城名
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概要
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場所
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評価/more
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土塁や石積も残る松山城の支城 青山城 あおやまじょう(比企郡小川町)
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別名割谷城 |
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比高:150m |
赤山陣屋 あかやまじんや(川口市)
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住宅地の公園に名が残る謎の城 浅羽城 あさばじょう(坂戸市)
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別名萱方城。浅羽氏は児玉党の一族で入西(にっさい)資行の長男行成が入間郡麻羽郷に住して名乗ったとされるが、浅羽氏に関しては資料が少なく詳細は不明。戦国末期には小田原北条氏に属し、1590年の小田原攻めで落城したと伝わる。今に残る絵図によると長方形の主郭を中心としていくつかの曲輪があり、南側の張出部が虎口を固めていたと思われる。住宅団地の建設で遺構は消滅して公園となっているが、案内板が立つ場所が主郭と推定され、道路を隔てた北側の公園の入り口にも「浅羽城跡(浅羽氏の居城)」と記されたプレートがある。 |
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時代:平安~戦国 種別:平城 築城年:平安末期? 廃城年:1590 アクセス(A便利-E不便):B 難易度(A楽勝-E危険):A 知名度(A有名-E無名):E 残存度(A良好-E無惨):E 総合満足度:D |
足利政氏館 あしかがまさうじやかた
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足利基氏館 あしかがもとうじやかた
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安保氏館 あぼしやかた |
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粟原城(鷲宮城) あわはらじょう |
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「一夜堤」による落城伝説が残る 石戸城 いしどじょう(北本市) |
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「蒲ザクラ」と共に残る蒲殿の足跡 石戸館 いしどやかた(北本市)
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古河公方と関東管領が睨み合った陣城 五十子陣 いかっこじん(本庄市)
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戦国城郭を彷彿とさせる巨大陣屋 伊奈氏屋敷 いなしやしき(北足立郡伊奈町)
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猪俣城 いのまたじょう
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鎌倉公方が9年に渡り滞陣した陣城 入間川御陣(入間川御所) いるまがわごじん(狭山市)
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1352年、足利尊氏の4男(嫡子では次男)で初代鎌倉公方となった基氏が父尊氏によって関東管領(当時は関東執事)を罷免された山内上杉憲顕を抑えるため、山内氏の本拠地上野と鎌倉を結ぶ鎌倉街道上ツ道と入間川の交点付近に陣城を築く。基氏はここに以後9年(一説に6年)に渡って在陣し「入間川殿」と呼ばれた。尊氏没後の1361年、基氏は上杉憲顕の復権を図って関東執事畠山国清を罷免し、抵抗した国清は翌年領国伊豆で反乱を起こす。その対応に基氏は鎌倉へ戻り、山内上杉氏へ備える必要もなくなった入間川御陣は放棄されたと思われる。御陣の正確な場所は不明だが、現在の狭山八幡神社がある高台もしくはその崖下に当たる旧徳林寺境内(現在は移転しマンション敷地)付近などと言われている。 |
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時代:室町 種別:平山城? 築城年:1353 廃城年:1362 アクセス(A便利-E不便):A 難易度(A楽勝-E危険):B 知名度(A有名-E無名):D 残存度(A良好-E無惨):E 総合満足度:D |
江戸を守る北の要衝 岩付城 いわつきじょう(さいたま市岩槻区)
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15世紀後半に築かれ、築城主には太田道灌、その父道真、成田氏など諸説あるが、16世紀前半には扇谷上杉氏から北条氏の家臣に転じた太田氏の居城となっていた。1567年に城主・太田氏資が戦死すると北条氏の直接支配となるが、1590年の小田原攻めでは岩付城も僅か2日で陥落した。江戸時代には江戸城北方の守りとして重視され、高力清長以下代々主要譜代が城主を務める。明治維新後、湿地だった城域は埋め立てられて宅地化され、僅かに城の南端に当たる新曲輪・鍛冶曲輪等が岩槻城址公園として残る。ここは1580年代に北条氏によって拡張された部分で、北条系縄張特有の障子堀も見られる。現存建物としては、公園内に黒門と裏門が移築保存されている。 |
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時代:室町~幕末 種別:平城 築城年:1478 廃城年:1871 アクセス(A便利-E不便):B 難易度(A楽勝-E危険):A 知名度(A有名-E無名):B 残存度(A良好-E無惨):D 総合満足度:B- |
飛騨に消えた謎の一族の故地 内ヶ島氏館 うちがしましやかた(深谷市)
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平安時代の末、小野氏後裔を称する武蔵七党・横山党に属する猪俣党の内ヶ島五郎国綱がこの地に住し、内ヶ島を名乗った。居館は現在の永光寺付近にあり、近年まで遺構が残っていたとされるが現在はみられない。ただ、地内の小字に西郭・東郭・南郭などが残されていて、面積は2町歩(200m四方)程度と考えられている。内ヶ島氏はその後足利氏に仕え、15世紀半ば頃に足利義政の命で飛騨白川郷へ入部したと考えられる。戦国時代の内ヶ島氏は、越中本願寺、越後長尾、能登畠山、美濃土岐、さらには織田信長、豊臣秀吉らと時に渡り合い、時に協力しつつ、鉱山開発で得た資金を元手に戦国大名の地位を確立するが、1586年の天正地震で居城帰雲城と共に埋没、一族は壊滅する。 |
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江ヶ崎城
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大河原氏館
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大河原城
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頼朝の長兄、義仲の父を討滅す 大蔵館 おおくらやかた(比企郡嵐山町)
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平安末期の武将・源義賢の居館跡。義賢は清和源氏の嫡流たる源義朝のすぐ下の弟で、義朝と対立した父・為義の命で関東に下り、桓武平氏秩父氏の嫡流・秩父重隆の娘婿となって上野・武蔵に勢力を広げ、相模鎌倉を拠点とする義朝に対抗する。これに対し1155年8月、上京中の義朝に代わり鎌倉を守る鎌倉悪源太義平(頼朝の兄)が父の命を受けて大蔵館を急襲し、義賢と重隆を討ち取る。この時、義賢の次男で2歳の駒王丸(後の木曽義仲)は、畠山重能、斎藤実盛らの計らいで館を脱出、信州木曽に逃れた。為義と義朝の父子対決は、翌年の保元の乱で義朝が為義を斬る形で決着するが、義朝と義平もまた、3年後の平治の乱で敗死することになる。
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時代:平安~戦国? 種別:平城 築城年:1152 廃城年:戦国期? アクセス(A便利-E不便):B 難易度(A楽勝-E危険):A 知名度(A有名-E無名):C 残存度(A良好-E無惨):D 総合満足度:C-
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青鳥城 おおどりじょう(東松山市)
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大堀山城
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大森氏館
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大類氏館
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郭を隔てる空堀と土塁が見事 岡の城 おかのじょう(朝霞市)
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北に黒目川を臨む比高約10mの舌状台地という天然の要害に築かれた平山城。太田道灌による築城という伝承があるが築城者や築城年を示す資料は発見されておらず、詳細は不明。一説には、1560年代にこの地を領していた道灌の子孫にして北条家臣・太田康資の居館跡とも言われる。現在、城山公園として整備された城跡は、北西端を道路が貫いている以外は比較的良好に遺構が残り、一の郭(本丸)、二の郭、三の郭はそれぞれが空堀で仕切られ、土塁や物見櫓とされる跡も残っている。
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時代:室町~戦国 種別:平山城 築城年:15世紀半ば? 廃城年:戦国期? アクセス(A便利-E不便):C 難易度(A楽勝-E危険):B 知名度(A有名-E無名):E 残存度(A良好-E無惨):D 総合満足度:C-
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岡部氏館 おかべしやかた
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東日本の山城では有数の大規模な石垣 小倉城 おぐらじょう(比企郡ときがわ町)
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石田三成を翻弄した「のぼうの城」 忍城 おしじょう(行田市)
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1478年、成田顕泰が築城。関東七名城に数えられ、北条氏康、上杉謙信などの攻撃を撃退した難攻不落の城で、特に1590年、豊臣秀吉の小田原攻めでは、城代成田泰季・長親父子を中心に結束し、石田三成、大谷吉継、長束正家らによる水攻めに耐えて小田原開城まで持ちこたえ、「忍の浮城」と讃えられた。1639年、老中阿部忠秋が入城し大改築に着手。孫・正武の代に天守(御三階櫓)を含む近世城郭としての縄張りが完成した。本丸跡に立つ天守(御三階櫓)は1988年再建の鉄筋コンクリート製で、実際の御三階櫓は600mほど南東の、現在の水城公園付近にあった。近隣には石田三成が本陣を構えたとされる丸墓山古墳や水攻めのために築いた石田堤などが残る。
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時代:室町~幕末 種別:平城 築城年:1478 廃城年:1871 アクセス(A便利-E不便):A 難易度(A楽勝-E危険):B 知名度(A有名-E無名):A 残存度(A良好-E無惨):C 総合満足度:B+
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柏の城
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関東管領・上杉憲政が長期滞陣 柏原城 かしわばらじょう(狭山市)
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つつじの名所で眺望も抜群 金尾要害山城 かなおようがいさんじょう(大里郡寄居町)
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1532年、鉢形城の支城として藤田重村が築城と伝わる。奈良時代の和同開珎で知られる和銅山に連なる山々の終端にあたるため「金尾」の名が付いたという。山頂の主郭にある櫓台跡には展望台が設けられ、東の鉢形城、花園城、花園御嶽城や、西の長瀞・秩父方面へ向かう秩父往還/秩父鉄道線沿いの集落を俯瞰できる。二郭には永禄年間に城主が勧請した愛宕神社があり、案内板によれば土塁、竪堀、馬出しの遺構が残るというが見分けにくい。山麓の伝通院は城主の居館跡で、対岸の波久礼に穀倉があったことから「殿倉」の地名も残る。つつじの名所としても知られ、4月から5月にかけて全山が緋に染まる。
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時代:室町~幕末 種別:平城 築城年:1478 廃城年:1871 アクセス(A便利-E不便):A 難易度(A楽勝-E危険):B 知名度(A有名-E無名):A 残存度(A良好-E無惨):C 総合満足度:B+ |
金窪城
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金子十郎家忠館
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本丸御殿が残る「通りゃんせ」の舞台 川越城 かわごえじょう(川越市)
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1457年、扇谷上杉氏の家宰、太田道真・道灌親子が築城。1537年、相模から武蔵へ進出した北条氏綱が奪取すると、上杉氏との間で武蔵の覇権を争う舞台となり、1546年には、籠城した北条綱成軍と後詰の北条氏康軍が、約10倍の山内・扇谷両上杉及び古河公方の連合軍を撃破した「河越夜戦」の舞台となった。江戸時代には新河岸川の舟運による江戸への輸送拠点となり、松平信綱、柳沢吉保ら幕府の重臣が相次いで城主となって「小江戸」川越は大いに栄える。遺構は市街地化でほぼ失われているが、全国的にも貴重な本丸御殿の一部が現存するほか、2008年には中ノ門堀が復元された。城内に鎮座する三芳野神社は、童謡「通りゃんせ」の舞台として知られる。
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別名:初雁城、霧隠城、河越城 時代:室町~幕末 種別:平城 築城年:1457 廃城年:1869 アクセス(A便利-E不便):A 難易度(A楽勝-E危険):A 知名度(A有名-E無名):B 残存度(A良好-E無惨):B 総合満足度:A- |
源義経の正妻・京姫の実家跡 河越館 かわごえやかた(川越市)
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平安末期から南北朝時代にかけて勢力を誇った在地領主・河越氏の居館跡で、近世川越城からは約3.5km西方にある。平安末の当主・河越重頼は桓武平氏流秩父氏の嫡流で、武蔵国の武士団を束ねる「留守所総検校職」を務め、娘・郷御前が源頼朝の弟義経の正室になるほどの有力者だったが、義経が頼朝と対立して追放されると、義経の縁者として嫡子重房と共に誅殺される。一時衰退した河越氏だが鎌倉時代半ばに復権し、1331年からの元弘の乱では鎌倉幕府倒幕にも貢献するが、1368年、平一揆を起こして河越館ともども歴史の表舞台から姿を消す。ただ居館跡には戦国時代にも山内上杉氏や後北条氏の陣があったことが記録に残っており、遺構が調査されている。
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時代:平安~戦国 種別:平城 築城年:12世紀後半頃 廃城年:16世紀末頃 アクセス(A便利-E不便):A 難易度(A楽勝-E危険):A 知名度(A有名-E無名):C 残存度(A良好-E無惨):D 総合満足度:C
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模擬天守と僅かに残る土塁 騎西城 きさいじょう(加須市)
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別名:私市城 |
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雉ヶ丘城
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平安末~南北朝期に栄えた在地領主 清久氏館 きよくしやかた(久喜市)
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久喜市の常徳院・雷電神社周辺は |
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平敦盛を討った武将の館 熊谷氏館 くまがいしやかた(熊谷市)
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竪堀を多用した堅固な縄張 腰越城 こしごえじょう(比企郡小川町)
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小瀬戸城
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山内上杉家から分かれた庁鼻和家 庁鼻和城 こばなわじょう(深谷市)
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14世紀末、室町幕府の重鎮・上杉氏の嫡流で初代関東管領を務めた山内上杉憲顕が、新田氏への備えとして六男の憲英に庁鼻和の地に居館を築かせた。憲英は「庁鼻和上杉」を名乗り、子の憲光と共に「奥州管領」に任じられるなど幕府から重用される。居館は一辺170mのほぼ正方形で、1390年には自ら開基となって館内に国済寺を開くが、1456年、憲英の曾孫・房憲は近隣の深谷に居城を移し、子孫は「深谷上杉氏」として江戸幕末まで続く。城跡は現在も国済寺の境内であり、庁鼻和城時代の土塁や築山のほか、憲英と歴代の墓が残る。
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時代:南北朝~室町 種別:平城 築城年:14世紀末 廃城年:1456 アクセス(A便利-E不便):A 難易度(A楽勝-E危険):A 知名度(A有名-E無名):E 残存度(A良好-E無惨):D 総合満足度:D+ |
高麗本郷陣屋
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斉藤実盛館
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皿尾城
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皿沼城
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寿能城 じゅのうじょう
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肥後で栄えた国人の故地 小代館 しょうだいやかた(東松山市)
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小代氏は児玉党の一族入西資行の次男遠広が入間郡小代郷に住したことに始まる。4代重俊は1247年、子重康の宝治合戦の功により肥後国野原荘(現熊本県荒尾市)の地頭職に任じられた。当初は地頭代を置いて管理していたが、1271年、蒙古襲来に備えて肥後下向を命じられ重泰ら一族の多くが移住。以後肥後国で勢力を誇って江戸時代も細川家の家臣として続き、宇土市出身の力士・正代もこの一族の末裔もしくは地名に因む家の出身と考えられる。小代館は東松山市「正代」の青蓮寺と東に接する御霊神社付近にあったとされ、青蓮寺には「小代重俊供養塔」という1281年に重俊の子孫が立てた板碑が残る。地形的には都幾川と越辺川の合流点付近にある台地で、南側崖下には湧水がある。
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時代:平安~? 種別:平城 築城年:平安末期? 廃城年:? アクセス(A便利-E不便):B 難易度(A楽勝-E危険):A 知名度(A有名-E無名):D 残存度(A良好-E無惨):E 総合満足度:D |
あやめ園になっていた菖蒲の節句に因む城 菖蒲城 しょうぶじょう(久喜市)
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「坂東武士の鑑」重忠の居館跡 菅谷館 すがややかた(比企郡嵐山町)
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源平争乱期の武将、畠山重忠の居館跡とされる。重忠は鎌倉幕府成立からの功臣で、清廉潔白な人柄で人望も厚かったが、1205年、岳父北条時政の謀略により当館から鎌倉へ向かう途中、相模二俣川で待ち伏せされ討死にした。その後も鎌倉街道沿いの軍事拠点として重視されたとみられ、1488年には山内・扇谷の両上杉氏がこの地で争い、700人もの戦死者が出た須賀谷原合戦が起こっている。現在残る城跡は戦国時代のものと推定され、南の都幾川を天然の堀とし、5つの郭を高い土塁と堀を持つ大城郭に拡張されていたが、戦国末期には廃城となっていた可能性もある。現在、国の史跡に指定され、埼玉県立嵐山史跡の博物館が併設されている。
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非常に良好な遺構が残る山城 杉山城 すぎやまじょう(比企郡嵐山町)
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室町~戦国時代の築城と推定され、一説に松山城主上田氏の家臣、杉山(庄)主水の居城であったと伝わる。典型的な山城で総面積は7.6haに及び、急峻な丘陵を巧みに利用した十余りの曲輪を理想的に配し、土塁や堀など遺構の保存状態も非常に良好で高度な築城技術が偲ばれる。立地的にも、北方の四津山城、高見城、越畑城、南に鎌倉街道を挟んで小倉城などの諸城と連携でき、16世紀後半には当地の重要拠点、松山城と鉢形城を連絡する軍事上の重要拠点であったと思われる。
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諏訪城
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千馬山城
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台城(岡城)
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高坂館
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高取山城
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高見城
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東京近郊に残る古代からの要衝 滝の城 たきのじょう(所沢市)
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別名本郷城。埼玉県と東京都の境を流れる柳瀬川の北岸に築かれた平山城。平安時代に築かれたと伝わるが定かではない。戦国時代には、武蔵国守護代・大石氏の支配下にあり、大石氏が北条氏の支配下入り、北条氏康の3男氏照が大石氏の養子に入ると、本拠の滝山城(東京都八王子市)を守る北の拠点となった。1590年、豊臣秀吉の北条攻めの際、滝山城に代わり氏照の本城となった八王子城とともに落城、廃城となった。本丸は城山神社となっていて、空堀や櫓跡等の良好な遺構が残る。本丸付近では、7世紀頃と推定される横穴墓群が出土している。
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数奇な人生を歩んだ武田信玄の甥 武田信俊館 たけだのぶとしやかた(比企郡小川町)
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武田信俊は武田信玄の弟河窪信実の子。1575年、父信実は長篠の戦いで長篠城背後の鳶ヶ巣山砦を守ったが討死。1582年の武田氏滅亡後、信俊は徳川家康に仕え
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多和目城
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秩父氏館
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中条氏館
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円良田城
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天神山城 てんじんやまじょう(秩父郡長瀞町)
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二重の堀を備えた中世豪族の居館跡 伝堀越館 でんほりこしやかた(羽生市)
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清和源氏祖の居館と伝わる館跡 伝源経基館 でんみなもとのつねもとやかた(鴻巣市)
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源経基は、清和天皇の六男・貞純親王の子であることから「六孫王」を称したとされる清和源氏の祖。938年、武蔵介に任じられ関東に下るが現地武士とトラブルになって京に逃げ帰り、仲裁役を買って出た地元の顔役・平将門の謀反を誣告して逮捕される。しかし、翌年将門が本当に乱を起こしたことで赦され、将門の乱と直後に起きた藤原純友の乱でそれぞれ追討軍に名を連ねるなど武勲に恵まれて鎮守府将軍まで登り詰め、一族繁栄の礎を築いた。この場所を経基の居館と裏付ける資料はないが、方形の区画割に土塁と空堀など中世武士の居館としての特徴はよく残っている。
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伝源範頼館
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道場館 どうじょうやかた(さいたま市桜区)
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戸塚城 とづかじょう(川口市)
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徳川十六神将に数えられる勇将の陣屋 内藤陣屋 ないとうじんや(久喜市)
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万葉集註釈を著した仙覚律師の碑が残る 中城 なかじょう(比企郡小川町)
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中山家範館
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仲山城 なかやまじょう(秩父郡長瀞町)
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諏訪氏が故地へ戻るまで短期滞在の陣屋 奈良梨陣屋 ならなしじんや(比企郡小川町)
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成田氏館
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「武蔵七党」末裔の居館 難波田城 なんばだじょう(富士見市)
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平安時代、「武蔵七党」と呼ばれた有力武士団の一つ、村山党の金子高範は承久の乱で討ち死にし、その恩賞として子孫がこの地を与えられ、難波田氏を名乗る。戦国時代には、難波田憲重(善銀)が扇谷上杉氏の重臣となって活躍したが、1546年、河越夜戦で一族と共に討ち死にし、主家とともに没落する。その後は北条氏の家臣・上田氏が難波田城主となるが、1590年の小田原攻めで北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、難波田城も廃城となる。現在は、江戸時代に残された絵図面を元に、堀、土塁、橋、虎口などを再現した市立難波田城公園となっている。
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西別府館
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野本館
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野火止陣屋
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畠山氏館
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前田・上杉相手に一月余りの奮戦 鉢形城 はちがたじょう(大里郡寄居町)
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国指定史跡。上州、信州方面から武蔵へ通じる鎌倉街道と秩父往還が交わる交通の要衝に位置する平山城。1476年頃、山内上杉家の家宰・長尾景春が築城。16世紀後半、当地の豪族で上杉家の家老を務めた藤田康邦が北条氏に降ると、北条氏康の5男・氏邦が入婿して居城とし、後北条氏の北関東支配の拠点として整備拡充される。北西側の荒川は高さ20mの絶壁、東側も深沢川の渓谷で攻略は難しく、陸続きとなる南西側には曲輪と堀切を連ねた堅城だが、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めでは上杉景勝・前田利家らの北国勢に攻められ、1ヶ月に及ぶ籠城線の末開城。そのまま廃城となったこともあり、戦国時代の遺構がよく残る。
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時代:室町~安土桃山 種別:平山城 築城年:1476 廃城年:1590 アクセス(A便利-E不便):A 難易度(A楽勝-E危険):B 知名度(A有名-E無名):A 残存度(A良好-E無惨):C 満足度(A満足-E残念):A |
花崎城 はなさきじょう
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深養父に埋もれた地元豪族の残照 花園城 はなぞのじょう(大里郡寄居町)
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武蔵七党の一つ、猪俣党の流れをくむ国人・藤田氏の代々の居城。荒川北岸の比高80mの丘陵に築かれた山城。東西の尾根筋に沿った連郭式で、各郭は複数の竪堀で独立している。特に山頂の本丸東側に設けられた竪堀が岩盤を掘削した大規模なもので、一部に石垣も見られる。戦国時代の当主で関東管領山内上杉氏の家臣・藤田康邦は北武蔵に侵攻してきた北条氏に降り、北条氏康4男の氏邦を養子として家督を譲る。氏邦が荒川対岸の鉢形城に本拠を移すと花園城はその支城、もしくは氏邦に家督を譲った康邦の隠居城となる。1590年、鉢形城と共に廃城となった。山頂に城址碑こそあるが登城路の整備状況は酷く、単独での登城は避けたほうがいい。 |
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花園城の支城とされる謎の城 花園御嶽城 はなぞのみたけじょう(大里郡寄居町)
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花園城から小さな谷一つ隔てて北西にある比高約130mの山城。築城時期や築城者の記録は残っていないが、花園城の背後を守るために藤田氏によって築かれたと思われる。麓の少林寺から五百羅漢が並ぶ参道を登り、途中の広場から円良田湖方面へ進み、円良田湖右折の標識を曲がらずに真っ直ぐ進むと御嶽神社の参道に合流し、階段を昇った山頂部が城の主郭になる。ここは神名が刻まれた数十の板碑が並ぶのみで城跡を示すものはないが、横堀及び竪堀と虎口と覚しき構造が見られる。花園城と比べると主郭への道は整備されて歩きやすいが、標識の類は全くない。鉢形城以外の城跡は黒歴史としたいような寄居町の姿勢が惜しまれる。 |
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かつてのい壮大な水城は市街地に埋没 羽生城 はにゅうじょう(羽生市)
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羽尾城
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東方城
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比企氏館
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比企能員館
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人見館
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湿地帯に築かれたボケの花 深谷城 ふかやじょう(深谷市)
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1456年、上杉房憲が古河公方の侵攻に備え、庁鼻和城に代わる本拠地として築城。唐沢川、福川などに囲まれた低湿地に築かれた面積約20haの平城で、その形状から木瓜(ぼけ)城とも呼ばれた。以後、1590年に豊臣秀吉の北条攻めで開城するまでの134年間、深谷上杉氏5代の居城であった。徳川家康の関東入部後は、長沢松平康直、家康の7男松千代、同6男忠輝、桜井松平忠重、酒井忠勝と徳川一族・譜代が城主を歴任したが、忠勝が川越城主に転出すると1634年に廃城となった。現状は深谷城址公園となり遺構はほとんど残っていないが、隣接する富士浅間神社境内の池と水路に深谷城外濠の名残をとどめている。 |
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福岡城
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平安末に起源を辿る中世武士の居館 別府城 べっぷじょう(熊谷市)
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平安時代末から安土桃山時代にかけて、十数代にわたる国人・別府氏の居館跡。別府氏は藤原氏もしくは武蔵七党の横山党の出自とされる成田氏の支流で、成田助高の二男行隆がこの地に住んで別府を称し、子の代に太郎能幸の東別府、二郎行助の西別府に分かれた。現在、東別府神社となっている場所は東別府家の居館跡で、東西南北とも約一町(100m余)の規模で周囲に幅約2~3mの横堀を廻らせ、内部に高さ約2mの土塁を築いた、中世武士館の典型的なスタイル。濠は現在も西・北・東に残っている。東別府家は能幸から11代目の長清まで続くが、1590年の秀吉による北条攻めの際に敗れて没落し、東別府城も廃城となった。 |
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上杉と北条の間で翻弄された本庄氏 本庄城 ほんじょうじょう(本庄氏)
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関東の覇権争奪の鍵を握った城 松山城 まつやまじょう(比企郡吉見町)
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吉見丘陵の先端、東南西の三方を市野川に囲まれた天然の要害に築かれた山城。15世紀半ば、扇谷上杉氏と古河公方の対立が激化する中、交通の要衝でもあるこの地の争奪戦の過程で城郭が形成されていったと推定される。城主も何度か代わり、戦国末期には北条氏に属した上田氏の居城となるが、小田原攻めで上杉・前田ら北国軍に攻められ落城。徳川家臣、桜井松平氏の居城となるが1601年に浜松へ転封、廃城となる。現在、国指定遺跡「比企城館跡群」の構成要素となって遺構をよくとどめている。
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松山陣屋
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真鳥山城 まとりやまじょう(さいたま市桜区)
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「城山公園」ではなくその隣にある城跡 三ツ木城 みつぎじょう(桶川市)
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御嶽城
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宮寺氏館
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毛呂氏館
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安戸城
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線路際にひっそり残る中世城郭 山口城 やまぐちじょう(所沢市)
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平安時代末から鎌倉・室町時代にかけて周辺を本拠とした山口氏の居城。北に椿峰丘陵、南に柳瀬川と湿地に囲まれ、西には鎌倉街道が通る要衝で、城跡は東西約400m、南北約200mの規模と推定される。まだ石垣はなく、土塁の上に設けた木柵・竹柵と幅が広く深い堀が防御手段だった。1590年、豊臣秀吉の小田原攻めで落城し、江戸時代には農地として拓かれ、堀跡は溜池に利用された。明治維新後、宅地化や道路・鉄道、さらには商業施設の建設で城跡は大きく損なわれたが、保存運動により、3基の土塁とそれを囲む堀などが残されている。
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山崎城 やまざきじょう(比企郡滑川町)
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山田城 やまだじょう(比企郡滑川町)
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用土城
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龍ヶ谷城
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領ヶ谷城 りょうがやじょう(さいたま市南区)
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江戸時代は徳川家の鷹狩御殿 蕨城 わらびじょう(蕨市)
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南北朝時代、足利氏の一族、渋川義行によって築城。1524年、北条氏綱の攻撃により落城するが、後に渋川氏は北条氏の傘下に入る。1567年、三舟山の戦いで当主・渋川義基が戦死して蕨渋川氏は断絶。一族郎党は四散し、蕨城は廃城となる。城跡は江戸時代初期、徳川家の鷹狩用の御殿(休憩所)として利用された。江戸時代の絵図面によると、幅約12mの囲堀と、幅約8mの土塁が巡らされ、堀の内側の面積は約12200㎡、南側には堀と土塁を巡らせた約21650㎡の外輪地、北側にも堀と土塁の構えが見られた。現在、本丸跡が蕨城址公園となっている。
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