城名

概要

場所

評価/more


藤堂高虎が築いた一揆対策の拠点
赤木城
あかぎじょう(熊野市)

1588年、後に築城の名手と讃えられる藤堂高虎が築城。当時高虎は紀伊・大和・和泉120万石の太守に任じられた豊臣秀長の重臣であり、新領地・紀伊の検地に抗って生起した天正の北山一揆に対処するため比高40m、の平山城を築いた。時代的には、地形に沿って重層的に廓が連なる戦国城郭と、石垣で廓や虎口を構成する近世城郭の過渡期にあたり、高虎の手による一連の城郭群の中でも最初期の作品になる。築城史におけるポジションから学術経験者の知名度は高かったが、一般的に知られるようになつたのは「天空の城ブーム」が起こった2010年代以降のこと。観光地としては熊野三山が近い。


幻の天守台に載る昭和の模擬天守
伊賀上野城
いがうえのじょう(伊賀市)

1585年、大和郡山から移った筒井定次が、伊賀国守護・仁木氏の居館跡に築城。3層の天守と城下町を整備したが1608年に改易される。代わって入った藤堂高虎は大坂の豊臣方に備えて本丸を西に移し、高さ約30mという全国屈指の石垣と5層の天守を設けるが、天守は完成直前に台風で倒壊し、豊臣氏が滅んだため再建はされなかった。一国一城令でも伊賀国の城として認知され、幕末まで藤堂氏の支城として続く。現在残る連立天守は、昭和初期に地元出身の代議士・川崎克が私費を投じて構築。本来5層の天守台に3層天守を建てたため、アンバランスな面もあるが、伊賀のランドマークとなっている。

間違って天守を壊された、とか・・・
亀山城
かめやまじょう(亀山市)

1265年、関実忠が築城して以降、関氏16代の居城。1573年に関盛信が織田信長に追放され、岡本良勝(宗憲)が入り天守を設けるが、関が原の戦いで西軍に参加して自害。関が原後は伊勢亀山藩の居城として、5万石前後の譜代大名が領主に名を連ねるが、18世紀の半ば以降は、石川氏6万石11代が明治維新まで続く。江戸時代初期、三宅氏が城主の時、丹波亀山城の天守を破却するよう命じられた堀尾忠晴が、誤ってこちらの天守を取り壊したという話があるが真偽は不明。多聞櫓は三重県で唯一残る城郭建築。黒い板壁から、本来の白漆喰壁に戻された。二の丸帯郭なども復元されている。

徳川四天王・本多忠勝の城
桑名城
くわなじょう(桑名市)

1591年、桑名の地を与えられた一柳氏が近隣の神戸城から天守を移築して築城。関ヶ原の戦いの後、徳川四天王の一人本多忠勝が、上総大多喜から10万石で封じられると、4層6階の天守と51基の櫓を含む大城郭と城下町が整備される(旧来の天守も神戸櫓として存続)。本多氏の姫路転封後も、久松松平、奥平松平等の有力親藩が10万石以上の家格で続く。幕末、京都所司代となった松平定敬は、実兄の会津藩主松平容保とともに京都の治安維持に務めた後、江戸から箱館まで転戦。藩主不在の桑名城は無血開城した。写真は江戸時代の蟠龍櫓を模して建てられた水門統合管理所。


南北朝から戦国まで騒乱の舞台
田丸城
たまるじょう(度会郡玉城町)

南北朝時代の1336年、南朝方の中心人物である北畠親房が築城。南朝の拠点・吉野と伊勢神宮の外港・大湊を結ぶ重要路線を扼し、両朝による攻防の舞台となった。戦国末期、伊勢国司・北畠具教は織田信長に屈し、信長の次男信雄を養子とする。信雄は田丸城を、3層の天守を備えた本丸・二の丸・北の丸などを備えた近世城郭に大改造。翌年には、信長・信雄父子が北畠一族を滅ぼした「三瀬の変」の舞台になった。江戸時代には、御三家・紀州徳川家の領地となり、紀州藩家老の久野家が代々城代を務めた。現在も天守台や虎口造りの石垣・堀等の遺構が残る。


藤堂藩32万石の居城
津城
つじょう(津市)

三重県の県庁所在地・津は、古来安濃津(あのつ)と呼ばれ、戦国時代は長野工藤氏の領地となっていた。織田信長は伊勢攻めで長野氏を降すと同母弟・信包を養子として送り込み、信包は1580年、5層の天守と城下町を整備する。浅井長政滅亡後、信包は母・土田御前、妹・お市、茶々・初・江の3人の姪を引き取っている。富田氏2代の統治を経て、1608年、築城の名手・藤堂高虎が大坂方への備えとして封じられると、石垣や櫓を増設し、伊勢街道を引き込むなど城下町を拡張し、明治維新まで津藩藤堂家12代の居城となった。城跡は公園となり、丑寅櫓が復元されている。

長島城

 


名将・蒲生氏郷が拓いた商都・松阪
松坂城
まつさかじょう(松阪市)

1588年、蒲生氏郷が築いた平山城。織田信長の娘婿でもあった氏郷は、1584年、羽柴秀吉に認められて出身地の近江日野6万石から伊勢松ヶ島12万石に加増移封される。松ヶ島は発展の余地に乏しいと判断した氏郷は、約3km南の松坂に城を構え、松ヶ島の商人を強制移住させるとともに、故郷の日野から近江商人を招き、商都松坂の基礎を築く。1590年、氏郷が会津90万石に移封されると、代わって服部一忠、次いで古田重勝が城主となる。江戸時代には徳川御三家・紀州家の領地となり、幕末まで18万石を領する城代が置かれた。氏郷の築いた天守は1644年に台風で倒壊したと伝わる。

 
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