城名 |
概要 |
場所 |
評価/more |
蛇行する最上川を見下ろす要衝の城 |
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「羽州の名城」と讃えられた天守・・ではない |
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山形藩最上家の改易に伴い、新庄藩6万石の初代藩主となった戸沢政盛が築城。政盛は当初、真室城(鮭延城)を本城としたが、手狭で不便なことから、3層の天守、3隅の隅櫓、表御門、裏御門を備えた平城の近世城郭を築城し、幕末まで戸沢氏の居城となる。天守は1636年に焼失後再建されず。1868年、戊辰戦争で新庄藩は当初奥羽越列藩同盟に加盟するが、北の秋田藩(久保田藩)に歩調を合わせて離脱、同年7月、西の庄内藩に攻められて新庄城は落城、廃城となる。
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伊達・上杉と争った最上領の南の抑え |
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戦国伊達氏の本拠の可能性が高い山城 |
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旧名大宝寺城。鎌倉時代から戦国時代まで庄内地方を統治した武藤氏の居城。武藤氏が1587年に滅ぶと大宝寺城は上杉氏を経て最上氏の領地となり、1603年、最上義光の隠居城として修復され、鶴ヶ岡城と改称される。1622年、最上氏の改易を受けて譜代大名の酒井忠勝が入り、以後幕末まで庄内藩14万石(後に17万石)の居城となる。戊辰戦争では会津藩とともに奥羽越列藩同盟の中心となり、会津降伏後も庄内藩は最後まで抗戦。維新後廃城となり、鶴岡公園として整備される。
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今も残る水堀が方形の縄張りを示す |
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山頂に石垣が残る伊達の対最上最前線 |
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最上が伊達を退けた柏木山合戦の舞台 |
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「銀山」を支配した延沢氏の居城 |
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最上が上杉を防いだ「北の関ヶ原」 |
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2万の上杉軍に果敢に挑むも落城 |
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城は消えても立ち続ける1500年の大欅 |
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戦国の名物男が晩年を過ごした「無苦庵」 |
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別名霞城。1356年、斯波兼頼が築城した館が起源。現在の城跡は1590年代に斯波氏の後裔、最上義光が整備を始め、関が原の戦いで24万石から57万石に加増された最上氏にふさわしい大城郭が計画されたが1622年に改易。続く鳥居忠昌時代に完成した城郭も、以後11度も城主が代わり石高が下がるにつれて維持困難となり、幕末には本丸が更地になるなど荒廃していた。維新後、場内の櫓や御殿はことごとく破却されたが、1986年に史跡に指定され、1990年代以降、二ノ丸東大手門、本丸の堀や石垣、本丸大手門(一文字門)などが復元されている。
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別名松岬城、舞鶴城。1238年、長井時広の築城と伝わる。1548年、伊達晴宗が本拠を米沢に移し、独眼竜政宗もこの城で生まれたとされる。その後蒲生氏を経て、1597年、会津120万石を領した上杉景勝の重臣・直江兼続が城主となる。1601年、関ヶ原で西軍方だった上杉氏は30万石に減封され、米沢が上杉の本城となる。後にさらに15万石に減らされたが、上杉13代の居城として明治維新を迎える。維新後、御殿や櫓は破却され、本丸跡は松が岬公園・上杉神社となっている。また、近年の研究では伊達晴宗が築き、政宗が生まれたのは山城の舘山城で、平地の米沢城は蒲生氏の築城という説も出ている。
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