城名

概要

場所

評価/more


戦国時代までの阿波の中心地
勝瑞城
しょうずいじょう(徳島県板野郡藍住町)

室町時代の阿波国守護細川氏と、家臣の三好氏が本拠とした城。築条時期は不明だが、1363年、細川氏が守護所を内陸の秋月からこの地に移したとされる。守護町・勝瑞は、阿波の政治・経済・文化の中心地として繁栄し、京都の管領屋形に対して阿波屋形とも呼ばれた。1552年、三好義賢(実休)は守護・細川持隆を殺して実験を奪うが1562年に戦死する。長男・長治が継承するが1577年、持隆の子で長治の異父兄でもある守護・細川真之に離反されて自害。次男・十河存保は1580年、中富川の戦いで長宗我部元親に大敗して讃岐に退き、間もなく勝瑞は廃城となる。現在、城跡は三好家菩提寺の見性寺となって土塁や堀が残るほか、寺の南西方が史跡公園として整備されている。

時代:南北朝~戦国
種別:平城
築城年:1363
廃城年:1582
アクセス(A便利-E不便):A
難易度(A楽勝-E危険):A
知名度(A有名-E無名):B

残存度(A良好-E無惨):D
総合満足度:B-



意外な所に天守を設けた蜂須賀氏の城
徳島城
とくしまじょう(徳島県徳島市)

1585年、豊臣秀吉によって阿波17万6000石に封じられた蜂須賀家政(小六正勝の子)によって築城。北を助任川、南を寺島川(現在はJR徳島駅)に挟まれた標高61mの城山上に東二の丸・本丸・西二の丸・西三の丸を連郭式に配し、南麓に藩主が暮らす御殿、西麓に隠居所用の西の丸を配した平山城。三層の天守は、本丸ではなく一段下がった東二の丸に設けられ、西二の丸に鉄砲櫓と帳櫓、西三の丸には材木櫓と平櫓があった。江戸時代を通じて、阿波・淡路25万7000石の大名・蜂須賀氏15代の居城であった。現在は石垣や表御殿庭園、戦災焼失後復元された鷺之門等が残る。

時代:戦国~幕末
種別:平山城
築城年:1585
廃城年:1869
アクセス(A便利-E不便):A
難易度(A楽勝-E危険):B
知名度(A有名-E無名):A

残存度(A良好-E無惨):C
総合満足度:A-


徳川御連枝が治めた巨大な海城
高松城
たかまつじょう(香川県高松市)

別名玉藻城。1587年、豊臣秀吉から讃岐17万石余を与えられた生駒親正が1590年に築城。築城の名手、黒田如水孝高の縄張と伝わる、全国的にも珍しい水城であった。生駒氏が4代で改易されると、1642年、松平頼重が東讃岐12万石で封じられる。頼重は徳川家康の末子・頼房の長男で、徳川光圀(水戸黄門)の同母兄に当たる。兄を差し置いて御三家を継いだ光圀は、兄頼重の子を水戸藩の、自らの子を高松藩の継嗣とし、幕末まで松平家11代が治めた。北の丸の月見櫓・水手御門・渡櫓と、旧東の丸の丑寅櫓が現存する(いずれも重文)ほか、明治まで残っていた天守の再建も構想されている。

時代:安土桃山~幕末
種別:海城
築城年:1590
廃城年:1869
アクセス(A便利-E不便):A
難易度(A楽勝-E危険):A
知名度(A有名-E無名):A

残存度(A良好-E無惨):B
総合満足度:A


壮大な城壁に載る可愛い現存天守
丸亀城
まるがめじょう(香川県丸亀市)

現存12天守(重要文化財)。1597年、讃岐一国を支配する生駒氏が西讃岐支配のために標高66mの亀山に築城するが、一国一城令で一旦廃城となる。1641年、山崎家治が西讃岐5万3000石に封じられ城を再興。現存する天守や高さ20mを超える石垣はこの時造られた。1658年、山崎氏が3代で無嗣断絶すると播州龍野から京極高和が6万石で入り、明治維新まで7代続く。京極氏の時代に大手口は南側から北側に改められ、大手門桝形等が整備された。最盛期には、山上石垣には天守と12の隅櫓が渡櫓で繋がる壮大なもので、麓に藩主の御殿や大書院などがあった。

時代:安土桃山~幕末
種別:平山城
築城年:1597
廃城年:1871
アクセス(A便利-E不便):A
難易度(A楽勝-E危険):B
知名度(A有名-E無名):B

残存度(A良好-E無惨):A
総合満足度:A


レプリカの天守にもいつしか風格が
今治城
いまばりじょう(愛媛県今治市)

関ヶ原の戦いの功で宇和島8万石から伊予半国20万3000石へ加増された藤堂高虎が1604年に築城。三重の堀に海水を引き入れ舟入りを持つ海城で、日本三大水城に数えられる。5層の天守は日本初の層塔型で、丹波亀山城に移築されたと言われるが、存在を含めて不明点が多い。高虎は1609年に伊勢に転封となり、今治は養子・高吉が継ぐが1635年に伊勢・名張に移り、以後明治維新まで久松松平氏10代が城主となった。明治維新で建物は全て破却されたが、1980年、望楼型で造られた模擬天守に続き、1985年以降、武具櫓、御金櫓、山里櫓、鉄御門、東西多聞櫓など多くが復元されている。

時代:安土桃山~幕末
種別:海城
築城年:1602
廃城年:1873
アクセス(A便利-E不便):A
難易度(A楽勝-E危険):A
知名度(A有名-E無名):A

残存度(A良好-E無惨):B
総合満足度:A


伊達政宗の系譜を継ぐ現存天守
宇和島城
うわじまじょう(愛媛県宇和島市)

現存12天守(重要文化財)。別名鶴島城。1546年、家藤監物が入城したのが記録の初見。その後西園寺宣久、小早川隆景、戸田勝隆を経て1595年、藤堂高虎が領主となり翌年から築城を開始、1601年頃までに天守と大小数十の櫓を構えた城郭が完成する。現在は埋め立てが進んでいるが、築城時は西側が海、東側が海水を引き込んだ水堀の「海城」だった。1608年、高虎の今治転封後、富田信高を経て1615年、伊達政宗の庶長子・秀宗が10万石で入城する、秀宗は板島城を宇和島城と改め、幕末まで伊達氏の居城となる。現存天守は1671年、伊達氏二代宗利のときの落成。


木造で完全復元された連立天守
大洲城
おおずじょう(愛媛県大洲市)

1331年、伊予国守護・宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ嶽城が起源。戦国時代まで宇都宮氏の居城だったが、1585年羽柴秀吉の四国平定後、小早川隆景、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治が相次いで城主となり、1617年以降は明治維新まで加藤氏6万石の居城であった。城郭建築は藤堂・脇坂時代に整えられたと考えられ、特に天守は脇坂安治が旧領・淡路洲本から移築したと伝わる。4層4階の天守は老朽化のため1888年に解体されたが、古絵図、天守雛形、古写真などを元に、2004年に木造で正確に復元された。四国で現存するどの天守よりも高い。他に台所櫓・高欄櫓・苧綿櫓・三の丸南隅櫓が重文。

本来は仏閣だった山城
川之江城
かわのえじょう(愛媛県四国中央市)

南北朝時代の1337年、伊予の河野通政(南朝)が讃岐の細川氏(北朝)に備え、家臣の土肥義昌に命じて築城。別名の仏殿城は、ここがまさに仏殿だったことに由来する。讃岐・阿波・土佐国境に近く、戦国末期には河野氏と土佐の長宗我部氏の抗争の舞台となった。豊臣秀吉が四国を平定すると、小早川隆景、福島正則、加藤嘉明などが領主を務め、嘉明の時代に廃城になったと考えられる。江戸時代初期、一柳直家が川之江藩2万3000石に封じられるが6年で無嗣断絶。遺構は本丸付近に石垣が僅かに残るのみで、近世城郭が建てられることはなかったが、1986年に模擬の天守、涼櫓、櫓門などが建てられた。


最後に完成した現存天守
松山城
まつやまじょう(愛媛県松山市)

現存12天守(重要文化財)。関ヶ原の戦功で伊予20万石に封じられた加藤嘉明が1603年に築城を始め、嘉明の会津転封後に入った蒲生忠知の1627年に完成した。標高132mの勝山山頂に本丸、裾野に二の丸、三の丸を配した平山城で、山麓の二の丸から本丸まで、全国的にも珍しい「登り石垣」が這っている。蒲生氏を継いだ松平定行は、嘉明時代の5層天守を3層に改築するが、1784年に落雷焼失。曲折を経て1854年にようやく再建された。現在本丸には、大天守・野原櫓・乾櫓・隠門続櫓など21棟の重要文化財のほか、小天守・北隅櫓・天神櫓など30のの復興建造物がある。


瀬戸内を制した河野水軍の本拠地
湯築城
ゆづきじょう(愛媛県松山市)

室町初期の建武年間、河野通盛が、それまでの拠点、風早郡河野郷(現在の松山市北条地区)から移って築城。讃岐守護・細川氏の介入や一族間の内紛を排し、大内・大友・毛利などの有力諸侯と同盟や縁戚関係を結んで伊予守護の地位を確立する。16世紀前半には、二重の堀と二重の土塁を巡らせた堅固な平山城であったが、1585年、羽柴秀吉の命を受けた小早川隆景に包囲されて最後の領主・通直が降伏して河野氏は滅亡。湯築城も2年後、松山城に役割を譲って250年余の歴史を閉じた。現在は道後温泉に隣接した「道後公園」になっており、堀や土塁などの縄張り遺構が良好に残る。

無鳥島の蝙蝠、最後の棲み家
浦戸城
うらどじょう(高知県高知市)

桂浜(浦戸湊)を擁する交通の要地で、鎌倉時代からすでに豪族の館があった。戦国時代、高知平野に進出した本山氏が支配するが、1560年、長宗我部国親に攻め落とされる。1588年、国親の子・元親は、鎌倉~室町期以来の父祖累代の居城であった岡豊城を棄てて新たに大高坂城を築くが、水害に悩まされて1991年には浦戸山に移り、3層の天守を含む本格的な城郭に改修する。元親の跡は4男の盛親が継ぐが、関ヶ原の戦いで西軍に与して改易され、土佐一国は掛川城主・山内一豊に与えられる。1603年、一豊は旧大高坂城の場所に新たな城(高知城)を築いて移り、浦戸城は廃城となった。 


全国唯一、天守と本丸御殿が現存
高知城
こうちじょう(高知県高知市)

現存12天守(重要文化財)。1601年、関ヶ原の戦功で土佐一国24万石の領主となった山内一豊が、浦戸城に代わる新城を、南北朝時代からの古城があった大高坂山に求めた。2年後に本丸・二の丸などが完成し、一豊は大高坂山を「河中山(こうちやま)」と改めるが、水害が多発したため2代忠義が「高智山」と改め、やがて「高知山」となる。1727年の大火で追手門を残し、天守・御殿などほとんどの建物を焼失するが、1753年までにほぼ再建された。明治維新で本丸周辺と追手門を除く建物は破却されるが、天守・本丸御殿(懐徳館)・納戸蔵・黒鉄門・追手門など15棟が残り、重要文化財に指定されている。


長州征伐で孤軍奮闘も返り討ちに
小倉城
こくらじょう(福岡県北九州市小倉区)

館の起源は鎌倉時代中期に遡る。戦国時代には高橋鑑種や毛利勝信を経て、関が原の戦いで豊前39万石に封じられた細川忠興が1602年から7年をかけて築城。細川氏の熊本転封後は、譜代の小笠原忠真が15万石で封じられ、以後幕末まで九州諸大名の監視役を担った。1837年に天守・御殿は火災で失われ、天守が再建されることなく幕末を迎える。1866年、幕府の第二次長州征伐で長州藩の攻勢を支えきれず城に火を放って撤退、長州藩に占拠されたまま維新を迎える。現在の天守は1959年の再建だが、観光的配慮から本来なかった破風を多用したため、復元でなく復興天守に分類されている。


 
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