城名

概要

場所

評価/more


畠山重忠を討ち取った弓の名手
愛甲三郎館
あいこうさぶろうやかた

青砥藤綱邸跡

足利公方邸跡

伊達政宗と覇を競った会津の名族の原点
芦名城
あしなじょう(横須賀市)

厚木陣屋(烏山藩厚木役所)
あつぎじんや(厚木市)

半島の入口を抑える三浦一族の要害
鐙摺城
あぶずりじょう(葉山町)

 

「北条」に二度滅ぼされた三浦氏
新井城
あらいじょう(三浦市)

小網代湾と油壺湾に挟まれ、相模湾に突出した小半島に設けられた三浦氏の居城。三浦氏は1247年の宝治合戦で北条氏に滅ぼされ、一族の佐原盛時が継承を許されるが、領地は三浦半島南部に限定された。新井城はその居館として築かれたと思われる。南北朝時代には相模守護を務めるまでに勢力を回復するが、1513年、小田原を奪って勢いに乗る伊勢盛時(北条早雲)の侵攻を受ける。扇谷上杉氏から養子に入った当主・三浦義同(道寸)と子の義意は天然の要害である新井城で籠城戦を繰り広げるが3年後に落城。三浦氏は、血縁ではないものの同じ「北条」氏に二度滅ぼされることとなった。城跡は東京大学の三崎臨海実験所や油壺マリンパークになっている。


本格的な城郭だった「一夜城」
石垣山城
いしがきやまじょう(小田原市)

1590年、豊臣秀吉が北条氏を攻めるにあたり、その本営として小田原城の西南約3kmの笠懸山(松山)に築いた山城。構築が進んだ段階で周囲の樹木を伐採し、一夜で出現したように見せかけて籠城する北条氏の戦意を削いだという伝承から「一夜城」の呼び名が残るが、実際には近江穴太衆による野面積み石垣を多用した本格的な陣城で、築城には約80日を要している。関東初の総石垣造りの城であることから、後に山自体も「石垣山」と呼ばれるようになった。秀吉はここに千利休や淀殿を呼び 寄せて長期戦に備え、天皇の勅使も迎えている。江戸時代は小田原藩の管理下に置かれ、標高257mの本丸からは近世小田原城の天主や市内が一望でき、度重なる大震災にも耐えて曲輪や石垣の一部は今日も残っている。

頼家への忠誠を尽くした梶原景時の館
一ノ宮館
いちのみややかた(高座郡寒川町)

上杉朝宗・氏憲邸跡

宇津宮辻子幕府跡

房総里見氏と対峙する北条氏の最前線
浦賀城
うらがじょう(横須賀市)

自然を巧みに利用した中世城館
榎下城

えのしたじょう(横浜市緑区)

1400年頃、宅間上杉氏の上杉憲清が築城。舌状台地の先端部に位置し、地形を利用して本丸を一段高いところに設け、土塁と空堀を巡らせている。大手口の土塁は侵入者を阻む食い違い型虎口を形成し、東側の堀は谷を利用した箱堀となっている。鎌倉公方と関東管領が争った1438年の永享の乱で、憲清の子・憲直と孫・憲家は鎌倉公方持氏方に付くが敗れ、金沢称名寺で自害する。その後の榎下城の城主については不明だが、この地域が小田原北条氏の支配下に入った戦国時代にも、小机城の支城として使われたと思われる。現在、城跡は慶長年間(1600年前後)に建てられた旧城寺(舊城寺)の境内で、本堂の裏手が本丸跡にあたる

大江広元邸跡

 

扇谷上杉管領邸跡

 

大蔵幕府跡

 

太田道灌邸跡

 

源頼朝を軽侮して滅んだ大庭景親
大庭城
おおばじょう(藤沢市)

平安時代末期、桓武平氏鎌倉氏流の大庭景親、もしくはその父・景宗の築城と言われる。1180年、源頼朝が平家に対して挙兵すると、景親は平家方に加わり、石橋山の戦いで頼朝方を撃破するが、勢力を立て直した頼朝の大軍に降伏、処刑され没落する。15世紀後半、扇谷上杉定正の家宰・太田道灌が本格的な築城を行ったと伝わる。1512年、上杉朝良の時代に伊勢盛時(北条早雲)に攻略され、以後小田原北条氏の支配下に置かれたが、豊臣秀吉の小田原攻めで廃城になった。現在は大庭城址公園となっており、戦国期の土塁や空堀などの遺構が残る。

岡崎義実館を拡張した戦国期岡崎城
岡崎城(後期岡崎城)
おかざきじょう(伊勢原市)

1494年、上杉氏出身で三浦氏を継いだ三浦義同(道寸)は、三浦半島南部の新井城に養父時高を討って息子義意を入れ、自らは前期岡崎城から北方にあるを拡張して居城とした。この岡崎城は、平安末期に岡崎義実が築いたものから北東約700mの無量寺付近に主郭があったとみられ、寺の背後(西方)には堀や郭跡が残る(私有地のため立入禁止)。道寸がこの地に城を構えたのは、同時期に伊豆から小田原に進出して西相模を制圧した伊勢宗瑞(北条早雲)に備えるためで、さらに東相模への進出を図る宗瑞は1596年から岡崎城を攻め始める。湿地帯と断崖に護られた要害・岡崎城は17年に渡って宗瑞の攻撃を防ぐが1512年についに落城。以後岡崎城は記録に表れず廃城時期も不明。4年後には三浦一族も新井城で宗瑞に滅ぼされる。

頼朝挙兵の功臣・岡崎義実の居館
岡崎南部方形囲郭群(前期岡崎城)
おかざきなんぶほうけいいかくぐん(平塚市)

平安末期、三浦氏一門の総帥・三浦大介義明の末弟・悪四郎義実が岡崎の地を領して築城。場所は現在の岡崎神社周辺と推定されている。義実は現在の小田原市周辺を地盤とする中村宗平の娘婿となり、義兄弟の土肥実平、土屋宗遠らと共に1180年の源頼朝の旗揚げから従い功績を挙げ、三浦の四棟梁(三浦・和田・佐原・岡崎)に数えられる重臣となった。一方で、嫡男佐奈田義忠は石橋山の戦いで頼朝を守って討ち死にし、自身も1193年に隠居、1200年に89歳で没した後、次男土屋義清、嫡孫実忠らは1213年の和田合戦で同族和田氏に味方し、岡崎一族は壊滅する。その後の城の状況は不明だが、岡崎神社南の岡崎公民館には岡崎義実像が建てられ、北約800mに岡崎義実の墓が残る。

幕末の騒乱で焼き討ちされた譜代陣屋
荻野山中陣屋

おぎのやまなかじんや(厚木市)

 

16歳の北条氏康、初陣を飾る
小沢城
おざわじょう(川崎市多摩区)

平安時代、北条時政の娘婿(源頼朝の相婿)である稲毛重成が築城。後に重成は子の小沢重政に城を譲り東南4kmの枡形城へ移るが、父子は畠山重忠の乱に乗じた北条氏により討たれる。北に多摩川の急峻な崖を臨む要害、鎌倉道が通る要衝の地に位置するため、南北朝時代の1351年には足利直義方の小沢城が足利義詮の武将高麗経澄に攻め落とされ、戦国時代の1530年には小沢城から出陣した弱冠16歳の北条氏康が初陣で扇谷上杉朝興を破るなど、歴史に残る戦いが何度も繰り返されている。戦国末期には廃城となるが、現在も空堀、土塁、櫓、館、馬場などの遺構が残る。江戸時代には初午行事や富士山信仰の場としても親しまれた。


謙信も信玄も落とせなかった堅城
小田原城
おだわらじょう(小田原市)

1417年、大森頼春が築城。1495年頃、伊豆韮山を根拠地とする伊勢盛時(北条早雲)が大森藤頼より奪取して以降、約100年続く後北条氏5代の居城となった。最盛期には城下町全体が約9kmにも及ぶ総構で囲まれ、3代氏康の時代には、上杉謙信、武田信玄による包囲を撃退したが、1590年、5代氏直の時、22万の豊臣秀吉軍に包囲され開城。その後徳川家康の重臣大久保氏の居城となり、山側にあった本丸が現在地に移される。維新後破却された天守は1960年に鉄筋コンクリート造で復興され、その後、常盤木門、銅門、馬出門も復元されている。また、北条氏時代の主郭を構成した八幡山古郭や、幅30m、深さ15mにも及ぶ三の丸大堀切、総構の虎口とされる早川口などの戦国期遺構にも見所が多い。 時代:室町~幕末 種別:平山城
築城年:1417 廃城年:1871
アクセス(A便利-E不便):A
難易度(A楽勝-E危険):A
知名度(A有名-E無名):A
残存度(A良好-E無惨):B
総合満足度:A
   
   
 

「当方滅亡!」太田道灌終焉の地
糟屋上杉館
かすやうえすぎやかた(伊勢原市)

扇谷上杉定正の居館。足利尊氏の母の実家である上杉氏は、室町幕府が成立すると関東管領の重職に任じられるがやがて分裂し、管領職を独占する山内上杉家と扇谷上杉家の紛争が激化する。15世紀後半に扇谷上杉家を支えた家宰・太田道灌は、1486年7月26日、その勢力伸長を恐れた主君・上杉定正にこの館に呼び出されて騙し討ちに遭い、「当方滅亡(上杉家も滅びるぞ)」と叫んで絶命したとされる。道灌最後の地である上杉館の位置は長く不明とされてきたが、発掘調査等の結果、現在、産業能率大学が立地する大地の東側付近と推定されている。

埋め立てられた街中に残る海上防塁の石垣
神奈川台場
かながわだいば(横浜市神奈川区)

障子堀も残る本格的な山城
河村城

かわむらじょう(足柄上郡山北町)

平安時代末期、藤原秀郷の後裔、波多野遠義の次男河村秀高の築城と伝わる。鎌倉時代末期、河村氏は新田義貞の鎌倉攻めに一族の波多野氏や松田氏と共に加わり、その後の南北朝時代にも南朝方に与して北朝方と戦うが、1353年の南原の戦いに敗れて没落する。その後は関東管領畠山国清、上杉憲実を経て戦国時代には相模西部を領した大森氏、北条氏の持城となり、豊臣秀吉の小田原攻略で廃城となった。城郭構造は南を酒匂川、北を旧皆瀬川に挟まれた標高225m、比高130mの独立丘陵の尾根を深い堀切で仕切った連郭式山城。甲斐・駿河国境と小田原を直結する戦略上の要地に位置することから、北条時代に対武田氏拠点として拡張・強化が行われており、随所に北条氏系城郭の特徴である障子堀が残っている。
 

89歳の老将、一族を守って討死
衣笠城
きぬがさじょう(横須賀市)

桓武平氏良文流に連なる平為通が前九年の戦功により相模国三浦庄を与えられ、三浦氏の祖となり、この地に城郭を構える。1180年、源頼朝の挙兵に呼応した三浦一族は、平家方に与した畠山重忠軍の猛攻に耐え切れず安房国に脱出。先代当主で当年89歳の三浦義明は、子・義澄や孫・義村ら一族を逃すと、一人残って討ち死にする。鎌倉幕府が成立すると、有力御家人となった三浦一族の居城として再興され、宿敵北条氏に対抗して大規模に改造されるが、1247年、三浦一族は鎌倉で北条氏によって滅ぼされ(宝治合戦)、衣笠城も廃城となる。

小沢城
こさわじょう(愛川町)


城跡の一部は高速道路に
小机城
こづくえじょう(横浜市港北区)

正確な築城の記録はないが、1477年、太田道灌に攻められ居城・石神井城を失った豊島泰経が、翌年、この城で再起を図るも再び道灌に攻められ落城したと伝わる。ただ、泰経の動向から近年ではこの説は否定されている。戦国時代、小田原の北条氏綱は相模から武蔵に進出を図り、小机城を修復して重臣笠原信為を城主とする。信為率いる小机衆は北条氏の関東進出に貢献するが、豊臣秀吉の小田原攻めで廃城となる。現在、第三京浜が南北に貫く西側を除き、本丸・二の丸・空堀・土塁などの遺構がよく残り、小机城址市民の森となっている

高麗山城

北条早雲軍を撃破した合戦の舞台
権現山城
ごんげんやまじょう(横浜市神奈川区)

豪傑・佐奈田義忠の居館跡
真田城
さなだじょう(平塚市)

佐奈田(真田)与一義忠は、三浦氏の一族・岡崎義実の嫡子で、父の居城・岡崎城の西方約2.5kmにある真田の地を領したことから、佐奈田義忠を名乗る。1180年、源頼朝の挙兵に従った義忠は、石橋山の戦いで頼朝から、敵方の主将である大庭景親・俣野景久兄弟を討つように命じられ、乱戦の中、目指す俣野景久を組み伏せるが、痰が絡んで味方を呼ぶことができず、俣野の郎党、長尾新五・新六兄弟に討ち取られた。享年25。この時の故事から佐奈田義忠は喘息・痰咳の神として崇められ、居城跡には16世紀に天徳寺が建立された。

源平・奥州合戦で名を馳せた三浦十郎義連の城
佐原城
さわらじょう(横須賀市)

獅子ヶ谷城

新横浜を見下ろす小高い丘城
篠原城
しのはらじょう(横浜市)

杉本城

田代城
たしろじょう(愛川町)

女子校になった北条氏最前線
玉縄城
たまなわじょう(鎌倉市)

相模・小田原の大森氏を降して伊豆から西相模に進出した伊勢盛時(北条早雲)が、三浦半島の三浦氏や、武蔵の扇谷上杉氏への備えとして、1513年、三浦半島の付け根の位置に築城。早雲の弟氏時、早雲嫡男氏綱の弟為昌、氏綱の娘婿で「地黄八幡」の旗で有名な綱成等、北条氏の重鎮が歴代城主を務める。1590年、豊臣秀吉の小田原攻めで開城すると徳川家康の懐刀・本多正信が入り、江戸時代には長沢松平氏の居城となるが1703年に廃城。1963年、清泉女学院中学・高校が移転し遺構は大きく損なわれたが、大手門址、太鼓櫓址などに痕跡が残る。

「友を食らう」と揶揄された男の館
田村館
たむらやかた(平塚市)

 

中世城郭の遺構を良好に残す
茅ヶ崎城
ちがさきじょう(横浜市都筑区)

江戸時代の記録によれば、平安末期の武将、多田太郎(行綱)が城主を務めたというが、発掘調査の結果、築城年代は14世紀末~15世紀前半と推定されている。当初は東西2つの郭だったが、15世紀後半には改築と空堀の掘り直しで西・中・東・北の4郭となる。この時期、支配者は関東管領上杉氏だったが、16世紀には後北条氏の支配となったことが、二重土塁の間に空堀を設ける同氏独特の縄張りから伺える。後北条氏の滅亡とともに廃城となり、平成期の発掘調査で良好な遺構が残ることがわかり、2008年、横浜市が茅ヶ崎城址公園として公開した。

山全体に遺る戦国期の縄張り
津久井城
つくいじょう(相模原市)

鎌倉時代初期、三浦一族の筑井義胤による築城と伝わるが詳細は不明。相模・甲斐・武蔵を結ぶ街道や舟運を扼する位置にあたり、戦国時代に相模から武蔵に進出した北条氏は、甲斐の武田への備えとしてこの地を重要視し、山頂部に山城、南麓に城主の居館や家臣の屋敷を置いた「根小屋式山城」を整備した。1590年の小田原攻めの際、本多忠勝・平岩親吉ら徳川勢によって落城し、その後は徳川氏の直轄領となって麓に陣屋が置かれたが、1664年に廃城となった。山頂部の本城曲輪を中心に、曲輪・堀切・堅堀などの後が良好に残り、根小屋部分の発掘調査も進められている。

土屋城

寺尾城

頼朝挙兵から従った土肥実平の館
土肥氏館

どいしやかた(足柄下郡湯河原町)

初島と大島を一直線に見下ろす絶景
土居城

どいじょう(足柄下郡湯河原町)

源頼朝挙兵時の重臣・土肥実平の居城と伝わるが、現在のJR湯河原駅付近にあったとされる平時の居館とは500m以上の標高差があって時代的背景とは合致せず、南北朝もしくは戦国時代の遺構と考えられる。湯河原駅側からは直下まで林道が通じていて、50mほどの登りで本丸まで到達可能。本丸跡には子孫に当たる小早川四郎男爵の筆による石碑が立つ。明確な遺構は少ないものの、眼下に初島と伊豆大島が縦に連なる眺望は唯一無比であり、登城の価値あり。

上杉謙信に連なる名門発祥の地
長尾砦
ながおとりで(横浜市栄区)

都内を走る中原街道の目的地はここ
中原御殿
なかはらごてん(平塚市)

七沢城
ななさわじょう(厚木市)

縄文貝塚跡に作られた三浦の支城
怒田城
ぬたじょう(横須賀市)

畠山重忠邸跡

波乱の歴史を歩んだ波多野一族のルーツ
波多野城

はたのじょう(秦野市)

縄文時代の住居跡も見られる渋谷氏の城
早川城

はやかわじょう(綾瀬市)

比企能員邸址

深見城
ふかみじょう(大和市)

藤原久時・北条時房邸跡

源頼朝に従った大庭一族の惣領
懐島城

ふところしまじょう(茅ヶ崎市)

細野城
ほそのじょう(愛川町)

北条の娘婿となった吉良氏の居城
蒔田城

まいたじょう(横浜市緑区)

吉良氏は、「将軍家が絶えたら吉良が継ぐ」と謳われた足利一門の名族。室町時代に故地三河をはじめ奥州、武蔵で勢力を広げるが、戦国時代後期には弱体化し、世田谷城の武蔵吉良氏は新興の北条氏傘下となる。北条氏綱の娘婿となった吉良頼康は久良岐郡蒔田に移り住み「蒔田御所」と称せられたが、1590年の北条氏滅亡と共に蒔田城も廃城となった。城跡は大岡川に張り出した標高30mの台地にあり、現在は横浜英和学院の校舎が建っている。発掘調査で縄文~奈良時代にかけての拠点集落遺跡が見つかっているが、室町~戦国期の遺構はほとんど残っていない。麓の勝國寺は吉良氏の菩提寺で、4基の五輪塔が残されている。

眺望抜群の多摩丘陵東端に立つ天然の要害
枡形城

ますがたじょう(川崎市多摩区)

平安時代末期、源頼朝の武将で現在の川崎市中部にあった稲毛庄を領地としていた稲毛三郎重成が築城。山頂は東西130m、南北80mの平地で眺望に優れ、斜面が刀で削ったような絶壁の形状であることから枡形山と呼ばれている。1205年、北条氏の策謀で稲毛一族が滅ぼされた後も桝形城は使われ、室町時代の1504年には関東管領山内上杉氏の討伐を期した伊豆の北条早雲、駿河の今川氏親らが布陣し、戦国時代の1569年には甲斐の武田信玄が小田原の北条氏康を攻めた際、地元の豪族横山弘成が土塁を築いて防御を固めたことなどが記録に残る。現在、枡形山は生田緑地内の公園となっているが城の遺構はなく、城址碑のみが建つ。


備前に下り早雲と共に相模に戻った松田一族
松田城

まつだじょう(足柄上郡松田町)

 

大豆戸城

丸山城

 

東京湾を挟んだ北条と里見の争奪戦
三崎城
みさきじょう(三浦市)

三浦半島の先端、城ヶ島を臨む現在の三浦漁港付近にあった海城。室町時代、新井城を拠点に三浦半島南部を支配した三浦氏の支城で水軍の根拠地だったが、三浦氏が伊勢盛時(北条早雲)に滅ぼされると、北条の支配下に置かれる。しばしば、房総半島を制した里見氏の侵攻を受け、里見領となったこともあるが、その都度北条氏が奪還。早雲の孫・氏康が5男氏規を城主とするなど重視されたが、1590年の小田原攻めで廃城となる。遺構はほとんど残っていないが、市役所前の屈曲した坂道が大手口の名残をとどめ、旧三崎中学校前に城址碑がある。

源義朝館跡

戦国大名毛利氏発祥の地
毛利季光館
もうりすえみつやかた

若宮大路幕府跡

三浦一族の実力者・和田義盛の館
和田城
わだじょう(三浦市

鎌倉幕府で初代侍所別当(長官)を務めた和田義盛の居館跡。義盛の父で三浦の惣領となった杉本義宗は三浦半島の入口にあたる鎌倉郡(現在の杉本寺付近)に居館を構えたが1164年に安房で長狭常伴と戦い討死。当時18歳の義盛は半島有数の穀倉地帯であったこの地に居を移した。義盛に預けられた木曽義仲の愛妾巴御前が余生を送ったとも伝わる。現在、居館の跡を示すものはなく碑が残るのみだが、周囲に残る木戸脇、出口、空池、赤羽根、矢作などの地名から往時を偲べる。
 
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