城名

概要

場所

評価/more

北アルプスを正面に望む高原の城
青柳城

あおやぎじょう(東筑摩郡筑北村)

比高:麓から250m、城入口から-30m(入口より本丸の方が低い)

葛山に代わる上杉の拠点
旭山城

あさひやまじょう(長野市)

阿島陣屋

ドラマで重宝される復元中世城郭
荒砥城
あらとじょう(千曲市)

1524年、北信濃で勢力を張った村上氏の一族、山田氏の築城と伝わる。冠着山から千曲川へ向かって伸びる舌状台地の突端部にある連郭式山城で、荒砥小城、若宮入山城、証城などの付城が同じ尾根上に連なっている。日常は、尾根下の城野腰地区で暮らし、非常時に籠城する詰城であった。村上義清が武田信玄に敗れて越後に落ちると、信玄に降った屋代政国に与えられるが、武田滅亡後、政国の甥で養子の秀正は上杉氏に攻められ落城し、廃城となる。現在は城山史跡公園として、戦国期の城郭が再現されているが、石垣も含め忠実に再現されている訳ではない。

飯田城

上杉謙信、信濃進出の拠点
飯山城
いいやまじょう(飯山市)

千曲川の西岸にある独立丘陵を削りならして構築した平山城。南北に梯郭式に本丸・二の丸・三の丸が連なり、その西側は帯郭・西郭・外郭に区画され、四周に濠が巡らされていた。元々は信濃源氏・泉氏の居城だったが、戦国時代には上杉氏の属城となった。1564年、上杉謙信は武田信玄の侵攻に備えて自ら飯山城の改修を行い、上杉氏の信濃出陣の拠点となった。上杉氏の会津移封後は関・皆川・堀・佐久間・桜井松平・永井・青山と領主が移り、1717年以降は本多氏10代が明治維新まで続く。石垣・土塁が遺るほか、南中門跡に民家に残っていた城門が移築されている。

信濃守護小笠原氏の居館
井川城
いがわじょう(松本市)

伊豆木陣屋

松本市を一望する犬甘氏の城
犬甘城

いぬかいじょう(松本市)


徳川軍を二度撃退した真田昌幸
上田城
うえだじょう(上田市)

別名尼ヶ淵城。南側を千曲川が流れる要害の地に1583年、真田昌幸が築城。1585年と1600年の2度にわたり德川軍を撃退した上田合戦で名を知られる。真田氏の松代移封後は、仙石氏三代、その後は松平氏の居城として明治維新を迎える。現在の縄張りは仙石忠政の時代に新たに築かれたもので、現存する寛永期の隅櫓3棟は、西櫓は建築当初のままだが、北櫓(写真右)・南櫓(写真左)は明治維新後民間に払い下げられ移築されていたものを、市民の寄付で買い戻し復元した。本丸東虎口櫓門(写真中央)と袖塀は1990年代の復元。

諏訪氏一族居館の詰めの山城
上原城

うえはらじょう(茅野市)

大島城

布引観音の背後にあった楽厳寺氏の城
楽巌寺城

がくがんじじょう(小諸市)

標高:765m
比高:0m(布引観音の下からだと220m)

北信濃における武田の拠点
替佐城

かえさじょう(中野市)

武田の大軍に衆寡敵せず落城
葛山城

かつらやまじょう(長野市)

比高:100m

信玄を二度撃退した村上義清の本拠
葛尾城
かつらおじょう(埴科郡坂城町)

戦国時代、武田信玄に二度までも苦杯をなめさせた村上義清の居城。村上源氏の流れを汲む村上義清は、甲斐国を統一し、信濃に侵攻した武田信玄に対抗し、1548年の上田原の戦いで板垣信方と甘利虎泰、1550年の砥石崩れで横田高松と、武田の重臣を討ち取ったが、翌年、信玄配下の真田幸隆に砥石城を落とされると劣勢となり、1553年、上杉謙信を頼って落ち延びる。葛尾城はその後も森忠政などにより改修されて使われ続けるが関ヶ原の戦いで廃城となる。因みに坂城の町をぐるっと回る林道で城跡近くまでクルマで行けるが、インディ・ジョーンズ並に片側は断崖の未舗装路が延々と続く。
比高:20m(麓からは350m)

諏訪湖を一望する諏訪頼重悲劇の地
桑原城

くわばらじょう


島崎藤村が讃えた千曲の川城
小諸城
こもろじょう(小諸市)

別名白鶴城、酔月城。城下町より低地に位置する珍しい城。源平時代、小室光兼が館を築く。1554年、武田信玄が馬場信房、山本勘助に城郭を整備させ、武田滅亡後に入城した仙石秀久が大規模な改修と城下町整備を施す。元禄以降牧野氏10代の居城として明治維新を迎え、旧小諸士族によって「懐古園」と名付けられた城跡は、造園家本多静六の手による近代的な公園へと生まれ変わった。園内には三の門、天守台、石垣などが現存するほか、近年大手門が復元されている。

座光寺北城

座光寺南城

真田氏のかつての居館
真田氏館
さなだしやかた(上田市)

真田氏が上田城を築城する以前の居館跡で、地元では「お屋敷」と呼ばれている。上田城を築城して移るまでの真田氏は、真田本城を詰の城として、日常はここで起居していたと推定される。中世豪族の居館の形態がほぼ完全な形で保存されており、館の四方を囲む土塁の全長は約520m、外周には堀が巡らされていたと推定されている。南側に大手門、北側に搦手門、南東角に東門があり、土塁の内側は、東側(上段)、西側(下段)の2曲輪に分かれ、西曲輪の北西には厩とされる10m四方程に区画された土塁がある。現在は「御屋敷公園」として整備されている。

上田築城までの真田氏の本拠
真田本城
さなだほんじょう(上田市)

真田山城・松尾新城・住連寺城・十林寺の城山などとも呼ばれる山城。真田の郷のほぼ中心部の小高い山にあり、城跡には土塁や郭の遺構がよく残る。真田盆地を挟んだ西側にある砥石城と共に、麓の真田氏館に対する詰城としての機能を持っていたと思われる。天白城・尾引城・洗馬城・根小屋城等旧真田町の他の山城と比べて規模が大きく防備も複雑で、上田盆地への眺望が開け、小県と北上州を結ぶ上州道を抑える立地や、遠方の沢から水を引いていることなどから、1583年に上田城を築くまでの真田氏の本城であったと考えられている。

信州に花開いた鎌倉文化の拠点
塩田城
しおだじょう(上田市)

鎌倉幕府で連署まで務め上げた北条氏の重鎮・義政が1277年、突如連署を辞してこの地に移り、三代約60年に渡り塩田北条氏として栄える。義政は1282年に世を去るが、子の国時、孫の俊時は1333年、新田義貞らの鎌倉攻撃に際して、鎌倉にはせ参じて共に滅亡する。室町期には埴科郡の豪族村上氏の領地で、重臣福沢氏に統治させるが、1553年、武田信玄に攻め落とされる。信玄、勝頼の時代を通して、武田氏の東品濃における拠点となったが、武田氏滅亡後、この地の支配者となった真田氏は上田城を築いて移り、塩田城は廃城となった。

鈴岡城

諏訪盆地を支配した一族の本拠
諏訪氏館

すわしやかた


湖から離れてしまった「諏訪の浮城」
高島城
たかしまじょう(諏訪市)

1590年、徳川家康に従って関東に移された諏訪頼忠に代わり、美濃斎藤家の旧臣・日根野弘就の子・高吉がこの地に2万7000石で封じられる。高吉が1598年に築いた高島城は、諏訪湖に付き出した水城で、「諏訪の浮城」と呼ばれたが、江戸期の干拓で現在は湖畔から数百m離れてしまっている。関ヶ原の戦い後、かつての領主・諏訪頼忠の子・頼水が藩主として復帰し、幕末まで諏訪氏10代の居城として栄えた。明治維新で廃城となり天守は1875年に破却、城跡は高島公園として開放された。1970年にはRC造りの天守と櫓、塀、門などが復興されている。


武田の意地を貫いた信玄の五男
高遠城
たかとおじょう(伊那市)

別名兜山城。もともと諏訪一族・高遠氏の居城だったが、1547年、武田信玄が攻略後、山本勘助に大規模改修させたと伝わる。1582年2月、織田信長の武田攻めで信忠軍5万が信濃に侵攻、多くの武田一門が降伏・逃亡するなか、勝頼の弟・仁科盛信が守る高遠城のみが徹底抗戦の末玉砕する。その後保科氏、鳥居氏と城主が変わり、元禄年間以降は内藤氏8代が明治維新まで続く。今日では、明治維新後、御殿や櫓が破却された後に植えられた桜の名所として名高い。

市街地に見事に残る中世城館
高梨氏館

たかなししやかた(中野市)

別名:中野小館

武田・徳川に仕えた勇将・依田信蕃
田口城
たぐちじょう(佐久市)

豪族・田口氏によって築かれたと伝わるが、築城年代などは不明。1540年代、田口氏は佐久地方へ侵攻した武田信玄に一旦降るも、上田原の戦いでの武田軍敗退に乗じて城奪還を試みて失敗、滅亡する。1582年の武田氏滅亡後、徳川家康に仕えた依田信蕃が佐久平定の功で入城するが、翌年の岩屋城攻めで弟・信幸とともに戦死する。家康は1年に満たない主従だった信蕃を高く評価し、息子に「松平」の姓と「康」の字を与え、小諸城6万石に封じた。城跡は、龍岡城五稜郭を眼下に眺められる展望台としてよく知られるようになったが、土塁や掘割など中世城郭としての遺構も見どころがある。


信州にあった「もう一つ」の五稜郭
龍岡城
たつおかじょう(佐久市)

十八松平の一つ・大給松平家は、立藩以来10代にわたり、三河国の大給、奥殿に居城を構えていたが、1万6000石の領地のほとんどは信濃国にあった。1863年、幕府から信濃への陣屋移転を認められた10代当主・松平乗謨(のりかた)は、若くして幕府重職を歴任した識見から、陣屋を西洋の技術を取り入れた稜堡式城郭とすることを決意。1867年に龍岡城(田野口陣屋)は竣工するが、堀の一部は未完成のまま明治維新を迎える。同じ構造の函館五稜郭と比べると、面積が約1/4の大きさで、1872年に御殿は取り壊されるが、堀と石垣、大台所が現存する。

知久平城

武田信玄、村上義清に再びの苦杯
砥石城
といしじょう(上田市)

別名戸石城。東麓の真田郷に興った真田氏が詰城として築いたと思われる山城。桝形城・本城・砥石城の3郭が尾根筋に繋がった複合城郭の総称で、16世紀中頃には、西の埴科郡を本拠地とする村上義清の上田平侵攻の拠点となっていた。1548年の上田原の戦いで義清に大敗した武田信玄は、1550年、村上氏の重要拠点であった砥石城に攻め寄せるが落とせず、退却中を逆襲され、横田高松ら1000人余を失って敗走する(砥石崩れ)。翌年、城は真田幸綱の調略で呆気無く落とされ、2年後には本拠・葛尾城も失った義清は長尾景虎(上杉謙信)を頼り、やがて信玄と謙信の川中島の戦いに繋がる。

信濃守護小笠原氏の詰めの山城
林城

はやしじょう(松本市)

築城の名手馬場信房による武田流縄張
牧之島城

まきのしまじょう(長野市)

松岡城

松尾城


川中島に打ち込まれた武田の楔
松代城
まつしろじょう(長野市)

別名海津城。1560年、武田信玄が対上杉の拠点として築城し、春日虎綱(高坂昌信)を守将とする。翌年の第4次川中島合戦では、武田軍は山本勘助の立案した啄木鳥の計に則りこの城から二手に分かれて出撃し、上杉軍と激戦を繰り広げたと伝わる。武田氏滅亡後は森長可、関ヶ原の戦い後は長可の末弟忠政、以後松平忠輝、同忠昌、酒井忠勝と城主が変わり、1622年に真田信之が封じられて以降は松代藩真田氏10万石の居城として幕末まで続く。1995年より環境整備工事が行われ、櫓門、木橋、石垣、土塁、堀などが復元整備されている。


池に映える国宝の連結天守
松本城
まつもとじょう(松本市)

現存12天守の一つ。国宝。旧名深志城、別名烏城。戦国時代、信濃守護小笠原氏の支城として築かれ、その後武田氏の信濃中部支配の拠点となる。1590年に入った石川数正と子の康長が城郭や城下町を整備する。五層六階の天守は1594年頃に建てられたと推定され、その後の改修により大天守・乾小天守・辰巳附櫓・月見櫓から成る複合天守となった。明治維新で解体の危機に見舞われるが市民有志に買い戻されて破却を免れ、1950年代には解体修理が行われた。現在、埋め立てられて民有地となっている外堀の西及び南部分の復元が進められている。

和田城

 
 
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