城名

概要

場所

評価/more

幕末まで続いた北政所親族の系譜
足守陣屋
あしもりじんや(岡山県岡山市北区)

豊臣秀吉の妻おね(北政所)の実兄、木下家定が、関が原の合戦後、姫路から移封されて2万5000石の足守藩初代藩主となる。1608年に家定が死ぬと、長男勝俊と次男利房で分割相続せよという幕府の指示を無視して、おねが勝俊一人に相続させようとしたために領地は没収され、浅野長晟の統治を経て幕府直轄領となる。しかし、大阪夏の陣後、利房が父と同石高で足守藩主に再任され、以後明治維新まで木下家13代が治めた。現在、陣屋跡は公園となって石垣や水堀、藩主の庭園だった近水園などが残る。因みに、秀吉の辞世と伝わる「露とおち~夢のまた夢」の句は、この木下家に伝わっていたもの。


秀吉の養子2人の数奇な運命
岡山城
おかやまじょう(岡山県岡山市)

別名烏城。戦国時代、国人・金光氏の領した石山砦を宇喜多直家が奪い、城と城下町を整備する。その子秀家は、養父・豊臣秀吉の助言に従い、石山の東隣にある「岡山」に本丸を移し、1597年に3層6階の天守を備えた城郭が完成した。関が原の戦いで西軍を率いた宇喜多秀家は流罪となり、東軍へ寝返りの功で52万石に加増転封された小早川秀秋は城下町の拡張に務めるが2年後に夭折、無嗣断絶となる。その後は明治維新まで池田家12代31万5000石の居城となる。典型的な望楼型天守は戦前国宝に指定されるが戦災で焼失。1966年に外観復元された。


異国の侵攻に備えた古代の山城
鬼ノ城
きのじょう(岡山県総社市)


朝鮮・白村江の戦い(663年)で唐・新羅連合軍に敗れた大和朝廷が、日本侵攻に備えて西日本各地に築いた古代山城と考えられる。古代吉備地方の中枢地・総社平野を見下ろす、標高約400mの鬼城山の八~九合目付近の全周(約2.8km)にわたり城壁(土塁主体、一部石垣)が築かれ、4カ所の城門、6カ所の水門が設けられている。城内は広さが約30haあり、発掘調査によって城内でも最大規模と判明した西門や、防御施設である角楼と土塁などが復元されている。岡山の英雄、桃太郎伝説の原型とされる「吉備津彦命の温羅(うら)退治」の台とも言われる。

瀬戸大橋を間近に仰ぐ平山城
下津井城
しもついじょう(岡山県児島市)

慶長初期に豊臣五大老で岡山城主の宇喜多秀家が築城し、浮田家久を城将とする。関ヶ原の戦いで宇喜多氏が改易されると、跡を継いだ小早川秀秋の家老平岡頼勝、秀秋の無嗣改易後に池田忠雄が岡山城主となると、家老池田長政、次いで池田由之、さらに子の由成が3万2000石と城主を歴任するが、1639年、一国一城令で廃城となった。下津井瀬戸大橋を間近に眺められる瀬戸内海に突き出した標高約60mの平山城で、江戸時代初期に廃城となったため建造物は残っていないが、西尾根に本丸・二の丸・三の丸・西の丸、東尾根に中の出丸、波多野丸などの曲輪が1300mに及ぶ石垣に囲まれて残っている。




多くの櫓を誇った有力親藩の城
津山城
つやまじょう(岡山県津山市)

1603年、美作一国18万6500石の領主に封じられた森忠政(長可、蘭丸らの末弟)が13年の歳月をかけ、1616年に完成した平山城。我が国の築城技術が頂点に達した時期の建築で、装飾破風を一切省いたシンプルな5層の望楼型天守をはじめ、備中櫓、粟積櫓、月見櫓など往時には60を超える櫓がひしめき合うように立ち並んでいた。森氏が4代で無嗣改易となった後は、越前松平宗家の宣富が10万石で封じられ、以後幕末まで続く。明治維新まで残った天守や櫓群は、廃城令ですべて破却され、壮麗な石垣のみが残ったが、2005年に備中櫓が木造復元された。


歴史の転換点となった水攻め
備中高松城
びっちゅうたかまつじょう(岡山県岡山市北区)

永禄年間、備中の戦国大名・三村氏の家臣・石川久式が築城。低湿地に立地する典型的な沼城。1582年、織田信長から毛利氏攻略を命じられた羽柴秀吉は、清水宗治が守る毛利防衛ラインの主城・備中高松城を包囲する。黒田官兵衛の進言で堤防を築き、水攻めで高松城を包囲し、有利な条件で講和する直前、本能寺の変の凶報が舞い込む。領土面で毛利に譲歩する代わりに宗治の切腹を主張した秀吉は、切腹した宗治を礼を尽くして葬ると「中国大返し」で京都へ戻り明智光秀を討つ。その後宇喜多秀家の臣・花房正成が入り大規模な拡張を行う。江戸時代初期まで陣屋として使われた後、廃城となった。


"標高430m"が救った現存天守
備中松山城
びっちゅうまつやまじょう(岡山県高梁市)

現存12天守(重要文化財)。最も高所に残る天守建築で、「日本三大山城」の一つ。1240年、秋葉重信が築城。戦国時代、三村元親が大規模城塞に改修し、江戸時代に水谷勝宗が修築して現在の姿になった。水谷氏の無嗣断絶時には収城使として赤穂藩家老・大石内蔵助が1年余り在城した。幕末の藩主、板倉勝静は老中首座として活躍、箱館戦争まで従軍した。険しい高地のため廃城令での破却を免れ、天守、二重櫓、三の平櫓東土塀が現存する他、本丸南御門、東御門、腕木御門などが復元されている。「日本三大山城」で唯一建物が現存する城でもある。

僅か3年で廃された福島氏の城
亀居城
かめいじょう(広島県大竹市)

関が原の戦いで敗れた毛利輝元に代わって広島城に入り、芸備2カ国の領主となった福島正則は、西に接する毛利氏に備えて領内各地に支城を設けて守りを固めた。亀居城もその一つで、瀬戸内海に面した小方山に、山陽道を取り込む形で気づかれた平山城。山頂の本丸から、二の丸、三の丸、有の丸、なしの丸などの曲輪が一列に連なった連郭式で、石垣を多用した本格的近世城郭だったが、秀吉の親族である福島正則に対する徳川幕府の締め付けは厳しく、完成からわずか3年の1611年に廃城となり、正則自身も1619年に改易されて広島を逐われた。


原爆に吹き飛ばされた350年の天守
広島城
ひろしまじょう(広島県広島市)

1589年、豊臣秀吉から中国120万石の太守に任じられた毛利輝元が、山城の吉田郡山城から、太田川河口の三角州デルタ地帯に新たな築城を開始。1591年の輝元入城後も工事は続けられ、完成は1599年になったが、翌年の関が原の戦いで毛利氏は防長2州への減封となり、秀吉の武将で従弟でもある福島正則が50万国で入城する。正則は城普請と城下町整備に務めるが、幕府に目をつけられて改易。その後は江戸時代を通じて浅野氏42万6000石の居城であった。維新後も残された天守は原爆の爆風で倒壊するが、1958年に外観復元された。


大阪の陣後に築かれた近世城郭
福山城
ふくやまじょう(広島県福山市)

広島50万石の大大名だった福島正則の改易に伴い、備後福山10万石に封じられた水野勝成(徳川家康の従弟)が1622年に築城。毛利など西国大名への抑えの城として例外的に新規築城された縄張りは城郭建築の完成形と讃えられ、水野・松平氏を経て明治維新後まで阿部氏10代の居城となる。国宝に指定されていた5層天守は戦災で消失し、1966年に再建されたが、戦前の写真が数多く残るにも関わらずかなりの改変が施されてしまい、名古屋城、岡山城、広島城などほぼ戦前の姿をとどめた「復元天守」ではなく、「復興天守」に分類されることが多い。


新幹線に隣接する巨大天守台
三原城
みはらじょう(広島県三原市)

「三本の矢」の逸話で知られ、豊臣政権では五大老にも任じられた小早川隆景の居城。毛利氏から養子に入った隆景が、小早川水軍の本拠と定め、瀬戸内海に直結する海城として築城した。隆景は1587年、筑前に加増転封されるが、1595年には豊臣氏から養子に入った秀秋に家督を譲り、自身は隠居城として三原城に戻るが1597年に死去。関ヶ原後は広島城に入った福島氏、次いで浅野氏の支城として幕末まで存続する。明治後建物は破却され、城跡には山陽鉄道(後の山陽本線)三原駅が作られ、山陽新幹線の開通によりさらに削られる。本丸跡は駅構内から直結している。

厳島の戦いの死命を制した囮城
宮尾城
みやおじょう(広島県廿日市市)

1551年、中国・北九州の覇者・大内義隆は重臣陶晴賢の謀反で滅びる。大内氏と盟友関係にあった毛利元就は当初晴賢に従うが、両者の利害は次第に対立するようになり、1553年に挙兵。一度は奇襲で陶勢を撃退するが兵力差で劣勢は否めず、1555年、厳島の宮尾(現在のフェリーターミナル前)に囮城を築き、陶勢を誘き出す。同年9月30日、折からの暴風雨に乗じて厳島に上陸した毛利勢は翌1日早朝、厳島神社正面の大鳥居側から突入した小早川・村上水軍と呼応して陶軍を奇襲、晴賢を追い詰めて自刃に追い込む。その後の城の動向は不明。


中国に覇を唱えた毛利氏の本拠
吉田郡山城
よしだこおりやまじょう(広島県安芸高田市)

1523年、宗家を継いだ毛利元就が、吉田盆地を見下ろす郡山の南東独立尾根にあった旧本城から、郡山全体へと城郭を拡張。1540年には尼子3万の大軍を撃退した。最盛期には山頂から放射状に伸びる6本の尾根と6本の支尾根に大小230にも及ぶ曲輪を備えた一大城郭で、本丸櫓跡は、標高390m、比高約190mの高所にあった。1591年、中国120万国を安堵された毛利元就の孫、輝元が平地の広島に本拠地を移した後も、詰の城として郡山城は維持されたと考えられているが、関ヶ原の戦いで毛利氏が敗れ、防長転封されたことで廃城となった。

外敵の侵入に備えた古代山城
石城山神籠石
いわきさんこうごいし(山口県光市)

光市と田布施町にまたがる石城山(標高362m)の八合目付近を約2500mに及ぶ土塁、門、水門などで鉢巻状に囲んだ古代山城。「神籠石」は本来、神の依り代となる磐座を指す名称だったが、現在は一般的に、古代山城のうち日本書紀などに記載されているものを「朝鮮式山城」、記載がないものを「神籠石」と分類している。1909年、同様のものとしては初めて九州以外で発見された。城壁の東西南北に排水口を設けた石造りの水門、北と東に城門が設けられ、城壁の多くは朝鮮由来の版築工法と呼ばれる何層にも分けて土を突き固めた土塁で造られている。


見映え優先で場所を移した再建天守
岩国城
いわくにじょう(山口県岩国市)

1608年、毛利市の一族、吉川広家により築城された、江戸時代には珍しい山上の近世城郭だが、徳川幕府の一国一城令により1615年には破却された。周防国には他に城がなかったにもかかわらず破却されたのは、関ヶ原の戦いに敗れ、周防・長門2国(今の山口県)に押し込められた毛利家が、徳川幕府を憚って長門国の毛利本城(萩城)以外を破却したためらしい。3層4階の桃山風南蛮造天守は1962年にコンクリートで再建されたが、岩国市街を眺望できるように、オリジナルより約50m東に再建。麓にある錦帯橋や佐々木小次郎の像越しに見ることができる。


室町時代の中国覇者・大内氏の館
大内氏館
おおうちしやかた(山口県山口市)

1360年、百済王の後裔を自称する大内氏の24代弘世が当地に館を構える。弘世の曾孫・政弘は応仁の乱で実質的な西軍総大将となり、山口には京都の戦乱から逃れた公卿や僧侶が住み着いて、西日本の政治・経済・文化の中心地として栄えた。政弘の孫・義隆の代には、日本にキリスト教を広めたフランシスコ・ザビエルも当地で布教に努めている。、1551年、義隆は重臣陶晴賢の謀反に会い自害。後を継いだ養子義長も晴賢を討った毛利元就によって滅ぼされ、役目を終えた館跡には人質時代に義隆に敬愛された毛利隆元(元就嫡男)によって龍福寺が建てられた。

関門海峡を睨む長府毛利藩の居城
櫛崎城
くしざきじょう(山口県下関市)

別名串崎城、勝山城。毛利輝元の従弟で一時期養子となっていた秀元が、関が原の戦いで周防・長門2州に減封された毛利本家に従い長府(下関)藩を立藩し築城。城が位置する串崎は北・東・南を海を断崖が取り巻く要害で、室町時代に大内氏の重臣内藤氏が築いた旧城を主郭として整備拡大したと推測されるが、1615年の一国一城令で破却された。しかし、関門海峡を扼す軍事的要地であることから、秀元は廃城後も旧三の丸に館を構えて長府藩の両国経営を行った。幕末には関見台・城山の2台場が設けられて攘夷に備えたが、1864年の下関戦争で破壊された。


大内館・山口城の詰の城として機能
高嶺城
こうのみねじょう(山口県山口市)

1556年、大内義長が築いた山城。豊後の戦国大名・大友宗麟の実弟である義長は、前当主義隆を討った陶晴賢によって擁立された傀儡当主であり、1555年の厳島の戦いで晴賢が毛利氏に敗死すると後ろ盾を失った。翌年、標高338mの鴻ノ峰に詰の城を築くものの、毛利氏の侵攻に抗しきれず長門に逃れ1557年に自刃。その後は毛利氏が城を改修し、1569年に大内氏復興を狙った大内輝弘の軍勢を撃退した。1638年、一国一城令により廃城となるが、城址は幕末に萩から山口に政庁を移した長州藩にも詰の城として活用された。


徳川への遺恨を培った長州の本城
萩城
はぎじょう(山口県萩市)

別名指月城。関ヶ原の戦いに敗れて120万石から周防・長門29万5000石に減封された毛利輝元が、豪族・吉見氏の居館があった指月山の麓に1604年から4年の歳月をかけて築城。麓の居城と山上の詰の丸で構成された平山城で、日本海に面した海城でもあった。初代長州藩主・秀就から幕末の「そうせい候」敬親まで、江戸時代を通じて毛利氏13代の居城だったが1863年に敬親が藩庁を山口に移して役割を終えた。5層5階の望楼型天守は、初層が俯射用に天守台より張り出しているのが特徴で明治維新まで存続したが、1874年に解体され天守台のみが残る。

萩から移転した幕末長州藩の居館
山口城
やまぐちじょう(山口県山口市)

幕末の1963年、長州藩主毛利敬親は有事に備えて、藩庁を外国船からの砲撃にさらされる萩から内陸で山陽道にも出やすい山口に移した。山口城(山口御屋形)は1864年に完成したその政庁で、戦国時代の詰城があった鴻ノ峰の東麓に、砲台や土塁、水濠を備えた近代的な西洋式城郭として作られた。明治維新後の廃城令で廃城になったが、城地は現在まで山口県庁として使われている。水濠の一部が残るほか、建物では切妻・本瓦葺で薬医門形式の藩庁正門がそのまま県庁正門(新県庁舎完成後は西門)として利用され、県指定有形文化財に指定されている。

 
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