城名

概要

場所

評価/more

秀吉面目躍如の水攻め
太田城
おおたじょう(和歌山市)

1576年、太田党の領袖、太田左近が築城。1585年、羽柴秀吉は紀州攻めに約10万の大軍を動員する。之に対し太田党は左近以下約5000人が籠城して迎え撃つ。攻めあぐねた秀吉は総延長6kmに及ぶ堤を築いて水攻めを行い、約1ヶ月の攻防の末、左近以下中心人物53名が自害する代わりに他の者を助命する条件で開城した。その後、紀伊に封じられた秀吉の弟・秀長が和歌山城を築城し、太田城は廃城となった。現在、城の所在地は住宅地となって城の面影はほとんど見られないが、本丸跡は来迎寺となっていて説明板が立っている。


水軍の要地に築かれた近世城郭
新宮城
しんぐうじょう(新宮市)

別名丹鶴城。丹鶴とは平安末期に源為義と熊野別当の娘との間に生まれた姫の名で、その弟が新宮十郎行家になる。戦国時代に紀州水軍を率いた堀内氏善が城を構えた新宮の地は、関ヶ原合戦後に和歌山城主となった浅野幸長の一族・忠吉が入り、丹鶴山に築城を始める。一国一城令による中断などで城は未成のまま1619年、浅野家は安芸広島へ転封となり、代わった徳川頼宣の附家老、水野重仲が3万5000石で新宮領主となり築城を引き継ぎ、1633年に完成をみる。明治維新後天守など建物は全て破却されたが、標高60mの本丸をはじめ二ノ丸、出丸、鐘ノ丸などの石垣群や熊野川に面した水ノ手などの遺構がよく残る。

紀州徳川家家老・安藤氏の城
田辺城
たなべじょう(田辺市)

別名錦水城。1600年、浅野幸長は関ヶ原の戦いの功により紀州37万6000石を与えられ、田辺には一族の浅野氏重が入る。氏重は1606年、会津川左岸河口に田辺城を築くとともに城下町の町割りを行った。1619年、浅野家に代わり徳川家康の十男・頼宣が紀州55万5000石の領主となると附家老・安藤直次がうち3万8000石を与えられて田辺城主となった。ただし直次家は紀州藩筆頭家老として和歌山常駐のため、従兄弟の安藤小兵衛が留守居として田辺城に詰め、以後小兵衛家が城代家老を務める。明治維新後の1870年に廃城となり、城郭の多くは破却された、埋門型の水門とそれに続く石垣のみが僅かに当時の面影を残す。


将軍二人を輩出した紀州徳川の城
和歌山城
わかやまじょう(和歌山市)

1585年、紀州を平定した豊臣秀吉が、弟秀長に命じて虎伏山に築城。秀長は部下の藤堂高虎に縄張を担当させ、城代として桑山重晴を入れた。1600年、関ヶ原の戦いの後は浅野幸長が37万6000石で封じられ、現在に近い天守を上げる。1619年、徳川家康の10男・頼宣が55万5000石で封じられると、御三家・紀州徳川家に相応しく、大天守・小天守・二の門櫓・乾櫓などを多聞櫓で連結した連立式天守となった。天守は幕末の1846年に落雷で焼失し、幕府から特別に認められて1850年に再建。国宝に指定されていたが、1945年7月の空襲で焼失し、1953年に鉄筋コンクリートで外観復元された。

 
inserted by FC2 system