城名

概要

場所

評価/more


僅か3年で潰えた「夢まぼろし」の城
安土城
あづちじょう(近江八幡市)

1576年、織田信長が丹羽長秀を築城責任者に任じて築城開始、1579年に5層7階と伝わる天守(信長は「天主」と称した)を構えた城郭が完成した。 本格的な天守を初めて構えた城とされる。1582年6月、本能寺の変直後、天主・本丸は焼失。織田信雄もしくは明智秀満の放火によるものとも言われているか、炎上の原因は不明。その後も織田家継承者の城として、信長の次男・信雄や嫡孫・三法師が入城するが、小牧・長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると役割を終えて廃城となり、資材は羽柴秀次の八幡山城築城に転用された。当時の建物としては、城内にある摠見寺に三重塔と仁王門が残る。

関ヶ原当日まで粘った京極高次
大津城
おおつじょう(大津市)

豊臣秀吉が中央を掌握した1586年頃までに、明智光秀の旧坂本城を廃して築城した水城。初代城主は秀吉の義弟浅野長政で、その後増田長盛、新庄直頼を経て1595年、浅井三姉妹の次女・初の夫、京極高次が城主となる。1600年、関ヶ原の戦いで高次は東軍に加担し大津に籠城。9月15日の合戦当日に開城降伏するが、西軍の大軍を引き付け、合戦に間に合わせなかった功により若狭小浜8万5000石を与えられ、大津城は膳所城にその役割を譲って廃城となる。現在、城跡は大津市街地となって痕跡は全く見られず、本丸跡に僅かに碑が残るのみ。


浅井長政とお市、悲恋を紡ぐ城
小谷城
おだにじょう(長浜市)

1524年頃、北近江の豪族・浅井亮政が標高495mの小谷山に築城。尾根筋に階段状に郭が設けられた細長く、堅固な山城で、西麓の清水谷には平時の居館があり、さらに西の尾根にも出丸が設けられていた。1573年、織田信長の大軍に攻められ、まず先代・久政(亮政の子)が小丸で、次いで当主・長政が本丸下の赤尾屋敷で自害。長政の長男・万福丸も処刑されたが、長政の妻で信長の妹・お市と3人の娘は助命された。戦後、城攻めに功のあった木下秀吉に与えられるが、秀吉は通商に便利な琵琶湖沿いに長浜城を築き、小谷は廃城となった。現在でも山中に高さ5mの大石垣や各郭の土塁が残る。


奥深い山中に現れる壮大な石垣
観音寺城
かんのんじじょう(近江八幡市)

別名佐佐木城。1468年、近江守護・佐々木(六角)氏の居城として築城。応仁の乱では、同族の京極氏を巻き込み3度にわたる攻城戦が繰り返された。1532年、六角定頼は、室町幕府第12代将軍・足利義晴を観音寺城に迎えるにあたり城を大改修。以後3年間、室町幕府は観音寺山内の桑実寺にあった。さらに、1550年頃に鉄砲が伝わると、今日に遺構が残るような、石垣造りの城構えが完成した。しかし、1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛軍を起こすと、六角義賢・義治父子は支城を落とされただけで観音寺城を捨てて逃亡。戦国大名六角氏は衰亡し、観音寺城も間もなく廃城となったと思われる。

安土と並び称された光秀自慢の城
坂本城
さかもとじょう(大津市)

1571年、比叡山延暦寺を焼き討ちした織田信長は、明智光秀を比叡山と琵琶湖航路を扼するこの地に封じ、翌年光秀は大天守と小天守を備えた壮大な水城を築き上げた。宣教師ルイス・フロイスはその規模を「安土城に次ぐ」と記している。1582年、本能寺に信長を斃した光秀が山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ討ち死にすると、娘婿の明智秀満は湖上を渡って坂本に戻り、光秀の妻子を殺して自害、城も焼失した。翌年、丹羽長秀によって再建され、杉原家次・浅野長政が城主を務めるが、1586年、大津城に役割を譲って廃城となった。

「三成に過ぎたるもの」の一つ
佐和山城
さわやまじょう(彦根市)

鎌倉時代、近江守護佐々木氏の一族が築いた砦が起源。戦国後期まで佐々木(六角)氏が支配するが、次第に北近江の浅井氏が力を増す。1570年の姉川の戦いで浅井長政が織田信長に敗れると、翌年、城将・磯野員昌は信長に降り、代わって信長の重臣・丹羽長秀が城主となる。本能寺の変後は堀秀政・堀尾吉晴を経て、1590年、石田三成が入場。5層の天守を備えた壮大な城は、重臣・島左近とともに、「三成に過ぎたるもの」と言われた。1600年、関ヶ原の戦い後に東軍に攻められ落城。当地に封じられた井伊直政は彦根山に新城を築き、佐和山は廃城となる。

日本三大湖城に数えられる東海道の要害
膳所城
ぜぜじょう(大津市)

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、1601年、大津城に代わる東海道の要衝として、藤堂高虎に命じて築城。松江城、高島城と共に日本三大湖城に数えられる。本丸北側に上げられた4層4階の白亜の天守は東海道の旅人から愛でられた。初代の城主は戸田一西で、その子氏鉄の後は本多・菅沼・石川と城主が変遷し、1651年以降は本多氏13代6万石の居城として明治維新まで続いた。現在、本丸跡は膳所城址公園、二の丸は浄水場となっている。城址の建物は全て破却され、石垣以外は残っていないが、重要文化財に指定された城門が膳所神社や篠津神社などに移築されて残っている。

豊臣秀吉、天下取りの第一歩
長浜城
ながはまじょう(長浜市)

1573年、浅井長政の小谷城攻めで功績のあった木下秀吉は、織田信長から浅井氏の旧領12万石を与えられ、初めて城持ち大名となる。「羽柴」と姓を改めた秀吉は、翌年、山城の小谷に代わる拠点を琵琶湖に面した今浜の地に求めた。1575年頃に城が完成すると、地名を長浜に改めて城下町を整備し、1582年の本能寺の変まで秀吉の主城であった。清須会議の結果、柴田勝家の甥・勝豊が入るが秀吉に攻められて開城。後を継いだ山内一豊夫妻は、天正地震で娘を失う悲劇に遭った。1615年に廃城となり、現在は城郭を模した長浜城歴史博物館が建つ。


秀吉に翻弄された「殺生関白」の城
八幡山城
はちまんやまじょう(近江八幡市)

1585年、羽柴秀吉の甥(姉の子)、秀次が近江43万石に封じられて八幡山に築いた山城。秀次は安土の城下町をこの地に移して城下町を構え、後の近江商人隆盛の礎を築く。1590年、小田原攻め後の転封を拒んだ織田信雄が改易されると、秀次は尾張清洲へ転封となり、代わって京極高次が入城するが、1595年、関白を継いでいた秀次が秀吉によって切腹させられると八幡山城は廃城となり、高次は大津へ移った。急峻な山城には多くの石垣が残り、本丸部分は秀次の母、日秀が子の菩提を弔った瑞龍院が建つほか、山麓部の秀次居館跡も発掘が進んでいる。


徳川譜代筆頭・井伊家累代の居城
彦根城
ひこねじょう(彦根市)

現存12天守。国宝。国の特別史跡。1600年、関が原の戦いで勝利した徳川家康は、徳川四天王に数えられる井伊直政に、西軍の事実上の総帥だった石田三成の旧領・佐和山を与えられると新城を計画するが、2年後、関ヶ原の傷が癒えず病没。長男・直勝、次男直孝の3代で天守や表御殿、城下町などが整備される。大坂の陣でも活躍した直孝は、秀忠・家光・家綱の3代に渡って将軍の執政となり、最盛期には35万石という譜代最大の石高を誇る井伊家隆盛の基礎を築いた。天守・附櫓・西の丸三重櫓・太鼓門など多くの建物が現存し、城下には幕末の大老・井伊直弼が不遇の時代を過ごした埋木舎も残る。

将軍上洛のために作られた城
水口城
みなくちじょう(甲賀市)

別名碧水城。水口は京都と伊勢を結ぶ交通の要衝で、1585年には平山城の水口岡山城が築かれ、豊臣政権で五奉行を務めた増田長盛、長束正家が城主となるが関ヶ原の戦いで廃城となった。江戸時代には東海道五十三次の宿場町になり、1634年、3代将軍・徳川家光の上洛に伴い、将軍居館として平城の水口城が新たに築かれた。堀と石垣を周囲に巡らせたほぼ正方形の本丸には御殿と四隅の櫓、東側の出丸が設けられた。家光以後は将軍の上洛はなく幕府直轄領であったが、1682年加藤嘉明の孫・明友が2万石で封じられ、明治維新まで水口藩として続く。

 
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