日下部氏系 朝倉氏
但馬朝倉
開化天皇 or 孝徳天皇     日下部表米 飛鳥時代
日下部祖 
    朝倉宗高 平安末頃
但馬国養父郡朝倉住人
高清 1136-1213 八木安高
                  「教景」の名乗り
教景は、5・6・7代の当主と7代の5・8男が名乗っている。7代の5男(小太郎宗勝)と8男(宗滴)の母(桂室永昌)は7代の嫡男・氏景の母(鳥羽将景娘)の没後の正妻であり、教景は家督継承者を表す名であったと思われる。
当主の幼名
教景−家景−英林孝景の3代と、その嫡子であった宗勝教景の幼名はいずれも小太郎であり、宗勝死後に嫡子となった宗滴教景も小太郎を名乗っている。
これに対し、宗滴が幼少のため跡継ぎとなった氏景−貞景−宗淳孝景−義景の4代は、孫次郎を名乗っている。
                                       
 
  高吉 朝倉高実 高景 高資 広信
                  阿君丸 1562-1568
毒殺説も
                                         
  越前朝倉  
  @広景1255-1352 新田義貞追討で黒丸城を得る     A正景/高景 1314-1372     B氏景 1339-1405     C貞景/為景 1358-1436     D教景(心月宗覚)
1380-1463
    E家景/教景/為景
1402-1450
    F教景/敏景/孝景(英林) 1428-1481 越前を統一     G氏景 1449-1486     H貞景 1473-1512     I孝景(宗淳) 1493-1548     J義景 1533-1573
朝倉景鏡の裏切りで自刃
    愛王丸 1570-1573
織田軍が謀殺
                                           
            越前統一
英林孝景は応仁の乱の渦中の1471年、西軍から東軍に寝返り、乱の帰趨を決する役割を果たす。その後、越前守護代・甲斐氏等を相手の戦いを有利に進め、越前をほぼ平定するが54歳で急死。跡を継いだ氏景が叔父経景・光玖・景冬の助力を得て越前統一を果たす。
         
  松尾宗景   阿波賀茂景   東郷正景               景弘   信景? 1571-1652
遍立寺(現西東京市)開基
               
               
  向久景   中島景康             (2)景高 1495-1543
兄孝景と争い没落
    (3)景鏡/信鏡 ?-1574
宗家滅亡後一向一揆に敗死
                 
               
  三段崎弼景               景次
             
             
              在重(河内守) 1545-1615
今川→徳川家臣
    宣正 1573-1637
徳川忠長家老→改易
    土井利勝家臣
幕府旗本
                 
             
              在重(石見守)
 1583-1651
    旗本朝倉家
               
           
            景郡      景氏 ?-1573
近江で討死
               
           
            景紀 1505-1572
大叔父宗滴養子
           
           
            波多野道郷     権守(実名不詳)     道景 1558-1573 系図上は景恒の子だが生年に疑義あり
                   
           
            景延     景綱 ?-1575後
兵庫助 景延の子でないとも
             
         
          景宗     景連 ?-1566頃     景胤 ?-1575
一向一揆に与し敗れて処刑
             
         
          景泰
       
       
        景明     景純     景近  
                 
      景総の謀反
英林孝景の4男景総は、正妻の子である弟小太郎教景の下に置かれることに不満を抱き1484年に教景を殺害。後許されるも1503年、弟宗滴教景や娘婿景豊とともに甥・貞景に対する謀反を画するが、宗滴の密告により発覚。景豊は敦賀で自刃し、景総は加賀一向一揆と共に貞景に挑むが敗れ、能登で病死した。
   
        景総/元景 ?-1505
貞景に反抗し続け能登で没
    景豊室   景尚     景盛 ?-1574
一向一揆との戦いで討死
             
        景尚−景盛父子は景明の子孫又は紹良の子孫
        教景(小太郎・以千宗勝)
叔父光玖養子
       
       
        時景
       
       
        景儀     三留景冬 ?-1555
加賀小松城の戦いで討死
    景信 ?-1574
三留館を一向一揆に責められ討死
               
         
          景総     景久
             
       
        (3)教景(小太郎・宗滴)
1477-1555
    (4)景紀 1505-1572     (5)景垙 ?-1564
陣中で景鏡と口論し自害
    七郎/景友 1563-?
                   
       
        (6)景恒 ?-1571
金ケ崎の戦い後遁世・死去
    道景 1558-1573 刀根坂で討死 景恒の子でないとも
           
     
      経景 1438-1491     景職 1484-1535     景隆/尹景 1508-1570     景健 1536-1575 一向一揆に寝返り敗れて処刑
                 
      (1)〜(3)は大野郡司職の就任順(宗家の直接支配期間を挟む)
      玉厳光玖(1)
1440-1494
    教景 1462-1484
兄景総に殺される
         
     
      久嶽紹良(勝蔵坊)     景均     景尚     景盛 ?-1574
越前一向一揆と戦い敗死
                 
     
      (1)景冬 ?-1495
「小天狗」
    (2)景豊 ?-1503 義父景総と共に宗家に謀し自刃 (1)〜(6)は敦賀郡司職の就任順    
         
   
    鳥羽将景 ?-1459
長禄合戦で孝景と争い敗死
    景正 ?-1459
長禄合戦で孝景と争い敗死
    景忠     景富     景忠 ?-1578後
             
   
    英林孝景室(氏景母)
 
 
  北庄頼景     景種     景契
長禄合戦で孝景と争い敗死
     
   
    景頼     景継     景種
     
 
  信景     景安     景光     景範     景行 ?-1573
刀根坂の戦いで討死
               
(北庄頼景の子孫には全く異なる別系図もある)
inserted by FC2 system