城名

概要

場所

評価/more

芥川山城

 

芥川城

 

飯盛山城

 

荒木村重、出世と落日
池田城
いけだじょう(池田市)

1334年、豪族・池田教依が築城。南北朝・戦国時代を通じて、数回落城の憂き目に会いながらも、池田氏の支配が長く続いた。戦国末期、池田勝正は織田信長に従い、「摂津三守護」の一人として近畿平定戦に活躍するが、1570年、三好氏に付いた一族の池田知正や荒木村重に追放される。1573年、池田城の混乱を鎮めた村重は信長に摂津一国を任され、1575年に有岡城を築くまでの居城とした。しかし村重は1578年に謀反を起こし、池田城には信長の本陣が置かれた。有岡落城の翌1580年、池田城は信長の命令で廃城となった。現在は池田城跡公園として、模擬天守や大手門が設置されている。

茨木城

 


徳川の天守台に立つ"豊臣風"天守
大阪城
おおさかじょう(大阪市中央区)

1583年、近畿を掌握した羽柴(豊臣)秀吉が、かつて石山本願寺があった上町台地に築城。豊臣氏の本拠として黒田孝高が縄張りを担当し、絢爛豪華な五層の天守が上げられたが、1615年、大阪夏の陣で落城した。徳川氏は、豊臣期の城を埋め立てた上に城を再興。豊臣期より大きな天守を上げたが1665年に焼失後は明治維新まで再建されなかった。現在の天守は、1931年、大阪市民の寄付により再建された鉄筋コンクリート製。徳川期の天守台に、屏風絵に残る豊臣期のデザインを模して建てられ、1997年には国の有形文化財に指定されている。大手門・多門櫓・千貫櫓など重要文化財も多い。


御三家ながら警戒された紀州家への備え
岸和田城
きしわだじょう(岸和田市)

別名千亀利(ちきり)城。1334年、和田高家が、当時「岸」と呼ばれた地に城(岸和田古城)を築き、岸和田の地名の由来になる。16世紀初め、松浦氏の時代に、西500mの現在地に移された。1584年には、豊臣秀吉配下の中村一氏らが、3万の根来勢を6千の兵で退けている。根来討伐後は秀吉の叔父・小出秀政が城主となり、関ヶ原後は小出・松井松平両氏を経て、1640年には紀州徳川家への抑えとしてとして岡部宣勝が入り、以後岡部氏13代が明治維新まで続いた。5層の天守や多聞櫓など本丸の多くの建物は1827年に落雷で焼失。1954年に3層の天守が復興された。

真田丸
さなだまる

 

楠木正成、挙兵の拠点
下赤坂城
しもあかさかじょう(南河内郡千早赤阪村)

金剛山地から延びる標高186m、比高51mの丘陵地形を利用して築かれた中世山城。鎌倉時代末期、楠木正成の築城。1331年、鎌倉幕府倒幕が発覚して笠置に逃れた後醍醐天皇に呼応して正成も呼応し、一時は後醍醐の子・護良親王も合流して幕府軍を迎え撃つが落城し、正成は金剛山に撤退する。1332年に再起した正成はこの城を奪還し、再度攻め落とされるが、上赤坂城、さらには千早城に後退し籠城中に鎌倉幕府は滅亡する。南北朝期にも南朝の拠点となったが、1360年に落城し廃城となった。城郭の遺構は明確ではないが、千早赤阪村役場の上付近が主郭であったと言われている。

キリシタン大名高山右近の居城
高槻城
たかつきじょう(高槻市)

14世紀前半、入江春則が居城とした記録が残る。1573年、高山飛騨守・右近父子が城主和田惟長を討って城主となる。キリシタンの右近は、城内に教会を建てるなど布教に努めた。右近の明石移封後は豊臣・徳川氏の直轄となり、大阪夏の陣以降は、内藤・土岐・岡部など譜代大名が変遷するなか、土岐定義が近代城郭へ改修し、1649年以降は永井氏13代の居城として明治維新を迎えた。維新後、石垣などは鉄道敷設に転用され、宅地化も進んで城の面影はほとんどないが、城内・出丸・大手などの町名が残っている。城跡の一部は公園として整備されており、高麗門が大手町の本行寺に移設されている。

陵墓比定された河内畠山氏の居城
高屋城
たかやじょう(羽曳野市)

文献や絵図などではこの地域に古市城や誉田城の記載があるが、関連は不明。高屋城としての築城は、応仁の乱終結(1467年)後、畠山義就によると考えられる。安閑天皇陵とされている古墳を本丸として、その南に東西350m、南北200mの二の丸、さらに南に東西250m、南北250mの三の丸を配した連郭式平山城で、戦国前期は河内守護畠山氏の内紛に揺れ、畠山氏が弱体化した戦国後期には、阿波から近畿に進出した三好氏との間で争奪戦となる。1568年、上洛した織田信長は畠山昭高に妹を嫁がせるが、下克上に遭い自害。1575年、2度にわたる信長の侵攻で落城し、廃城となった。


ゲリラ戦で鎌倉武士を翻弄
千早城
ちはやじょう(南河内郡千早赤阪村)

1332年、楠木正成が金剛山中腹の標高約660m、南・北・西の三方が急峻な谷という要害の地に築城。前衛の下赤坂城、本城の上赤坂城に対する詰城の位置づけであった。前年に発生した「元弘の変」で鎌倉幕府に対して挙兵した正成は、幕府軍の攻撃で両赤坂城が陥落すると、千早城で籠城戦を行う。正成は数十倍の幕府軍に対し藁人形や大岩落しなど奇策を駆使したゲリラ戦を展開。京都で足利高氏らが挙兵し、六波羅探題を滅ぼすまでの約100日間を守り抜く。南北朝時代も南朝の拠点として楠氏が城主となるが、1392年には攻め落とされて廃城となった。

難波宮

 

若江城

 


 
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