城名

概要

場所

評価/more

城主は下総・千葉氏の一族
赤塚城
あかつかじょう(板橋区)

武蔵野台地の北東端、北を荒川低地の湿地帯、東西を大きく入り込んだ谷に挟まれた平山城。鎌倉時代以降、長く下総守護を努めた名門・千葉氏は、古河公方足利成氏と関東管領上杉家が争った享徳の乱に翻弄され、1456年、公方方に攻められた市川城の千葉実胤・自胤兄弟は上杉家の援助で赤塚城と石浜城(台東区)へ移る。1468年に兄を継いだ自胤は、太田道灌に従い戦功を上げ、赤塚城を拠点に、現在の和光市・さいたま市大宮区・足立区など広大な所領を得て、武蔵千葉氏の基盤を築く。後に北条氏が武蔵に進出するとこれに従うが、1590年、北条氏が滅亡すると赤塚条も廃城となった。
時代:戦国
種別:平山城
築城年:1456?
廃城年:1590頃
アクセス(A便利-E不便):A
難易度(A楽勝-E危険):A
知名度(A有名-E無名):E

残存度(A良好-E無惨):D

網代城
あじろじょう(あきる野市)

 

豊島氏を追い詰めた太田道灌が在陣と伝わる
愛宕山砦

あたごやまとりで(練馬区)

1477年、沼袋・江古田原の戦いで豊島勘解由左衛門尉(泰経)を破った太田道灌は、敗走する泰経を追って豊島氏の本城・石神井城を包囲する。このとき道灌は城の南側で天然の堀の役目を担う石神井川を挟んだ高台に布陣し、泰経に降伏を促したが交渉は決裂して城攻めとなり泰経は夜陰に紛れ脱出し石神井城は落城する。愛宕山砦は現在の早稲田大学高等学院敷地内に比定されるが遺構はない。 時代:室町
種別:陣城
築城年:1477
廃城年:1477
アクセス(A便利-E不便):A
難易度(A楽勝-E危険):A
知名度(A有名-E無名):E

残存度(A良好-E無惨):E
満足度(A満足-E後悔):D

内紛で逐われた千葉氏嫡流が在城
石浜城
いしはまじょう(台東区)

 

板橋城
いたばしじょう(いたばしく)

 

太田道灌築城と伝わる中世城館
稲付城
いなつけじょう(北区)

武蔵野台地北東端部に位置する舌状台地の地形を活かして建てられた館。現在この地にある静勝寺の寺伝では太田道灌の築城とされ、道灌の木造坐像が安置されている。築城者を特定する明確な根拠はないが、荒川を控える北方の防御を重視した構造などから、道灌も仕えた扇谷上杉氏側に属した城館で、江戸城と岩付城を中継する役割を持っていたと推定される。道灌の死後、孫・資高の居城となり、その子康資と共に北条氏に使えるが、北条氏の滅亡で廃城となった模様。1655年、子孫の太田資宗が道灌とその父資清の戒名に因む自得山静勝寺を建立した。

小ぶりだが遺構の残存度は良好
今井城
いまいじょう(青梅市)

豪族・今井氏数代の居館と伝わる、現地の案内板によれば「面積約8500㎡、東西の2郭からなる単純な連郭式城跡。東郭は西地両側深い空堀と三方を土塁で囲まれているが、西郭には土塁がない」とあるが、その後の調査で、主郭とみられる東郭の北側に第3の郭があったことが判明しているほか、宅地化された西側にさらに外郭が存在していた模様。歴史的経緯は不明だが、1967年に青梅市が行った発掘調査の結果、1312年から1522年にかけての板碑や開元通宝等が発見されており、戦国時代末期には廃城になっていたと思われる。

東京のど真ん中にあった城
牛込城
うしごめじょう(新宿区)

新宿区袋町の光照寺一帯は、戦国時代にこの地域を治めた牛込氏の居城があった所。牛込氏は、藤原氏系足利氏の庶流、大胡氏の一族。戦国時代、上野国勢多郡大胡の大胡重行が、北条氏康の招きで武蔵へ下り家臣となった。新宿区赤城元町の赤城神社は、赤城山麓から移住した大胡氏の創建と伝わる。1555年、重行の子勝行は姓を牛込に改め、現在の赤坂・桜田・日比谷付近まで領地としたが、1590年の小田原攻めで北条氏が滅亡すると、新たに江戸に入った徳川家康に従う。牛込城は廃城となるが、牛込氏は徳川旗本として幕末まで続いた。現在の光照寺は、1645年に神田から移転したもの。


日本一の天守も松の廊下も焼失
江戸城
えどじょう(千代田区)

桓武平氏の支流・江戸氏の居館跡に、1457年、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が築城。1590年、德川家康は東海から関東に領地を移されると江戸城を根拠地と定め、江戸時代を通じて歴代将軍の居城となった。天守は1657年に高さ約60mの3代目(寛永度天守)が焼失して以降は再建されず、4代目は天守台のみに終わった(写真)。元禄赤穂事件の端緒となった「松の廊下」がある本丸御殿も、1863年の焼失以降再建されることはなかった。明治維新後、西の丸及び吹上庭園跡が天皇家の住居(皇居)となるが、本丸・二の丸・三の丸・北の丸などは自由に見学できる。 田安門、清水門、桜田門などは重要文化財。

大丸城
おおまるじょう(稲城市)

 

寺になったおかげで残った土塁
奥沢城
おくさわじょう(世田谷区)

戦国時代、世田谷城主であった足利一族の名門・吉良頼康が、世田谷城から約4km南の台地に築城。家臣の大平氏が城代を務めた。1590年の小田原攻めで北条氏が滅ぶと、北条氏の家臣となっていた吉良氏は下総に逃れ、大平氏も等々力に蟄居し、奥沢城は廃城となったと思われる。江戸時代の1678年、珂碩上人が奥沢城址であったこの地を賜り、「九品仏」として親しまれる浄真寺を建立。寺となったことで、昭和期以降の宅地化の波から逃れることができ、周囲を囲む方形の土塁がよく残るほか、周辺で行われた発掘調査では空堀も見つかっている。

小田野城
おだのじょう(八王子市)

 

古代からの交通の要衝を扼す
小野路城
おのじじょう(町田市)

平安時代末期の承安年間(1170年代前半)に小山田城を築いた桓武平氏・秩父氏の一族、小山田有重が、支城として小山田城から東南東約2kmの丘陵に築城し。子の二郎重義を入れて守らせたと伝わる。現在残っている地形から、本丸を含む2つの郭と土塁、空壕などで構成されていたと推定されている。1476年に起こった長尾景春の乱では、扇谷上杉氏方の拠点となるが、翌年小山田城が景春の軍勢に攻め落とされた時に小野路城も陥落し、廃城になったと思われる。周囲は歴史環境保全区域となっていて旧鎌倉街道の遺構がよく残され、主郭近くには小野小町伝説に連なる「小町井戸」もみられる。

甲斐小山田氏発祥の地
小山田城
おやまだじょう(町田市)

1171年、桓武平氏・秩父氏の一族、小山田有重が築城。有重は甥の畠山重忠らと共に源平争乱で活躍、鎌倉幕府の有力者となるが、頼朝没後の1205年、北条時政によって畠山重忠が二俣川で謀殺されると有重の子の稲毛重成、榛谷重朝らも重忠への讒言を口実に殺され、一族は没落する。鎌倉末期の1333年、小山田高家は小山田城を守っていた北条泰家を逐うと新田義貞に従い鎌倉へ進撃し仇敵北条氏を滅ぼすが、1336年神戸湊川で足利尊氏から義貞を守って討ち死にした。現在小山田城跡には有重の子行重が父の菩提を弔うために立てたとされる大泉寺があり、有重・行重・高家のものと伝わる宝篋印塔が残る。

葛西清重館
かさいきよしげやかた(かつしかく)

道路工事で多くの遺物が出土
葛西城
かさいじょう(葛飾区)

中川の沖積地に築かれた平城。5世紀頃にはにはムラが形成されていた痕跡があり、平安時代末期には桓武平氏秩父氏系の葛西氏が治めていた。葛西氏が陸奥へ根拠地を移してからの推移は不明だが、城跡には、鎌倉時代末期の武人、青砥藤綱城跡という碑が立つ。記録に残るのは1538年、北条氏綱に攻略されたことで、以後、房総の里見氏や小弓公方との戦いで北条側の拠点として機能したが、北条氏滅亡とともに廃城。江戸時代は将軍の鷹狩の際の「青砥御殿」として利用された。1970年代、環状七号線の工事により城跡は分断され、西が御殿山公園、東が葛西城址公園となっている。

三方を崖に囲まれた要害
片倉城
かたくらじょう(八王子市)

湯殿川と兵衛川が合流する丘陵東端に築かれた中世城郭。古川越街道や鎌倉街道を扼す交通の要衝に位置し、北・東・南は約30mの急崖、丘陵に連なる平坦な西側は空壕により主郭と二郭に分けられ、土塁・櫓台・腰郭・土橋などが残っている。もともと武蔵七党の一、横山党の領地だったが和田合戦により鎌倉幕府の行政トップ・大江広元の領地となる。室町時代の応永年間に大江師親の在住が記録に残り、大江氏または後裔長井氏の築城と推定されるが詳細は不明。遺構は堅固な構造から15世紀後半以降に築かれ戦国末期まで続いたものと思われ、1569年に北条氏照・氏邦が三増峠の戦いに出陣した城とされる。

北条氏に抗った三田氏の本拠
勝沼城
かつぬまじょう(青梅市)

平将門の後裔を自称した三田氏の居城。鎌倉時代末期から室町時代にかけて、「杣保」と呼ばれた青梅地方(多摩川上流地域)を広く支配した三田氏だが、関東管領に就任した上杉謙信に加担したことで相模から武蔵へ進出した北条氏との争いとなり、1563年、北条氏照の攻撃を受ける。時の当主、三田綱秀は平山城の勝沼城から山城の辛垣(からかい)城に移り抵抗を続けるが、軍畑での合戦に敗れ滅亡する。勝沼城はその後、北条の家臣・諸岡将景が入って城を改修したため、諸岡城とも呼ばれたが、1590年、八王子城落城とともに廃城となった。本丸・二の丸・三の丸の三曲輪のほか、空堀や土塁などの遺構が残る。

辛垣城
からかいじょう(青梅市)

喜多見陣屋(慶元寺)
きたみじんや(世田谷区)

高安寺城
こうあんじじょう(府中市)

源頼朝に使えた謎の武将の故地
渋谷城
しぶやじょう(
渋谷区)

平安時代末期、桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族、河崎基家(もしくは子の重家)が居館を構える。重家の子と伝わる渋谷金王丸は平治の乱で源義朝に従い、その死を義朝の愛妾常磐に伝える。後に土佐坊昌俊と名乗った金王丸は、義朝の子・頼朝の命を受け、その弟で常磐の子・義経の追討に向かうが返り討ちに遭い敗死したという。東に鎌倉街道、西に渋谷川を有し湧水も豊富なこの地はその後も渋谷氏の居館として存続するが、1524年、北条氏綱と扇谷上杉朝興が戦った高輪原の戦いに際し、北条軍の別働隊に焼き払われて廃城となる。渋谷城の故地は、現在は金王丸の名に因む金王八幡宮が鎮座する。


ペリー来航で急遽築造した海上要塞群
品川台場
しながわだいば(
港区)

1853年、アメリカ東インド艦隊の東京湾侵入、いわゆる「黒船来航」事件に危機感を覚えた幕府は、江川太郎左衛門英龍の提言で品川海岸から深川沖にかけて12基の砲台を急遽建設することにした。しかし、財政難と翌年の日米和親条約締結により、着工されたのは第1から第7までの7基、完成は第1・2・3・5・6の5基に留まった。その後第1・4・5は埋立地に埋没し、第2と第7は解体撤去され、第3と第6のみが現存する。第3台場はお台場海浜公園として地続きになっていて内部構造を見学でき、陸地と隔絶した第6台場は立入禁止のバードサンクチュアリとなっている。どちらもレインボーブリッジの遊歩道が絶好のビューポイント。

島屋敷
しまやしき(三鷹市)

赤塚城の支城として機能
志村城
しむらじょう(板橋区)

年代は不明だが、豊島氏の一族・志村氏の築城とされる。1456年、下総から亡命した千葉自胤が赤塚城に入った際、一族の千葉隠岐守信胤が約4km東の志村城に入り、赤塚城の前衛拠点とした。本丸は、現在の志村小学校付近の丘陵地で、出井川(現在は暗渠化)と荒川を巡らせた堅城であったが、1524年、北条氏綱に攻められて落城。以後は北条方の城として機能し、小田原攻めまでに廃城となったと推測される。二ノ丸には、1042年に志村将監が紀州から勧請し、千葉自胤が城の守護神としたと伝わる熊野神社があり、社殿西側には今日も空堀跡が残る。

名族豊島氏、太田道灌に屈す
石神井城
しゃくじいじょう(練馬区)

桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族、豊島清光・清重親子が源頼朝の挙兵に従って戦功を挙げ、鎌倉時代後期には石神井城を築いて本拠としていた。室町時代に入ると、関東管領上杉氏の家宰太田道灌が江戸城を築いて豊島氏の権益を侵害。1476年、城主豊島勘解由左衛門尉(泰経)は上杉氏に反旗を翻した長尾景春に加担するが、翌年、弟・平右衛門尉(泰明)の練馬城を攻めた太田道灌を沼袋・江古田原で迎え撃つも大敗。泰明は討死、泰経は石神井城に敗走するが、開城交渉が決裂して落城する。泰経は娘照姫と三宝寺池に身投げしたという伝説が残るが、実際には逃亡して再起を図り、再び道灌に敗れて歴史から姿を消す。


国人大石氏の居城と伝わる山城
浄福寺城

じょうふくじじょう(八王子市)

別名新城、千手山城

関東支配者の新旧対決は肩透かし
深大寺城
じんだいじじょう(調布市)

最初の築城時期は不明だが、1524年に江戸城を北条氏綱に奪われて河越城に逃れた扇谷上杉朝興・朝定父子が、北条氏の河越侵攻に備える拠点として、難波田広宗に命じて古城を再興した。しかし、1537年、氏綱は深大寺城を無視して河越城を攻略。戦略的価値を失った深大寺城は廃城となった。3つの郭が直線状に配置された連郭式城郭で、現在は神代植物公園の水生植物園となっており、空堀・土塁・櫓台などの遺構が残る。1546年、河越奪回を目指す朝定は、宿敵山内上杉氏や古河公方と連携した8万の大軍で河越城を囲むが北条氏康・綱成に大敗して戦死、扇谷上杉氏は滅亡する。  

関戸城
せきどじょう(多摩市)

 

生き延びたもう一つの高家吉良氏
世田谷城
せたがやじょう(世田谷区)

足利一族の名門、吉良氏(上野介で有名な三河吉良氏とは始祖が兄弟となる奥州吉良氏)の居城。奥州管領職を経て吉良治家の代に鎌倉公方・足利基氏から武蔵国荏原郡世田谷郷を拝領し14世紀末頃築城。200m北方に位置する豪徳寺も、もともとは城域の一部だった。鎌倉公方足利氏の一族として権威を誇るが、戦国時代末期には弱体化して北条氏の配下となり、1590年、北条氏の滅亡と共に廃城となる。城主であった吉良氏は江戸時代には蒔田氏を称して高家として遇せられ、赤穂事件で三河吉良氏が断絶すると吉良姓に復した。城跡の一部は、世田谷城阯公園となっている。

世田谷代官屋敷
せたがやだいかんやしき(世田谷区)

 

瀬田城(長崎館)
せたじょう(世田谷区)

 

滝山築城までの大石氏の居城
高月城
たかつきじょう(八王子市)

室町時代の長禄年間(1450年代後半)、武蔵国守護代の大石顕重が築き、それまで拠点としていた二宮城から移ったとされる。秋川と多摩川の合流点に近い加住丘陵の小高い台地を利用した天然の要害で、台地の先端に向かって三つの郭が連なる連郭式の構造。1521年、大石定重の代に南東約1.5kmの地に滝山城を築いて移った後も出城として使われたと思われ、空壕・土塁などが一部に残る。一・ニの郭は山林と畑の私有地だが見学は可能。三郭はズバリ「ホテル高月城」という名前のラブホ改め廃墟となっていて見学はできない。城の入口をわかりやすく示す街道沿いのホテル看板もいつまであるか。

都心を遠望できる段丘の城
高幡城
たかはたじょう(日野市)

多摩川に浅川が合流する要衝に位置し、「高幡不動尊」として親しまれている明王院金剛寺の境内にあたる比高約40mの丘陵に築かれた平山城。頂上が主郭とされているが、丘陵全体が八十八カ所巡拝コースとなっており、かなりの改変があると思われる。独立丘陵のため眺望は抜群で都心のビル街も遠望できる。築城の経緯について記録はないが、境内にある上杉堂には、1455年の立川原の戦いで鎌倉公方足利成氏に敗れた犬懸上杉憲秋がこの地に逃れて自害したとされる自然石の墓標が残っており、当時すでに城砦のようなものがあったのかも知れない。山頂の説明板によれば、麓には根小屋や陣川戸など城に因んだ地名も残るという。


天然の要害も武田信玄に苦戦
滝山城
たきやまじょう(八王子市)

1521年、山内上杉氏の家臣大石定重が築城し高月城から移る。1558年、定重の子定久は武蔵に侵攻した北条氏に降り、北条氏康の三男・氏照を養子とする。北条氏の北関東方面軍を統括する氏照は城を大改修して防御強化を図るが、1569年、武田信玄の侵攻では二の丸まで攻め込まれるなど落城寸前に追い詰められ、このこともあり後に氏照は八王子城を築き、滝山城は廃城となったとみられる。高月城同様、多摩川と支流の秋川が合流する南岸の加住丘陵に位置するが、規模は圧倒的に大きく、自然地形を巧みに利用した複雑な縄張りは関東の戦国城郭として有数の規模を誇る。遺構の保存状態も非常に良い。

沢山城
たくさんじょう(町田市)

立川氏館
たちかわしやかた(立川市)

 

楯の城
たてのしろ(青梅市)

 

天神山城
てんじんやまじょう(三鷹市)

 

戸倉城
とぐらじょう(あきる野市)

兎々呂城(深沢城)
とどろじょう(世田谷区)

中曽根城
なかそねじょう(足立区)

長沼城
ながぬまじょう(稲城市)

中野城山居館
なかのしろやまきょかん(中野区)
 

木曽義仲の末裔、関東進出の拠点
二宮城
にのみやじょう(あきる野市)

秋留台地の東端に位置する二宮神社は、室町時代の国人・大石氏の城館跡と推定され、1983年の調査では、神社東側段丘上の「御屋敷」と呼ばれる地点で14世紀の豪族居館跡が発見されている。信濃出身で木曽義仲の後裔と称する大石氏は、観応の擾乱における笛吹峠での戦功により入間・多摩郡を得て武蔵に移住し、二宮に居館を構えたとされる。一方で、神社から南東1kmの新興住宅街で戦国時代の城館跡が発掘され、二宮城はこちらではないかともされるが、どちらも裏付ける有力な証拠はない。いずれにせよ、武蔵守護代を努めた大石氏は15世紀半ば、顕重の代に秋川対岸に築いた高月城に移り、二宮を去った。

遊園地に名を残した豊島氏
練馬城
ねりまじょう(練馬区)


北条氏照渾身の縄張りも一日で・・
八王子城
はちおうじじょう(八王子市)

1580年代後半、北条氏康の三男で猛将と謳われた氏照が築城。それまでの居城・滝山城が、1569年の武田軍侵攻で三の丸まで攻め込まれるなど落城寸前に追いつめられた苦い経験から、この地に堅固な山城を築いたと言われる。しかし、1590年6月23日、豊臣秀吉の北条攻めで城主氏照も本城・小田原に籠もる中、城代横地監物以下3000は豊臣方の上杉景勝・前田利家・真田昌幸ら1万5000の大軍に衆寡敵せずわずか1日で落城、氏照も小田原開城後に切腹を命じられる。ちなみに現在の八王子市街地は古来横山という地名だったが、氏照がこの城に八王子社を祀り、城を八王子城と名付けたことで、城は滅んだが市名として残った。

初沢城
はつざわじょう(八王子市)

檜原城
ひのはらじょう(西多摩郡檜原村)

八幡太郎の鎧が埋まっている?
平塚城
ひらつかじょう(北区)

現在、平塚神社となっている地は、平安時代に豊島郡の郡衙があったと推定されている。平安末期、桓武平氏秩父氏流の豊島近義がこの地に城館を建て、後三年の役で奥州遠征から京都へ帰還する源義家を饗応した。その際拝領した鎧を、城の鎮護のために埋めて平たい塚を築いたのが地名の由来になったと伝わる。鎌倉・室町時代に豊島氏代々の居城となるが、1478年、沼袋・江古田原の戦いの結果、太田道灌によって落城する。ただ、近年の研究では、この時落城したのは平塚城ではなく練馬城だったという説がある。

平家物語で知られる武将の居館跡
平山季重居館
ひらやますえしげやかた(日野市・八王子市)

平山季重は保元・平治の乱で源義朝に従い、源平争乱では一ノ谷の戦いでの熊谷直実父子との先陣争いが語られる典型的な坂東武者で、武蔵七党の一、西党の出身。京王電鉄平山城址公園駅周辺は、旧く季重の居館があったと伝わり、戦国時代には子孫が季重の菩提を弔う大福寺を建立した。大福寺は明治初期に廃寺となって駅前には幕末に末裔が立てた碑のみ残り、同寺にあった季重の墓と木像は近隣の宗印寺に移された。その裏山にある「平山城址公園」は、京王電鉄が命名したもので城の遺構はないが、平山氏の物見台があったと伝わる場所に季重神社が建つ。元は平山氏の遠祖に当たる日奉[ひまつり]氏を祀る日奉神社と言ったらしい。

公園として整備された遺構
藤橋城
ふじはしじょう(青梅市)

築条時期は不明だが、戦国時代には、北条氏照に仕えた平山越後守虎吉の居館とされる。平山氏は、現在の檜原村、日の出町などを中心に栄えた豪族で、虎吉もその一族と思われる。現存する遺構は東西約70m、南北約60mの曲輪と付属する腰曲輪、土塁、空堀などで、城跡公園として綺麗に整備されている。城門があったと推定される南側と東側は台地上の平地で、北側と西側は畑・水田となっている。北側から見ると、土塁など城の全体像を掴みやすい。

枡形山城
ますがたやまじょう(青梅市)

 

百村館
もむらやかた(稲城市)

 

中世豪族・三田氏の居館か
谷保城
やほじょう(国立市)

比高約8mの青柳段丘(多摩川の河岸段丘の一つ)崖縁に位置する中世居館跡。地元では古くから「谷保の城山」と呼ばれ、土塁に囲まれた2つの郭と自然地形を活かした空堀が遺されている。創建者について、江戸時代の資料では菅原道真の子で谷保天満宮を創始した道武とも、その後裔で鎌倉幕府創建時の御家人・津戸(つのと)三郎為守とも伝わる。本郭部は現在も私有地であるため発掘作業は行われておらず詳細は不明だが、「三田城」あるいは「三田氏館」とも呼ばれていることから、江戸時代には戦国時代に北条氏に滅ぼされた武蔵の豪族・三田氏の一族が居住していたと推測される。

武蔵の豪族、大石氏の居館
柚木城
ゆぎじょう(八王子市)

関東管領山内上杉氏の重臣、大石氏の居館跡。大石氏は木曽義仲の末裔を称し、南朝との戦いの功により武蔵国多摩・入間郡に所領を得て移住。16世紀前半、大石定重は浄福寺城、高月城などを築き、その子定久が柚木に城館を構えたと伝わる。その後大石父子は要衝滝山城を築いて移り、柚木館は叔父である一種長純和尚に譲られ、永鱗寺(後に永林寺)が創建された。大石定久は河越城の戦いで山内・扇谷両上杉が北条氏に敗れると北条氏康に降り、その三男氏照を婿養子として隠居、心月斎道俊と号する。永林寺は北条滅亡後には徳川家康も参拝した格式ある寺院で、裏手の山に柚木城碑と大石定久像が建つが、遺構はほとんど残っていない、
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