ艦としては初代。海上自衛隊では、2009年に就役した戦後初の実質的なヘリ空母(名目上はあくまで護衛艦)、ひゅうが型のネームシップに継承された。2番艦は「いせ」で、戦艦では1番艦伊勢、2番艦日向だったが、ヘリ空母は1番艦ひゅうが、2番艦いせと順番が逆になった。この理由はわかりません。

アンバランスな艦橋で世界を魅了

扶桑 Fuso

満載排水量:39150t

全長:212.8m 速力;24.7kt

主砲:35.6cm×12

竣工:1915 沈没:944.10.25

扶桑型(全2隻)の1番艦。世界で初めて排水量3万トンを超えた戦艦。改装時に3番砲塔を前向きにしたことから、「ジェンガ」と揶揄されるアンバランスな艦橋となったことが最大の特徴(というか魅力)。太平洋戦争では、低速なことから活躍の場は少ないまま内地にあったが、陸奥の沈没を受けて南太平洋に進出。1944年6月、米軍のビアク島上陸を阻止すべく発案された「渾」作戦に参加するが中止となる。同年10月のレイテ沖海戦では姉妹艦山城とともに西村艦隊の主力として出撃したが、フィリピン・スリガオ海峡での夜戦で米国駆逐艦の魚雷攻撃を受け、主砲弾薬庫の爆発により艦体が分断され沈没した。生存者は10名以下と伝わる。 中国の古典に登場する東方海上の巨木。転じて日本の異称となり、平安時代には日本に輸入されて、歴史書「扶桑略記」などに用いられた。同名の艦としては、明治政府が最初に発注した装甲艦に次ぐ2代目。愛知県丹羽郡扶桑町や出版社の扶桑社、三菱ふそうトラックなど、「扶桑」を冠した地名や企業名も多いが、海上自衛隊の艦船命名基準に合致しないため継承される可能性は低い。

スリガオ海峡での壮絶な最期

山城 Yamashiro

満載排水量:38380t

全長:212.8m 速力;24.5kt

主砲:35.6cm×12

竣工:1917 沈没:944.10.25

 扶桑型2番艦。1922年、日本初の航空機発艦実験を行う。改装時に3番砲塔が後ろ向きのままだったため、扶桑と比べて安定した艦橋形状となった。太平洋戦争では低速のためミッドウェー海戦で出撃した以外はもっぱら瀬戸内海で練習艦を務め、扶桑の南洋出撃後も引き続き内地にあったが、1944年10月、敵のフィリピン・レイテ島上力に呼応して発動された捷一号作戦には第1遊撃部隊第3部隊旗艦、通称西村艦隊の旗艦として出撃。スリガオ海峡夜戦で米国戦艦・巡洋艦・駆逐艦部隊のレーダー射撃により沈没。扶桑ともども、生存者は10名前後に過ぎない。 山城国(現在の京都市を含む京都府南部)に因む。旧くは首都奈良(平城京)から見て平城山の向こう側に当ることから「山背」と書き、「山代」の字も用いられた。784年の長岡遷都とその10年後の平安遷都以来1000年以上にわたり日本の中心だった地域で、それだけに「大和」や「長門」同様、海上自衛隊の護衛艦には使いづらいかも知れない。

アメリカ最新戦艦2隻に挑んだ老嬢

霧島 Kirishima

満載排水量:36668t

全長:222.7m 速力:29.8kt

主砲:35.6cm×8

竣工:1915 沈没:1942.11.15

金剛型4番艦。巡洋戦艦として初めて民間造船所(三菱長崎)で建造され、神戸川崎の榛名と同日に竣工。後に防御力を強化した高速戦艦となる。太平洋戦争冒頭から南雲中将率いる空母部隊の直掩艦として真珠湾、インド洋、ミッドウェー海戦に参加。ガダルカナル島を巡る争いでは、第3次ソロモン海戦の第2夜戦で米国の新鋭戦艦2隻と遭遇。戦艦サウスダコタを撃破するが、ワシントンの砲撃で沈没。 鹿児島県と宮崎県の県境にある霧島山に因む。海上自衛隊でもこんごう型イージス護衛艦の2番艦に継承されている。

高速戦艦として終戦間際まで奮闘

榛名 Haruna

常備排水量:35600t

全長:222m 速力:30kt

竣工:1915 沈没:1945.7.28

金剛型3番艦。4番館霧島とともに、主力艦として初めて民間造船所(神戸川崎:現在の川崎重工業)で建造された。インド洋作戦、ミッドウェー海戦に空母部隊の一員として参加。ガダルカナル戦役では、金剛とともにアメリカ軍のヘンダーソン飛行場を三式弾(主砲用対空焼夷弾)で夜間砲撃する戦果を挙げた。1944年6月のマリアナ沖海戦での損傷により、同年10月のレイテ沖海戦には最大速力を出せない状態にもかかわらず奮戦する。内地帰還後、終戦直前の呉軍港空襲で大破着底し、戦後解体された。 群馬県にある榛名山に因む。赤城山、妙義山と共に「上毛三山」と称される活火山で、山頂のカルデラにできた榛名湖と榛名富士は紅葉の名所として知られ、山腹には伊香保など多くの温泉が湧く。漫画「頭文字D」の主要な舞台「秋名山」は榛名がモデル。海上自衛隊では、1973年に就役した、ヘリコプター3機搭載可能な最初の大型護衛艦に継承され、戦前の巡洋艦と同じ「山の名前」を採用する最初の例となった(「川の名前」は先立って1960年代から採用されていた)。2009年に除籍、解体された。

超接近夜戦で沈んだ日本戦艦喪失第1号

比叡 Hiei

満載排水量:

全長:m 速力;kt

主砲:

竣工: 沈没:1942.11.13

金剛型2番艦。ワシントン軍縮条約で日本の戦艦保有数が9隻とされたため、すでに10隻を保有していた日本海軍は、本艦を条約で保有を認められた「練習戦艦」に改装した。武装、装甲、機関の一部を下ろして練習間任務に就いていた比叡は、軍縮条約明けに大改装を行い、姉妹艦3隻よりも近代的な外観になった。太平洋戦争ではハワイ作戦、インド洋作戦、アリューシャン作戦に参加後、ソロモン海域に転戦。ガダルカナル島の米軍飛行場砲撃に赴いた日本海軍と迎撃したアメリカ海軍の間で闇夜の超接近戦となった第三次ソロモン海戦で巡洋艦、駆逐艦の小口径砲を大量に被弾し舵を損傷し自沈、太平洋戦争で最初に喪失した日本戦艦となってしまった。

京都府と滋賀県の堺にある比叡山に因む。標高848m。東山三十六峰を代表する山で、古くから信仰の場として崇められ、最澄が開いた延暦寺や日枝神社(日吉神社)で知られる。

最後の外国製戦艦

金剛 Kongo

満載排水量

常備排水量:35600t

全長:219.4m 速力:30.3kt

竣工:1913 沈没:1944.11.21

金剛型1番艦。外国で建造された最後の戦艦。太平洋戦争では劈頭から南方作戦、インド洋作戦、ミッドウェー作戦など最前線で活躍。1942年10月には僚艦榛名と共にガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を夜間砲撃で火の海にするという、戦艦を出し惜しみした日本海軍らしからぬ大胆な作戦を成功させた。1944年10月のサマール沖海戦でも護衛空母ガンビア・ベイや駆逐艦ホエールの撃沈に寄与する活躍を見せるが、日本への帰途、台湾沖で米潜水艦シーライオンの魚雷2本を被雷。通常戦艦に2本の魚雷は致命傷ではなくなおも航行を続けたが、2時間後に急速に傾斜・爆発して沈没。司令官、艦長以下8割以上の乗員が戦死した。艦齢30有余年、太平洋戦争でも3年余り奔り続けてきた金属疲労が一気に出たとも言われている。 奈良県と大阪府の府県境にある金剛山に因む。戦艦ながら国名ではなく山名が付いているのは、当初巡洋戦艦(戦闘巡洋艦)として建造されたため。同名の艦としては、明治初期に建造された金剛型コルベットに次ぐ2代目。海上自衛隊では、米国で開発された画期的な対空防衛システム「イージス」を米国以外で初めて搭載したイージス護衛艦「こんごう型」のネームシップに継承されている。

幻の八・八艦隊計画艦

天城 Amagii

満載排水量:41200t

全長:252.4m 速力;30kt

主砲:41cm×10

起工:1920 

竣工:1927(空母として完成)

天城型巡洋戦艦(全4隻)の1番艦。戦艦長門型を上回る攻撃力と、30ノットの高速力を兼ね備え、巡洋戦艦というよりも「高速戦艦」。ワシントン軍縮条約の結果、本艦と2番艦赤城は空母への改装、3番艦愛宕、4番艦高雄は建造中止となったため、このスタイルで竣工した艦はなかったが、条約がなければ戦艦尾張型4隻もほぼ同型になったと伝えられている。横須賀で空母改装中の1923年、関東大震災で本艦は船台から滑り落ちて大破。建造継続不可と判定されて解体され、代わりに解体予定だった加賀型戦艦1番艦が空母に改装された。 静岡県にある天城山に因む。同名の艦は、第2次大戦末期に完成した雲龍型航空母艦の2番艦に採用されたが、大戦終結直前の呉軍港空襲により大破転覆。戦後アメリカ軍によりカラービデオで撮影され、まともに浮いている時より、沈んでいる時のほうが有名になってしまった。
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