城名

概要

場所

評価/more

秀吉が築いた洛中・洛外の境界
御土居
おどい(京都市)

1591年、全国平定を成し遂げた豊臣秀吉が、洛中外の境界設定、外敵からの防衛、水害防止などの目的で築いた土塁とその外側の堀の総称で、東は鴨川、西は紙屋川、北は鷹ヶ峰、南は九条まで南北に細長い全長は22.5kmに及ぶ。要所に「京七口」と呼ばれる洛外への出入口が設けられたが、江戸時代には道路の分断箇所を中心に多くの出入口が追加されている。明治維新後も存続したが、大正期以降市街地の拡張により多くが取り壊されたため、1930年に北西部を中心に9カ所が史跡に指定された。最大の遺構は北野天満宮境内にあって紙屋川の渓谷美を演出し、境内の水を抜くために御土居で唯一設けられた暗渠(悪水抜き)も残る。

閑院跡

 

旧二条城

 

指月伏見城
しげつふしみじょう

 

斯波氏武衛陣・足利義輝邸跡

 

聚楽第
じゅらくだい/じゅらくてい

 

細川ガラシャが嫁いだ城
勝龍寺城
しょうりゅうじじょう(長岡京市)

1339年、足利尊氏の命で細川頼春が築城。応仁の乱では西軍に与した畠山義就の拠点となった。1571年、織田信長からこの地を与えられた細川藤孝が二重堀と土塁を備えた本格的な城に改修した。1578年には、明智光秀の娘・玉(後のガラシャ)が細川忠興に嫁ぎ、この城で2年間を過ごす。本能寺の変後、山崎の戦いで敗れた光秀はこの城へ入り、さらに居城坂本へ退却する途中で落ち武者狩りに殺された。一旦廃城となり、1633年に永井直清が入るが、16年後に高槻城に移り再度廃城となった。現在、本丸と西に隣接する沼田丸跡が、勝龍寺城公園として整備されている。

芸が身を助けた風流武将
田辺城
たなべじょう(舞鶴市)

別名舞鶴城(地名の由来にもなった)。1580年、織田信長から丹後を与えられた細川藤孝(幽斎)・忠興父子が築城。1600年、関ヶ原の戦いでは東軍に与し、忠興が主力を率いて徳川家康に従軍したため、幽斎は僅か500名で籠城。1万5000の西軍を相手に50余日を戦った後、古今和歌集の秘伝継承者の討死を憂慮した後陽成天皇の勅命により西軍は包囲を解き撤退した。関ヶ原の功で細川氏は豊前小倉に加増転封され、京極氏が入るが、1668年以降は牧野氏10代が明治維新まで続く。現在は本丸付近が舞鶴公園となって、隅櫓や城門が復元されている。

豊臣秀吉妙顕寺城

 


江戸幕府の誕生と終焉を見届ける
二条城
にじょうじょう(京都市中京区)

1603年、徳川家康が京都の宿館として建てた平城。同年、家康の征夷大将軍拝賀の礼、1611年の徳川家康と豊臣秀頼の会見、1626年の後水尾天皇の行幸、幕末の1867年には徳川慶喜による大政奉還など、数多い歴史の舞台となってきた。天守は、伏見城から移築された寛永天守が1750年に落雷焼失して以降、再建されず。明治期に桂御所から移築された本丸御殿は重要文化財、創建時からの二之丸御殿は国宝。他にも東大手門、北大手門、東南隅櫓、西南隅櫓など重要文化財の現存建築も多く、「古都京都の文化財」として、他の16社寺とともにユネスコ世界文化遺産に選定されている。

二条殿跡

 

東三条院跡

 


住民に慕われた明智光秀
福知山城
ふくちやまじょう(福知山市)

1579年、丹波を平定した明智光秀が城と城下町を築く。南から北東に突き出した、標高約40m、幅約100mの横山丘陵先端部を利用した平山城で、築城後は明智秀満が城代を務める。本能寺の変で明智氏が滅ぶと豊臣家臣が城主を歴任し、関ヶ原の戦い後、6万石で封じられた有馬豊氏が近代城郭と城下町を整備する。その後、岡部・稲葉・深溝松平氏を経て1669年以降は朽木氏13代3万2000石が幕末まで続いた。建物は明治初めに破却され、本丸石垣と銅門番所だけが残されたが、1986年に3層4階の大天守と2層2階の小天守がコンクリートで再建された。

風格さえ感じさせる究極のレプリカ
伏見桃山城
ふしみももやまじょう(京都市伏見区)

1592年、豊臣秀吉の隠居城として築城される(指月城)が96年の慶長地震で倒壊。翌年、約1km離れた位置に再建される(木幡城)。関ヶ原の戦いでは徳川方の守将・鳥居元忠ら2000に対し西軍4万の攻撃で落城。翌年再建されるが1619年に廃城となった。本丸を含む跡地の大半は明治天皇陵となっていて立ち入ることはできない。現在の建物は、1964年、近鉄系の遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」のシンボルとして、古絵図を参考に豊臣時代の伏見城を模して建てた展望施設。2003年の閉園後、京都市に無償譲渡されたが、耐震性不足で立ち入りはできず、外観のみ見学できる。

平安宮

 

槇島城

 

山科本願寺

 

三川の合流地点に造られた城
淀城
よどじょう(京都市伏見区)

伏見城廃城に伴い、1623年、2代将軍徳川秀忠が、松平定綱に命じて桂川・宇治川・木津川の合流する場所に築城。1626年には、秀忠・家光父子が上洛の際に宿所としている。その後永井・石川・戸田松平・大給松平の諸譜代大名が城主に名を連ね、1723年以降は稲葉氏10万2000石の居城として明治維新を迎えた。城郭の大部分は住宅と鉄道敷設で消えてしまったが、本丸の石垣と南側・西側の堀が残り、淀城跡公園となっている。ちなみに豊臣秀吉の側室「淀殿」ゆかりの淀城(淀古城)は、江戸時代の淀城址から北方約500mの所にあった。

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