藤原氏系織田氏 越前織田(「おだ」ではなく「おた」)の出身で斯波氏の被官 淳広は教長の次の尾張守護代だが、尾張守護が義教→義淳へ交代したことに伴い偏諱を受けて教長が改名したという同一人物説もある
藤原信昌 1316-93後      将広(兵庫介)
父と共に劔神社置文に名あり
    @織田常松/教信/教広
?-1431前
 
    A朝長/教長 ?-1431頃?
勘解由左衛門尉
    淳広 ?-1434頃?
教長が改名?
  E寛広?-1504後
広近の子
               
織田劔神社神官。1393劔神社置文に子将広と共に名が残り、尾張織田氏の祖が藤原氏を名乗っていたことの裏付け 「将広」は越前守護斯波義将の偏諱と考えられ、14世紀末頃までには斯波氏の重臣になっていた模様   主君の越前守護斯波義重が新たに尾張守護を兼ね、1402守護代とし尾張入りし、尾張織田氏の礎を築く。
但し、常松は管領となった義重改義教に従い在京し、弟とされる常竹が又守護代として尾張に在したと思われる。
  岩倉織田(伊勢守家)  
      B郷広 ?-1451 1441逃亡
斯波氏の命で久広に討たれる
    D敏広 ?-1481
久広の子または同一人物とも
    F広高 ?-1537後     G敏信?
1466-1517?
    H信安 ?-1591
信賢の廃嫡を企て追放される
    I信賢 ?-1559?
信長に降伏し岩倉織田滅亡
                         
      応仁の乱で西軍。東軍の敏定と争い後和睦して岩倉城を築く。後再び敏定と争い敗死(または敗北後病死)  
    C久広 1441郷広に代わり尾張守護代 敏弘と同一人物とも     寛広 ?-1504後
敏広養子
  信家 ?-1582
高遠城の戦いで討死
           
         
      広近 ?-1491     寛近(津田武永) ?-1547後   津田正盛 1583-1661
尾張藩に仕える
    尾張藩士
     
     
      広忠
   
    清洲織田(大和守家)
  常竹(左京亮) ?-1428前
尾張又守護代(在尾張)
    @久長(常祐)
兵庫介・大和守 織田勝久の子とも
    A敏定(常英) 1452?-1495
船田合戦中に陣没
    B寛定 ?-1495
船田合戦で美濃で討死
    D達定 ?-1513
守護斯波義達と争い敗死
               
常竹-勝久-久長とする系譜もある   応仁の乱で西軍の尾張守護斯波義廉・守護代織田敏広に対し、東軍の前尾張守護斯波義敏は配下の織田敏定に尾張進出を命じ、敏広の下津城を攻略する。その後一進一退の攻防の末、岩倉城に拠る敏広が北尾張、清州城に拠る敏定が南尾張を統治することで決着する。    
    C寛村(常勝) ?-1503前   E達勝 ?-1550頃
実父は織田勝秀とも
    F信友 ?-1555 守護斯波義統を討ち信長と信光に討たれる
※織田信長の曽祖父良信以前及び伊勢守・大和守家等一族の系譜には諸説あるうえ、          
 偏諱を与えられた守護の交代に伴う改名の可能性もあり、類推の箇所がかなり多い。      
参考:尾張守護斯波氏当主(守護代織田氏に偏諱を与えており、名前から世代を類推できる)     敏信? 1466-1517?
岩倉織田を継ぐ?
  織田信秀室
土田御前の前の正室
尾張守護 伊勢守家 大和守家 清洲三奉行    
1400-1418 義重(後に義教) 教広、教長    
1424-1433 義淳 淳広     良信(西厳) ?-1486頃?
久長の子で敏定の弟とも
1433-1436 義郷 郷広  
1436-1452 千代徳丸(義健、18歳で死去)   清須三奉行(因幡守家)
1452-1460 義敏 敏広   広長
一族だが係累は不明
    広貞
1460-1461 松王丸※      
1461-1466 義廉    
1466 義敏 敏定     広延     達広?     広信/信友
清須織田を継ぐ?
1466-1468 義廉          
1468-1499 松王丸※ 敏信   清須三奉行(藤左衛門家)
(1472-) 義良 良頼、良信   久孝/良頼/常寛 ?-1506
小田井織田)
    寛故/寛政 ?-1550     寛維 1520-1542
大垣城攻めで討死
(1485-) 義寛 寛広、寛近 寛定、寛村 寛政          
1511-1517 義達 達定、達勝      
1536-1554 義統     含笑院(いぬゐ) ?-1527
信定正室(信秀母)
  寛廉/信張 1527-1594     信直 1546-1574
第三次長島攻めで討死
    信氏 ?-1584/85     津田清幽?  ?-?(90歳没)
石田三成-尾張藩士 
1554-1556 義銀      
※1472年に元服して義寛と名乗る前は父義敏の偏諱      
    寛貞     忠寛 ?-1576     常遠
信昌
  忠辰 1572-1613     津田知信 1598-1644
尾張藩士
         
  清須三奉行(弾正忠家)
  良信(西厳) ?-1486頃?
勝幡織田) 兄敏定の子とも
信定/信貞(月厳) ?-1538
津島港を擁し経済力で主家を凌ぐ
信秀(桃厳) 1510-1551
没年は1549、52とも
信広 ?-1574
第三次長島攻めで討死
    桂峯院
丹羽長秀正室(長重母)
           
織田信長の先祖は父信秀・祖父信定・曽祖父良信まではほぼ確定的だが、その前はよくわからない。良信は清須織田(大和守家)織田敏定の弟または子とされるが、孫信秀の生年から良信は1460〜70年頃の生まれと思われ、敏定(1452年生)の子よりは弟の方がしっくりくる。      
      信時/秀俊 ?-1556 安房守
信広同母弟 謎多い謀殺
    七条 飯尾敏成室 後
 下間頼龍室(頼広/池田重利母)
     
      ※信時は信長の異母弟とも
      信正/(村井重勝)
 1554-1647
       
       
      信長 1534-1582
母:土田御前
  信忠 1557-1582
母:生駒氏? 二条城で討死
秀信 1580-1605
           
      信長の兄弟としては、庶長兄信広とすぐ下の同母弟信勝が知られる。いずれも信長に反旗を翻し、信広は許されたが信勝は殺された。
信時は信広の同母弟だが、信長とどちらが年長かは不明。
他の兄弟では秀孝と信包が信長・信勝と同じ土田御前の所生と考えられている。信包は信秀の4男とされるが事績から信広・信時・信長・信勝・秀孝の下の6男と考えられる。7弟信治は朝倉・浅井、8弟信興・9弟秀成は一向一揆と、末弟信利は本能寺の戦いでそれぞれ戦死。本多忠勝の家老となった10弟中根信照と11弟長益のみが江戸時代まで生き残った。
   
          秀則 1581-1625
       
       
          信雄 1558-1630
母:生駒氏
秀雄 1583-1610
           
         
          信良 1584-1626     小幡藩     高畠藩2万石→
天童藩1万8000石で明治維新
         
         
          高長 1590-1674     宇陀松山藩     丹波柏原藩2万石で明治維新
           
           
          信為 ?-1666  
         
         
          信孝 1558-1583 母:坂氏 秀吉と争い自害させられる     信茂     友信     信章 1601-1648  
         
         
          勝長/信房 ?-1582
武田氏養子 本能寺で討死
    津田勝良/為直 ?-1616  
         
         
          羽柴秀勝 1568-1586
羽柴秀吉養子
 
         
         
          信秀 1571-1597後     重治  
         
         
          信高 1576-1603     高重 1602-1661     高家旗本織田氏                     織田信成
(フィギアスケーター)
         
       
          信吉 1573-1615
       
       
          信貞 1574-1624
       
       
          信好 ?-1609
       
       
        長次 ?-1600
     
     
      信勝(信行) 1536-1557
母:土田御前 信長と争い粛清
津田信澄 1555-1582
本能寺後信孝に討たれる
         
       
        津田信糺 1555-1633
       
       
      秀孝 1540頃-1555
母:土田御前? 信次の兵が誤殺
  信兼 ?-1583
     
     
      信包 1543-1614
母:土田御前?  大和柏原藩
信重 ?-1615後
伊勢林1万石→改易
         
       
        信則 1599-1630
丹波柏原藩3万2000石
    信勝 1623-1650
無嗣改易
 
         
       
        信当 1600-1671
信勝改易後旗本3000石
     
     
      信治 1545-1570
宇佐山城の戦いで討死
    柘植正俊 1548?-1611
     
     
      市 1547-1583
母:土田御前?
     
     
      信興 ?-1570
一向一揆に攻められ自刃
     
     
      秀成 ?-1574
第三次長島攻めで討死
長孝 ?-1606
美濃野村藩1万石
    長則 ?-1631
無嗣断絶
       
       
      中根信照 ?-1610
母:中根氏
  頼長 1582-1620 豊臣秀頼家臣 大阪夏の陣前に退去     長好 1617-1651
       
       
      長益 1547-1621
有楽斎 摂津味舌3万石
  長政 1587-1670
大和戒重藩1万石
    大和芝村藩1万石で明治維新
         
       
      長利 1550頃?-1582
本能寺の変で討死
  尚長 1596-1637
大和柳本藩1万石
    大和柳本藩1万石で明治維新
   
   
    信康 ?-1544
加納口の戦いで討死
信清 ?-1564後 津田信益 ?-1633
           
     
      広良(與康) ?-1562
十四条の戦いで討死
   
   
    信光 1516-1556
家臣坂井孫八郎に討たれる
信成 ?-1574
第三次長島攻めで討死
       
     
      信昌
叔父信実養子
     
   
    信実 ?-1542後     信昌?-1574
第三次長島攻めで討死
津田長義
           
   
    信次?-1574
第三次長島攻めで討死
刑部大輔 中川重政 ?-1584後
           
   
    津田盛月 ?-1593
   
   
    木下雅楽助 ?-1584
羽柴秀次臣 長久手で討死
   
   
    津田正勝 1547-1617
加賀前田氏家老
 
  飯尾氏(斯波氏の一族と伝わる)
  敏宗  ?-1545後 飯尾定宗  ?-1560
桶狭間前哨戦 鷲津砦で討死
飯尾尚清/信清 1528-1591 飯尾敏成 ?-1582
本能寺の変で討死
             
     
    重宗/俊宗   宗敏
 
 
  秀敏/信平 ?-1560
玄蕃允 桶狭間(鷲津砦)で討死
津田秀重 津田秀政/政秀 1546-1635
滝川一益娘婿・幕府旗本
         
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