藤原北家秀郷流 伊賀氏、美濃安藤氏
藤原秀郷(俵藤太)
平将門の乱を鎮圧
    千常/千経/知常
鎮守府将軍
    文脩/文條/文修 ?-1001後
鎮守府将軍
    文行 
             
 
                               
 
 
  公光 ?-1057
前九年の役で討死
    公季
木工頭 伊賀を称したとも
    公助
三河守
    文郷
             
 
                                 
 
  伊賀氏
  光郷     伊賀朝光 ?-1215
伊賀守 伊賀を称する
  光季 ?-1221 京都守護
後鳥羽上皇方に襲撃され討死
    光綱 ?-1221
父と共に討死
           
   
    季村
 
 
  光宗 1178-1257
伊賀氏の変で失脚 後評定衆復帰
    宗義     光政
山城守
    兼光 ?-1335後
鎌倉評定衆→建武政府重臣
貞長
               
     
    宗綱     光泰     頼泰     光貞     盛光     光政     飯野光隆     奥州伊賀氏
(飯野八幡宮神主家)
                             
    備前伊賀氏
  北条義時
鎌倉幕府2代執権
北条政村 1205-1273
義時5男 鎌倉幕府7代執権
  光長     兼長     頼兼     高光/光高
1362 細川清氏攻めに従軍
    行季     行隆     勝隆     久隆 ?-1578
宇喜多直家により毒殺
    家久
小早川隆景家臣
                                   
     
        北条実泰 1208-1263
義時6男
    金沢実時 1224-1276
金沢文庫を創設
         
     
  伊賀の方 北条義時継室、
伊賀氏の変で流罪 1224頃死去
  一条実雅室
 
  安藤/安東氏
  光資     光成     光房     稲葉光義     光貞     光直     光忠     光祐     伊賀光就     定就     安東定重/守利     守就 1503?-1582 斎藤→織田家臣→追放 本能寺後挙兵し敗死     尚就/定治 ?-1582
父と共に挙兵し敗死
                                               
伊賀氏の変
鎌倉幕府執権北条義時は1224年7月に急死する。継室伊賀の方は、これを機に実子政村を執権、娘婿一条実雅を将軍にしようと画策するが、北条政子・泰時、三浦義村らの連携で未然に防がれ、伊賀の方と兄の光宗、一条実雅らは流罪となる。
しかし、義時の死さえ伊賀の方による毒殺という風聞もあったにもかかわず政村には類が及ばず、光宗も数年で赦されていることと、事件の骨格が政子の父北条時政と後妻牧の方による牧氏事件と酷似していることから、謀反の事実はなく、事件は北条氏による伊賀氏排斥のためのでっち上げとも言われている。
   
    守重/郷氏 ?-1582
兄と共に挙兵し敗死
    山内可氏 1571-1629
母は山内一豊姉 土佐藩家老
     
 
  直重 ?-1600 蒲生→石田三成家臣蒲生将監  関ヶ原で討死
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