桓武平氏系 伊勢氏、後北条氏
平貞盛 ?-989?     維衡(伊勢平氏祖)     正度 ?-1067前     季衡 1022-1081  
   
 
                               
 
 
  盛光     盛行     頼宗     頼俊
 
 
                                B貞経 1396頃-?
政所執事 1431失脚
貞為 1559-1609     貞衡 1605-1689
徳川旗本
    旗本として明治維新
     
  伊勢氏 京都伊勢    
  俊経 ?-1238     伊勢俊継 1217-1274
官位(伊勢守)から伊勢を称する
    盛継   @貞継 1309-1391
1379政所執事
    貞信     A貞行 1358-1410
政所執事
    C貞国 1398-1454
政所執事
    DF貞親 1417-1473
文正の政変で失脚
    EG貞宗 1444-1509     H貞陸 1463-1521     I貞忠 1483-1535     J貞孝 ?-1562
三好長慶・松永久秀に敗死
    貞良 ?-1562
父と共に討死
    貞興 1562-1582
織田信忠を討つ、山崎で討死
           
   
  頼継 貞信   貞藤 1432?-1491?     貞職     貞辰
1534以降北条家臣
    貞就
父と共に北条家臣
    貞運 ?-1590
小田原合戦で討死
         
  政所の長官である執事職は鎌倉幕府発足以来ほぼ二階堂氏の世襲が続いた。室町時代に入ると長井氏・京極氏・粟飯原氏なども歴任するが、1379年以降はほぼ伊勢氏の世襲となる。系図の丸数字は伊勢氏としての政所執事就任順。    
    北条早雲母   貞孝
 
      今川氏
    今川義忠 1436-1476
塩買坂の戦いで討死
  氏親 1471-1526     義元 1519-1560     氏真 1538-1615
       
             
               
         
           
      北川殿 1450頃?-1529
今川義忠室
  瑞渓院 ?-1590
北条氏康正室 
早川殿 1535頃?-1613
今川氏真室 蔵春院
       
         
      貞興
母は不明 妾腹?
    氏親 1537-1552
新九郎
             
  備中伊勢         後北条祖 後北条氏    
  盛経 経久     盛久     盛綱     盛定/盛次     @盛時  1456-1519
早雲庵宗瑞(北条早雲)
    A北条氏綱 1487-1541     B氏康 1515-1571     C氏政 1538-1590
小田原攻めで自刃
    D氏直 1562-1591
小田原攻めで降伏・出家
    氏盛 1577-1608     氏信 1601-1625
河内狭山藩1万石で明治維新
                     
    伊勢氏が北条氏に改めたのは氏綱が当主となった1523年頃。父盛時(早雲庵宗瑞)は生涯伊勢姓で、「北条早雲」を名乗ったことはない。        
  弥二郎(盛興?)  1464?-1522?           太田源五郎 1564頃-1582
太田氏資娘婿 岩付城主
↗北条早雲こと伊勢盛時は従来1432年生まれで、50歳を過ぎて国持大名となり88歳まで生きた遅咲きの代名詞とされてきた。しかし、
・「伊勢新九郎盛時」の文書上の初出年(1481年)
・嫡男氏綱以下5名の子の生年(1487年〜1510年頃)
・母の兄弟である伊勢貞藤の生年(1432年頃)
・姉が嫁いだ今川義忠の生年(1436年)
・享年88とする系図が江戸時代中期以降にしかなく、享年64とした系図もある
といった傍証から、近年は1456年生まれで64歳没が定説になりつつ有る。、
         
         
          太田氏房 1565-1592
         
         
        氏照 1540-1590
八王子城主 小田原攻めで自刃
  千葉直重 1573?-1627
叔父氏照養子 後千葉宗家継承
         
         
          直定 1576?-1595後
叔父氏邦養子
    氏時
子孫は紀州徳川家に仕える
       
       
        氏規 1545-1600
韮山城主
    氏盛 1577-1608
       
       
          (藤田)氏邦 1548?-1597 鉢形城主 母は三山綱定姉妹とも     庄三郎
加賀前田氏家臣
    主殿介 ?-1647
加賀前田氏家臣 無嗣断絶
       
     
            上杉景虎 1554-1579
謙信養子 御館の乱で自害
    道満丸 1571-1579
御館の乱で景勝方が殺害
    ↗北条氏邦は従来氏康の正室瑞渓院の子(氏政・氏照の同母弟で氏規の同母兄)とされてきた、しかし兄弟の序列が氏規・氏忠より低い時期があることから妾腹で、後に序列が氏照の次に昇格していることから、北関東支配の功績により当主氏政が瑞渓院との養子縁組を行ったのではないかとされている。  
     
      (佐野)氏忠 1556-1593
唐沢山城主
     
     
      氏光 ?-1590
 高野山で没
    氏則
徳川旗本
     
     
      七曲殿/新光院  ?-1586後
北条氏繁室
     
     
    大頂院 1516?-1558
北条綱成室
  桂林院 1564-1582
武田勝頼室 天目山の戦いで自害
   
     
      康成/氏繁 1536-1578     氏舜 ?-1581
             
         
    綱成 1515-1587
実父福島正成 玉縄城主 地黄八幡
    沼田康元/氏秀 ?-1583
康元(1560討死?)と氏秀は父子とも
  氏勝 1559-1611
         
     
  北条氏時 ?-1531
玉縄城主
  為昌 1520-1542
叔父氏時の玉縄城を継ぐ
    綱房 1521-1549後
実父福島正成?
  氏成/直重
         
    北条為昌は綱成・綱房兄弟を養子にしたとされるが、綱成は為昌より年長であり後見的な役割で、為昌死後に玉縄城を継承した可能性が高い。綱房との養子縁組にも異論がある。  
      千葉直胤
武蔵千葉氏を継承
     
     
    氏尭 1522-1562頃
氏忠・氏光の実父とされる
    氏忠 1556?-1593
父の死後伯父氏康養子
  繁広 1576-1612     氏長/正房 1609-1670
北条流兵法祖
     
     
      氏光 ?-1590
父の死後伯父氏康養子 
     
   
    高橋種政→綱高 1506-1585
実父高橋高種 母北条早雲養女
    康種 1540-1619
小田原開城後高橋に復姓
 
 
  葛山氏広  ?-1539
兄氏時の子とも 葛山氏家督
    氏元 1520-1573
実父葛山貞氏 武田信玄が処刑
    信貞 1559前-1582
氏元娘婿 信玄6男 甲州征伐で自害
         
 
  北条長綱(幻庵宗哲)
1510頃?-1589
    三郎(時長?) ?-1560
 
北条幻庵は従来1589年に97歳没とされていることから1491年の生まれと考えられてきたが、1523年頃まで幼名の菊寿丸を名乗っている記録があるので、1510年前後の生まれと思われる。父早雲が1432年生まれだと流石に無理があるが、1456年生まれなら晩年の子と考えられ、早雲1456年生まれの傍証となる。  
  綱重/氏信 ?-1569
蒲原城の戦いで討死
    氏隆 ?-1609
 
 
  長順 ?-1569
蒲原城の戦いで討死
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