城名

概要

場所

評価/more


大和大納言秀長・百万石の居城
郡山城
こおりやまじょう(大和郡山市)

1580年、織田信長から大和支配を任された筒井順慶が築城。その後、大和・紀伊・和泉3カ国で100万石を領した豊臣秀長が入って城の大拡張と城下町整備を進めた。秀長父子の後は、五奉行の一人・増田長盛が継ぐが関ヶ原の戦いで改易され、一旦廃城となる。大坂の陣後、戦功を評された水野勝成が6万石で封じられ、幕府直轄事業で城を復興。その後松平氏や本多氏等有力譜代が城主に名を連ね、1724年、柳沢吉保の子・吉里が15万石で封じられて以降は明治維新まで柳沢氏が続く。現在、追手門、追手向櫓、東隅櫓などが復元されている。


高所に次々と現れる高石垣群
高取城
たかとりじょう(高市郡高取町)

1332年、南朝に属した国人領主・越智八郎が築城。戦国期まで越智氏が支配するが、1580年、織田信長の命で廃城となる。その後筒井順慶による復興を経て、豊臣秀吉の弟・秀長の重臣・本多利久が入城、3層の大小天守や多くの櫓が立ち並ぶ、山城では例を見ない大規模近世城郭に作り変える。本多氏は江戸時代も高取城主として続くが1637年に断絶。1640年、旗本植村氏が加増を受けて2万5000石の大名となり、幕末まで続く。明治時代半ばまで天守や櫓が残り、古写真で往時を見ることができる。「日本三大山城」に数えられるなかで、比高が最も高い。

大仏殿を見下ろす近代城郭の先駆
多聞山城
たもんやまじょう(奈良市)

1560年、三好長慶の命を受けて大和に侵攻した松永久秀が、奈良の町を見下ろす佐保山に築城。城内に多聞天を祀ったことから多聞山城と呼ばれ、城名をとって後に「多聞櫓」と呼ばれるようになる長屋状の櫓や、天主の原型とも言われる4層の櫓を備えた近代城郭の先駆的存在だった。1567年、1km程離れた東大寺に陣を敷いた三好三人衆と戦いになり、大仏殿が炎上し大仏の首も落ちた。現在の大仏と大仏殿はこの後の再建になる。1573年、久秀は織田信長に降伏して多聞山城を明け渡し、3年後、信長の命を受けた大和守護・筒井順慶によって破却された。城址は奈良市立若草中学校になっている。

「元の木阿弥」も暮した筒井氏の城
筒井城
つついじょう(大和郡山市)

東西約500m、南北約400mの惣構を持つ筒井氏の平地式城館。発掘調査によると14世紀半ばには既に築かれており、東西に走る奈良街道と南北を貫く吉野街道が交わる要衝故に、戦国時代は幾度も攻城戦が行われ、筒井氏も衰退した。戦国末期、筒井順興・順昭父子が大和をほぼ統一するが、順昭は僅か28歳で死去、嫡子(後の順慶)が僅か2歳だったため、盲目の僧・木阿弥を順昭の影武者に仕立てたという逸話から「元の木阿弥」の故事成語が残る。1576年、大和国支配者として織田政権に組み込まれた順慶は大和郡山城に移り、筒井城は廃城となった。

長屋王邸

 

藤原宮

 

平城宮

 

 
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