城名

概要

場所

評価/more


"飢え殺し"で知られる悲劇の城
鳥取城
とっとりじょう(鳥取県鳥取市)

戦国末期、天文年間の築城と推定される。1581年7月、織田信長の武将・羽柴秀吉は毛利方の鳥取城攻略を命じられると、高値で米を買い占めた上で徹底した兵糧攻めを実施。後世、「鳥取の飢え殺し」と呼ばれた凄惨な籠城戦の末、城将吉川経家が切腹して開城した。その後、宮部氏を経て1617年、鳥取32万石に封じられた池田光政が、石高にふさわしい規模に拡張した。明治維新で建物は破却され、残った石垣も1943年の鳥取地震で多くが崩壊したが、現在、2018年完成予定で大手門の復元整備が進行中。写真背後の山が戦国時代から残る鳥取城本丸。


天守と四重櫓が併置されていた
米子城
よなごじょう(鳥取県米子市)

戦国末期の1591年、吉川広家が湊山に築城開始。関ヶ原の戦い後、広家は周防岩国に転封となり、代わって伯耆18万石に封じられた中村一忠が1602年に完成させた。中海に張り出した湊山(標高90m)の頂上に本丸、麓に二の丸、三の丸を配した平山城で、五重の天守と四重の副天守を備え、「山陰随一の名城」とも讃えられた。一忠の死後を襲った加藤貞泰の伊予大洲転封後は鳥取藩主池田氏の領するところとなり、家老の池田由之、次いで荒尾成利が城代を務め、幕末まで荒尾氏が実質的な城主として続いた。維新後建物は破却されたが石垣が良好に残る。


尼子・毛利・羽柴に翻弄された山城
若桜鬼ヶ城
わかさおにがじょう(鳥取県八頭郡若桜町)

鎌倉初期、梶原景時追討で功を上げた駿河国人、矢部暉種が因幡国八東郡を与えられ、標高452mの鶴尾山に築城。戦国時代まで矢部氏16代が続く。1575年、尼子氏再興を狙う山中鹿介らが攻略するが、毛利方の吉川元春に包囲されて翌年撤退。1580年、毛利氏も、羽柴秀吉の因幡侵攻を支えきれずに撤退、若桜2万石を与えられた木下重堅が城主となるが関が原の戦いで西軍に加わったため自刃。山崎家盛が若桜藩3万石の領主となる。1617年、池田光政が因伯両国の領主となり、一国一城令で廃城となった。本丸・二の丸・三の丸などに石垣がよく残る。


山陰の雄・尼子氏の本拠地
月山富田城
がっさんとだじょう(
島根県安来市)

室町時代、守護大名・戦国大名として中国地方に覇を唱えた尼子氏の居城。起源は平安末~鎌倉初期と推定され、築城者は悪七兵衛景清、佐々木高綱、同義清など諸説ある。南北朝時代は京極・山名氏が出雲守護の座を争うが、15世紀末には京極氏の守護代、尼子経久の居城となる。経久と孫晴久の時代に尼子氏は全盛期を迎え、中国八カ国を領する大大名となるが、1560年に晴久が急死すると毛利氏の攻勢に抗しきれず、1566年に降伏して尼子宗家は滅ぶ。その後は毛利家臣が城代を務めるが、関が原の戦い後出雲に入った堀尾吉晴は平山城の松江城を築いて移り、富田城は廃城となった。


宇喜多秀家従兄弟の数奇な運命
津和野城
つわのじょう(島根県鹿足郡津和野町)

別名三本松城。13世紀末~14世紀にかけて、鎌倉幕府から西国守護を命じられ下向した吉見頼行とその子頼直により築城され、戦国末期まで吉見氏の居城であった。1601年、関ヶ原の戦いの戦功で津和野3万石の大名に出世した坂崎出羽守直盛(旧名宇喜多詮家)は、三本松城をが石垣を巡らせ、三重天守を備えた近世山城へと改修するが、大阪夏の陣後に徳川家康の孫・千姫を巡る事件で失脚し自害。代わって因幡鹿野から移ったJ亀井政矩から亀井氏11代で明治維新を迎える。殿様の子孫の父娘は昭和~平成期に衆議院議員を務めるが、小泉の乱に巻き込まれて自滅した。

三宅御土居の詰の城として機能
七尾城
ななおじょう(島根県益田市)

鎌倉~室町期の国人、益田氏の居館であった三宅御土居の詰の城で、標高約120m、全長約600mに及ぶ巨大な山城。1551年、益田藤兼は、主君大内義隆への謀反を起こした陶晴賢に加担したことで、厳島の戦いで晴賢を討った毛利元就と対立することになり、堅固な七尾城を大改修して三宅御土居から移住した。後に藤兼と子の元祥は毛利氏に降り、1583年に七尾城から三宅御土居に居を戻している。益田氏が毛利氏に従い長門へ移ると、三宅御土居とともに廃城となったが、大手門は近くの医光寺に移築され総門として現存している。


長州藩への抑えで築かれた城
浜田城
はまだじょう(島根県浜田市)

別名亀山城。1619年、伊勢松阪から転封された古田重治が、23年迄に松原湾と浜田川に三方を囲まれた標高86mの独立峰に築いた平山城。山陽の福山城とともに、毛利氏に備える目的で一国一城令以後に新築された数少ない城で、本丸には三重の天守が建てられていた。古田氏二代の後、松平氏や本多氏が城主を歴任し、1866年、最後の城主松平武聰(徳川慶喜の実弟)は第二次長州征伐で長州の大村益次郎に敗れて自焼退城し廃城となる。ちなみに亀山は築城時に鴨山から改められたと言われ、一説に飛鳥時代の歌人、柿本人麻呂終焉の地と伝わる。


国宝に指定された5番目の天守
松江城
まつえじょう(島根県松江市)

1600年、関が原の戦いの功で出雲・隠岐24万石を与えられた堀尾吉晴と孫の忠晴が山城の富田城に代わる新たな居城として1611年に築城した。堀尾・京極氏を経て1638年以降は越前松平家の系譜を継ぐ松江松平氏10代が幕末まで続き、歴代藩主には、茶人として名高い松平治郷(号・不昧)がいる。山陰で唯一の現存天守は4層6階の望楼型で、明治の廃城令に際し、藩士たちの尽力で残され、2015年、天守建築として5番目の国宝に指定された。その他の建造物はすべて破却されたが、。2001年には、二の丸にあった太鼓櫓、中櫓、南櫓が木造復元されている。

尼子と大内の間で揺れた国人領主
三刀屋城
みとやじょう(島根県雲南市)

鎌倉初期の1221年、承久の乱で功を挙げた信濃源氏の一族、諏訪部扶長が当地の地頭職を与えられて築城。以後360年余にわたって三刀屋氏が領主として治める。室町時代には出雲守護の塩冶氏、次いで山名氏、さらに京極氏の傘下となる。やがて京極氏の守護代から戦国大名に成長した尼子経久に従い、尼子氏の本城である月山富田城を守る支城(尼子十旗)の一つに数えられる。最後の領主・三刀屋久扶は、尼子、大内、毛利氏の狭間で翻弄され、1588年に毛利輝元に所領を没収され追放される。その後堀尾氏の居城となるが一国一城令で廃城となった。

寺となって残った益田氏館の遺構
三宅御土居
みやけおどい(島根県益田市)

平安時代後期、石見国司として赴任した益田氏の居館で、南北朝時代に活躍した11代兼見の築造と伝わる。戦国末期、毛利氏と対立した19代藤兼は詰の城としていた山城の七尾城に本拠を移すが、毛利と和睦した子の20代元祥が御土居を大改修して再び本拠とする。関ヶ原で敗れた毛利氏に従い、元祥も長門へ移り、江戸時代初めに、御土居跡には益田氏の家臣が泉光寺を建立した。2004年に国の史跡となり、2008年に泉光寺が移転して更地となり、約190mを隔てて残る高さ5mの土塁(東側約90m、西側約50m [写真])が、往時の館の大きさを物語る。

 
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