城名

概要

場所

評価/more

能登の国人・長氏累代の城
穴水城
あなみずじょう(石川県鳳珠郡穴水町)

平安末期、以仁王に仕えて奮戦し、後に鎌倉御家人になった長谷部信連が、1186年、能登国大屋庄の地頭職に命じられ、穴水湾に面した標高60mの山に居館を築く。子孫は長氏を名乗り、戦国末期までの390年間、長氏の居城として続く。1576年、上杉謙信の攻略を許し、2年後に長連龍が一時的に奪還するも上杉方の反攻を支えきれず越中へ敗走。後に連龍は能登に封じられた前田利家に使え、子孫は3万3000石を領する加賀藩の重臣となり明治維新まで続くが、穴水城自体は1583年に廃城となっている。


着々と復興する幕末期の威容
金沢城
かなざわじょう(金沢市)

一向宗の尾山御坊跡を佐久間盛政が拡張。1583年に入城した前田利家は築城家として著名な高山右近を招いて城の大改修を行う。1759年の火災後は本丸は再建されず、二ノ丸が中心となる。明治維新後の1881年、火災で石川門、鶴丸倉庫、三十間長屋を残して焼失。第二次大戦後は金沢大キャンパスとなるが1995年に移転。以後県が本格的な復元工事に着手し、2010年までに菱櫓、橋爪門一の門、橋爪門続櫓、五十間長屋、河北門、いもり堀などが復元整備されている。

加賀百万石の威勢を語る隠居城
小松城
こまつじょう(石川県小松市)

16世紀後半、加賀一向一揆の砦が設けられたが、1579年、織田信長の武将・柴田勝家が攻略。関ヶ原の戦い時に城主だった丹羽長重は西軍に与して改易され、加賀藩の属城となる。1615年の一国一城令で廃城となるが、1639年、3代藩主前田利常の隠居城として幕府から例外的に再建が認められる。利常は本丸・二の丸を堀で囲み、その周囲に4郭、さらにその周囲に6郭を配し、総面積は本城金沢の2倍、その3割を堀が占める、全国的にも稀な「浮城」であった。利常没後は明治維新まで城代が置かれた。現在は本丸櫓台、井戸跡と堀石垣の一部が残るのみ。

加賀百万石の第一歩はここから
小丸山城
こまるやまじょう(七尾市)

1581年、織田信長から能登一国を与えられた前田利家は、能登守護畠山氏の居城であった山城の七尾城から、七尾港に近い平山城の小丸山に居城を移す。各地へ転戦する利家に代わり、兄・安勝が城代として城を守った。1583年、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家方から羽柴秀吉方へ寝返った利家は、処刑された佐久間盛政の旧領・金沢を加増されて移り、小丸山城は安勝が城主、長連龍が城代となる。安勝没後、利家次男・利政が一時居城とするが、関が原の戦いで西軍について没落。小丸山城も1615年の一国一城令で廃城となる。


七尾湾を望む壮大な山城
七尾城
ななおじょう(七尾市)

15世紀半ば頃、室町幕府で管領職を務めた畠山氏の庶流、能登畠山氏の居城。七尾湾が一望できる標高300mの尾根に本丸、長屋敷、西の丸、二の丸、三の丸などの曲輪を配置、枝分かれする6つの尾根にも大小の砦を配し、「七尾」の地名の由来となった。戦国期に逐次拡張・増強されたが、1576年、上杉謙信の侵攻を受け、1年近い篭城戦の末に落城、能登畠山氏は滅亡する。1581年、領主となった前田利家は港に近い小丸山に城を構え、七尾城は廃城となった。結果として、廓跡や石垣など戦国期の遺構がよく残り、1934年には国の史跡に指定された。
 
 
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