城名

概要

場所

評価/more


室町幕府発祥の地に聳える大伽藍
足利氏館
あしかがしやかた(足利市)

国史跡。室町幕府を開いた源姓足利氏発祥の地。12世紀半ば、八幡太郎源義家の子・義国がこの地に居を構え、孫・義康が足利氏を称する。その子・義兼が持仏堂を構え、孫・義氏が伽藍を整えて、父・義兼の法名から鑁阿寺(ばんなじ)と名付けた。義氏は執権北条時政の娘を母、同泰時の娘を妻とするなど北条氏との絆を深めて鎌倉政権で重きをなし、5代の孫・尊氏による室町政権樹立の礎を築く。居館跡は現在も周囲に土塁と壕を巡らせ、四つの門を構える、平安・鎌倉期の豪族の館の原型を強く残している。尊氏の父・貞氏が1299年に再建した本堂は、全国でも類例が少ない鎌倉期の禅宗建築として、2013年8月、国宝に指定された。
時代:平安~戦国
種別:平城/居館
築城年:12世紀半ば
廃城年:不明(1196鑁阿寺建立)
アクセス(A便利-E不便):A
難易度(A楽勝-E危険):A
知名度(A有名-E無名):C

残存度(A良好-E無惨):C
総合満足度:B-

阿曽沼城
あそぬまじょう(佐野市)

 
 

伊王野城

伊王野氏館

釣天井の伝説残る北関東の名城
宇都宮城
うつのみやじょう(宇都宮市)

平安時代、宇都宮氏の祖・藤原宗円が築いた館が起源で、鎌倉・南北朝・戦国時代を通じ宇都宮氏500年の居城であった。関東七名城にも数えられ、1590年に豊臣秀吉が東国大名の領地を定めた「宇都宮仕置」の舞台ともなったが、1597年、宇都宮氏は突然改易となる。領主は蒲生秀行、奥平家昌に次いで入封した本多正純が城と城下町の大改修を行い、将軍の「御成御殿」も建てるが直後に失脚。先君家康の寵臣だった正純の突然の失脚は「釣天井伝説」を産んだ。幕末、戊辰戦争で建物の多くを焼失。遺構も宅地化でほぼ消滅したが、近年、清明台(代用天守)、富士見櫓、土塁、水堀など、本丸の一部が復元された。
時代:平安~幕末
種別:平城
築城年:11世紀末頃
廃城年:1868
アクセス(A便利-E不便):A
難易度(A楽勝-E危険):A
知名度(A有名-E無名):B

残存度(A良好-E無惨):D
総合満足度:C

戦国から明治まで大田原氏の居城
大田原城
おおたわらじょう(大田原市)

1545年、下野の豪族・大田原資清が北約1.5kmの地にあった居館・水口に代わる本拠地として築いた平山城。以来、1871年の廃藩置県で廃城になるまでの326年間、一貫して大田原藩1万2000石(後に1万1000石)の居城であった。1600年、奥州情勢を憂慮した徳川家康が城の補修を命じて東西210m、南北327mの規模とし、3代将軍家光は玄米1000石を常時城内に貯蔵させ奥州への鎮護とするなど、幕府は累代この地を重視した。しかし戊辰戦争では新政府軍に与し、幕府方の会津藩に攻められるが火薬庫の爆発により落城を免れる。1872年に破却されるが、1937年に所有者が大田原町に寄贈し、公園として整備された。

将軍の日光社参に建てられた御殿
小山御殿
おやまごてん(小山市)

鬼怒川を背負った堅固な崖端城
勝山城
かつやまじょう(さくら市)

鹿沼城
かぬまじょう

 


謙信を10度にわたり退けた堅城
唐沢山城
からさわやまじょう(佐野市)

標高247mの山頂に本丸を構え、山全体を要塞化した連郭式山城で、関東七名城の一。10世紀に平将門を討った藤原秀郷の築城と伝わるが当時の遺構は見つかっていない。15世紀末には秀郷の子孫を名乗る佐野氏の居城となっていて、現在残る堅固な縄張りは16世紀半ば頃に整備されたとみられる。15代当主・佐野昌綱は上杉と北条の争いの中、当初は上杉氏と結ぶが離反、北条氏についたことで謙信軍の攻撃を延べ10回も受けたが尽く退けた。関が原後は佐野藩3万5千石の居城となるが、1602年、山麓の佐野城に役割を譲り廃城となる。一説に江戸の火事を見て馳せ参じたところ、江戸城を見下ろすとはけしからぬ、と麓へ移されたとも。

那須与一の子孫が築いた城
烏山城
からすやまじょう(那須烏山市)

1418年、那須氏の一族・沢村五郎資重が築城。複郭式の山城で、古本丸・本丸(二の丸)・北城・中城・西城の五つの城と、若狭曲輪・常磐曲輪・大野曲輪の三つの郭で構成されていることから「五城三郭」と称された。常陸・佐竹氏の数度にわたる攻撃を受けながらも、戦国末期まで那須氏が存続したが1590年に改易。江戸時代は短期間に旧領主・那須氏を含めた大名の交代が続いたが、1725年以降は大久保氏が幕末まで続いた。杉林の中に埋もれた城跡は、築城時の石垣、空堀、土塁などの遺構 が比較的良好な状態で現存し、往時をしのばせる。 

川連城
かわつれじょう(栃木市)

勧農城
かんのうじょう(足利市)

家康が命運をかけた「小山評定」
祇園城
ぎおんじょう(小山市)

平安時代に藤原秀郷が築城したも、12世紀半ば、秀郷の後裔小山政光が思川の崖線上に居館を築いたとも伝わる。小山氏は14世紀後半、義政が叛乱を起こし鎌倉府に討滅されるが、15世紀前半、同族の結城氏から入った泰朝が再興。孫・持政が戦国城郭へ拡張整備し、小山氏代々の居城となる。1575年、北条氏照が小山秀綱を追放し、さらに大規模に改修するが、小田原の役で開城。関ヶ原前夜、徳川家康が石田三成の挙兵を報告し、諸将に去就を委ねた「小山評定」はこの城下で行われた。1607年、本多正純が領主となり近世城郭を整備するが、1619年に宇都宮に転封となり、小山城は廃城となる。

土塁や空堀の遺構が圧巻
黒羽城
くろばねじょう(大田原市)

1576年、大関氏の家督を継いだ大田原資清の長男、大関高増が西約2kmの地にあった白旗城から移って築城。1600年、会津の上杉景勝に備えて、徳川家康は臣下を派遣して高増の嗣子・資増の修築を助けさせ、1万8000石の小身ながら、北那須地域で最大規模となる城郭となった。江戸時代を通じて黒羽藩大関氏の居城であり、城下には奥の細道の旅で松尾芭蕉が14日間滞在している。明治維新で廃城となるが、本丸跡(黒羽城址公園)とその周囲を中心に土塁・空堀・水堀などの遺構がよく残存し、整備状態も良好。

桑窪城


「関東六城」に数えられた益子氏の居城
西明寺城

さいみょうじじょう(芳賀郡益子町)

別名高舘城、益子城

城主が改易、完成から7年で廃城
佐野城
さのじょう(佐野市)

別名春日岡城。1602年、唐沢山城主佐野信吉は、当時この地にあった惣宗寺(佐野厄除け大師)を現在地に移し、築城と町割りを始める。1607年には唐沢山城を廃してこの地に移るが、1614年、徳川幕府の外様大名取り潰し政策にはまって改易となり、佐野城も築城開始からわずか12年で廃城となる。JR/東武線の佐野駅に直結し、住宅街の真中というロケーションにもかかわらず主郭部は原型をとどめており、建物跡、石組溝、石畳、虎口、堀、井戸などが良好な状態で残る。

千本城

千本陣屋

多気城

史跡公園として整備された中世城郭
飛山城

とびやまじょう(宇都宮市)

富田城
とみだじょう(栃木市)

中里城
なかざとじょう(足利市)

山頂に遺構が良好に残る連郭式城郭
西方城

にしかたじょう(栃木市)

畠山陣屋
はたけやまじんや(佐野市)

富士山城
ふじやまじょう(足利市)

山全体を法螺貝のように曲輪が囲む
皆川城

みながわじょう(栃木市)

戦国城郭から徳川将軍の宿泊所へ
壬生城

みぶじょう(都賀郡壬生町)

宇都宮一族・茂木氏400年の居城
茂木城
もてぎじょう(芳賀郡茂木町)

別名桔梗城。1192年、鎌倉幕府の有力御家人・八田知家が下野国茂木郡を与えられると、三男知基が茂木氏を名乗ってこの地に入り、桔梗山に城を築く。以後茂木氏の支配が続くが、南北朝時代には二度落城の憂き目に会う。戦国時代末期には、茂木氏は常陸・佐竹氏の配下となり、1585年にも北条氏によって一時落城するが、佐竹氏の支援で奪回している。茂木氏は、関ヶ原で西軍に付いた佐竹氏の秋田転封に従い、400年余り治めた茂木を去る。1610年、茂木藩主となった細川忠興の弟・興元は城下の盆地に茂木陣屋を築いて山城の茂木城を廃す。現在は城址公園となっている。

歴史に埋れた「もう一つの足利氏」
両崖山城
りょうがいさんじょう(足利市)

別名足利城。1054年、秀郷流藤原氏の藤原成行がこの地に築城し、足利氏を名乗る(藤姓足利氏)。平安時代末期、源平騒乱に際しては平家方で参戦し、当主・足利俊綱の嫡男忠綱が以仁王・源三位頼政軍との戦いで活躍するも、翌1181年、両崖山城は和田義茂軍に攻められて城主俊綱は自害(家臣に殺されたとも)し、藤姓足利氏は没落する。戦国時代に入ると、関東管領・上杉氏配下の長尾氏が両崖山城を再建し、4度に渡る合戦の舞台となるが、1590年、北条方についた足利長尾氏の滅亡とともに廃城となる。
 
 
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