城名
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概要
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場所
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評価/more
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相模と駿河の境を扼する峠の城 足柄城 あしがらじょう(駿東郡小山町)
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最後まで残った頼朝兄弟の居館 阿野全成館 あのぜんじょうやかた
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井伊氏館
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井伊谷城
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宇津山城 うつやまじょう(湖西市)
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「海」を欲した武田氏の拠点 江尻城 えじりじょう(静岡市清水区)
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陣屋では異例の壮大な石垣 小島陣屋 おじまじんや(静岡市清水区)
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土塁が巡らされた国人葛山氏の居館 葛山氏館 かずらやましやかた(裾野市)
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最後の城主は信玄の六男 葛山城 かずらやまじょう(裾野市)
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木造天守復元ブームの嚆矢 掛川城 かけがわじょう(掛川市)
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室町時代中期に朝比奈泰煕が築城。今川氏の遠江支配の拠点であり、今川氏滅亡後は、徳川家康の対武田最前線となる。家康の関東移封後に入った山内一豊が近世城郭としての整備を行い、関ヶ原後は徳川譜代11家26代が連なり明治維新に至る。1854年の安政地震で天守、二の丸御殿などが倒壊。御殿は1861年に再建され、重要文化財に指定されている。1994年、天守が絵図や古記録、一豊の移封先で現存する高知城天守などを元に、140年ぶりに木造で復元された。
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勝間田城
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北条早雲の孫、兄弟で討ち死に 蒲原城 かんばらじょう(静岡市清水区)
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蒲原丘陵から孤立した城山を要塞化した山城。室町時代前期、駿河守護として入国した今川氏の一族の築城と想定されている。文献上、特定の城主はなく、城代・城番として牟礼範里、飯尾豊前、佐竹又七郎、岡雅楽助などが在城した記録がある。1569年、甲駿同盟が破綻して武田信玄が今川領に侵攻すると、今川と盟友関係の北条氏信・長順兄弟(北条早雲の末子幻庵の子)らが入り本郭を大改修するが、武田軍の猛攻により落城。兄弟も戦死する。武田滅亡後は徳川領となるが、1590年の小田原攻めの際、徳川勢の着陣を最後に廃城となった。
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野球場となった「家康幻の城」 城之崎城 きのさきじょう(磐田市)
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久野城
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北条早雲、雄飛の城 興国寺城 こうこくじじょう(沼津市)
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1487年、駿河守護・今川氏に生じた家督争いに際し、今川氏親の家督継承に功があった伊勢盛時(氏親の母・北川殿の弟)に与えられた城。後に北条早雲と呼ばれる盛時はこの城を拠点に伊豆へ勢力を延ばし、1491年、堀越御所を滅ぼし韮山城に移る。その後、駿河の今川・甲斐の武田・伊豆の北条の間で争奪戦が繰り広げられるが、本能寺の変後は徳川家康領、北条滅亡後家康が関東に封じられると豊臣家臣・中村一氏、関ヶ原の戦い後は三河三奉行の一人、天野康景が入るが、1607年、康景は突然出奔して改易され、興国寺城も廃城となった。
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小川城 こがわじょう
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武田信玄、遠江進出の拠点 小山城 こやまじょう(榛原郡吉田町)
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戦国末期に造られた平山城。遠江進出を企てた甲斐の武田信玄が、大井川西岸にあり、重要拠点とみなされた今川氏の小山砦を攻略。1571年、馬場信春の縄張りで築城し、大熊備前守長秀を城主とした。甲州流築城術の特徴である丸馬出と三日月堀が用いられているが、特に防御が手薄な西側には、珍しい三重の三日月堀が設けられている。武田勝頼は一時、高天神城を落とすなど遠江支配を進めるが、1581年に高天神城を奪取した徳川家康によって翌年小山城は落城し、廃城となった。天守風の建物は史実とは関係ない「展望台小山城」で、内部は資料館。
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相良城 さがらじょう(牧之原市)
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佐久城 さくじょう(浜松市北区)
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ハイカーが闊歩する人気の山城 賤機山城 しずはたやまじょう(静岡市葵区)
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遺構の9割がほぼ完全に残る武田の城 諏訪原城 すわはらじょう(島田市)
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別名扇城。1573年、遠江進出を目指す武田勝頼が馬場信春に命じて築城。東海道を扼す大井川西岸の金谷台に構えられた山城で、城内に諏訪神社を祀ったことが名前の由来。断崖や川を利用して戦闘正面を限定できる扇状の立地や、丸馬出と三日月堀の組み合わせなど、甲州流築城術の典型的な特徴を持つ縄張りで、内堀・外堀の保存性も高い。1575年、長篠の戦いで武田軍に勝利した徳川家康は、勢いを駆って諏訪原城も攻め落とし、牧野城と改名された城には今川氏真や松平家忠が城主を歴任するが、1582年に武田氏が滅亡すると存在意義を失い、1590年に廃城となった。
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人質時代も過ごした家康終焉の城 駿府城 すんぷじょう(静岡市葵区)
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室町時代からの駿河守護・今川氏の館跡に1585年、徳川家康が浜松から本拠を移して築城。家康の関東転封後は中村一氏が城主となる。1605年、征夷大将軍職を秀忠に譲った家康は駿府に戻り「大御所」として君臨、江戸と駿府の二元政治が家康死去まで続く。その後秀忠の次男忠長が封じられるが、兄家光による改易後は明治維新まで天領。維新後建物は破却され内堀も埋め立てられるが、外堀と中掘は現存し、近年、巽櫓、東御門、内堀の一部などが復元された。
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大坂の陣で活躍した御宿勘兵衛の城 千福城 せんぷくじょう(裾野市)
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別名:平山城
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勝頼の意地、武田の命取りに 高天神城 たかてんじんじょう(掛川市)
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室町時代、駿河の今川氏が遠江侵攻の拠点として築城。三方が断崖絶壁、一方が尾根続きという天然の要害で、今川氏滅亡後は徳川家康が支配し、駿河の武田氏との攻防の舞台となる。1571年、武田信玄の侵攻は撃退したが、1574年、信玄の息子・勝頼が2万の大軍で攻め落として武田領となる。ところが翌年の長篠合戦以降、武田氏は守勢一方となり高天神城は孤立。1580年、家康が城攻めを再開、1581年3月22日に城将岡部元信以下が切腹して落城、間もなく廃城となる。この時、救援軍を送れなかった勝頼の威信は失墜し、翌年の武田滅亡の遠因となった。
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高根城 たかねじょう
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滝堺城 たきさかいじょう
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珍しい真円形の縄張り 田中城 たなかじょう(藤枝市)
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15世紀、今川氏の命を受けた国人・一色信茂が築いた徳一色城が起源。1570年、武田信玄に攻略され、同心円状に三重(江戸時代の改修で四重)の堀を巡らせ、丸馬出と三日月堀を6カ所に備えた武田流の城郭が築かれた。武田氏が滅ぶと徳川領となり、江戸時代は一時期を除いて譜代大名が城主となって明治維新まで続く。武田信玄・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の全員に滞在記録が残る珍しい城で、特に家康は、1616年、この城で食べた鯛の天婦羅が死因となったとも言われている。建築物では、本丸櫓が東南隅にあった下屋敷跡に移築・復元されている。
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鎌倉入りできず北条早雲に滅ぼされる 伝堀越御所 でんほりごえごしょ(伊豆の国市)
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鳥羽山城 とばやまじょう
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武田の侵攻に備えた北条の海城 長浜城 ながはまじょう(沼津市)
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1579年、駿河に侵攻して三枚橋城(現沼津市中心部)を築いた武田勝頼に対抗し、北条氏が伊豆半島の西側付け根にある内浦湾に突き出た岬に築城。北条水軍の主将である梶原景宗らが配置されて、武田水軍の小浜景隆らと戦いを繰り広げ、なかでも1580年3月の駿河湾海戦が名高い。1590年、豊臣秀吉の小田原侵攻では、地元の土豪・大川氏らが守るが、小田原城・韮山城と前後して開城し、その後廃城となった。島に築かれることの多かった戦国期の多くの水軍拠点と異なり、山城の特徴を兼ね備えた海城で、現在は史跡公園として郭や櫓・堀が再現されている。
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北条早雲、終焉の城 韮山城 にらやまじょう(伊豆の国市)
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1493年、伊豆の堀越御所を攻め滅ぼした伊勢盛時(北条早雲)が、相模進出への拠点として、御所跡に近い龍城山に築城。本城(主郭部)は、北から三の丸・権現曲輪・二の丸・本丸が連なる連郭式平山城で、その南の天ヶ岳にも4つの砦が築かれていた。1495年に小田原城を攻略した後も早雲は1519年に没するまで韮山を居城としていた。その後も、伊豆国支配と西方防衛の拠点として機能し、1590年の豊臣秀吉の北条攻めでも、4万の攻城軍を相手に小田原が降伏するまで持ちこたえた。その後は徳川家康の臣・内藤信成が入るが、1601年に廃城となる。
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市街地に埋没した近世城郭 沼津城 ぬまづじょう(ぬまづし)
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別名:三枚橋城
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花沢城 はなざわじょう
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野面積の石垣残る家康の出世城 浜松城 はままつじょう(浜松市中央区)
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1570年、遠江を制圧した徳川家康が、岡崎に代わる本拠地として、従来の曳馬城を拡張する形で築城。1573年の三方ヶ原の戦いでは、家康はこの城からおびき出される形で出陣し、武田軍に大敗を喫する。1590年、徳川氏の江戸移封にともない堀尾吉晴・忠氏親子が城主となるが、関ヶ原の功で堀尾氏は出雲松江に加増転封となる。その後は江戸期を通じて譜代大名が次々に入り、老中まで栄進した人が多いことから「出世城」と呼ばれた。本来天主はなかったとされるが、1958年、野面積みの石垣上に模擬天守が建てられた。2014年には、明治維新まで現存していた天守門が復元されている。
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家康が拡張した「かつての浜松城」 曳馬城 ひくまじょう(浜松市)
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今川・北条・武田が争った境目の城 深沢城 ふかざわじょう(御殿場市)
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徳川信康、無念の自刃 二俣城 ふたまたじょう(浜松市天竜区)
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1503年、今川家臣・二俣昌長の築城と伝わる。天竜川に臨む戦略要地であることから武田氏と徳川氏の攻防の場となり、特に1572年、武田信玄が、天竜川の水を汲み上げる櫓を上流から筏をぶつける奇策で破壊した城攻めは有名。この時、武田に降った二俣城だが、3年後、徳川軍は付城を築いて7ヵ月に及ぶ包囲戦を展開して奪回、重臣大久保忠世を入れる。1579年には、武田への謀反を疑われた徳川家康の長男、信康がこの城で自刃している。1590年、大久保忠世の小田原移封に伴い廃城となった。高さ4.6mの天守台のほか、石垣、土塁が残っている。
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馬伏塚城 まむしづかじょう(袋井市)
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丸子城 まりこじょう
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三岳城 みたけじょう
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かつての遠江国府に建てられた城 見付端城 みつけはじょう(磐田市)
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持船城 もちぶねじょう
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社山城 やしろやまじょう
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東海道を扼す堅城も数には勝てず 山中城 やまなかじょう(三島市)
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1560年代、北条氏康が小田原城の西方防衛のために東海道を挟み込む形で築城。1589年、上野・名胡桃城を北条方が奪取したことで豊臣秀吉は小田原攻めを決意。迎え撃つ北条方の西方拠点・山中城も西の丸や出丸の増築を進めるが未完成のまま、翌1590年3月、豊臣秀次率いる7万の軍勢が襲来。松田康長・間宮康俊以下4000名で迎え撃つが約17倍の軍勢の猛攻により半日で落城し、廃城となる。北条氏系城郭に多い、堀に畝状の障害を設けた「障子堀」の遺構がよく残り、土塁だけで築かれた城郭の最終形を見ることができる。
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恐怖!金玉落とし 横地城 よこじじょう(菊川市)
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住宅地に忽然と現れる丸石垣群 横須賀城 よこすかじょう(掛川市)
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別名松尾城。1580年、徳川家康の家臣・大須賀康高が築城。東約6kmにある武田方の高天神城に対する付城として築かれたが、翌年、高天神城が落ちると遠州南部の拠点と位置づけられた。大手門を東西に持つ「両頭の城」で、丸い河原石を用いた「玉石積み」と呼ばれる石垣などの特徴がある。初期城郭は丘陵先端部の松尾山に築かれた山城で、近世中期までに二の丸など平城部分が付加されたと考えられる。当時は城の手前まで海が入り組み、横須賀湊を擁する物流の拠点でもあった。大須賀氏2代の後、城主が何回か変わったが、1682年以降は西尾氏8代の居城として明治維新を迎えた。
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横山城 よこやまじょう
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