城名
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概要
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場所
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評価/more
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伊佐城
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職名を名字にした常陸大掾氏の居城 石岡外城 いしおかとじょう(石岡市)
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石神城
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小田原北条氏の常陸佐竹氏攻略拠点 牛久城 うしくじょう(牛久市)
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馬坂城
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太田城
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神皇正統記が記された南朝の拠点 小田城 おだじょう(つくば市)
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国指定史跡。平安時代末期、常陸守護・八田知家によって築城。知家は常陸南部に勢力を拡げ、4代時知以降小田氏を名乗る。南北朝時代の1338年、南朝の中心人物・北畠親房を迎え、関東における南朝の拠点となる。親房はこの城で「神皇正統記」を執筆した。1569年、小田氏治が手這坂の戦いで佐竹義重に敗ると、佐竹氏の武将太田資正・梶原政景親子が入り城を大規模改修するが、佐竹氏の秋田転封に伴い廃城となる。1983年以降、つくば市による保存・整備事業が進んでいる。 |
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見る者を圧倒する堀底道と高土塁 小幡城 おばたじょう(東茨城郡茨城町)
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関東では珍しい石垣の残る城 笠間城 かさまじょう(笠間市)
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別名桂城。鎌倉時代前期、下野守護宇都宮頼綱の甥・塩谷時朝により佐白山に16年の歳月を費やして築城。戦国時代まで18代にわたり笠間氏(時朝の子孫)の居城となる。戦国時代末期、18代笠間綱家は宗家宇都宮氏に叛いて滅亡。1598年に城主となった蒲生郷成が近代城郭に改め、二層の天守が設けられる。江戸時代は元禄赤穂事件で知られる浅野家など城主が次々と変わったが、1747年以降は幕末まで牧野氏8万国の居城として続く。遺構としては、関東の城では珍しく多用された石垣が随所に残るほか、建物では八幡台櫓(写真右)が市内の真浄寺に、薬医門(2棟)が市内の民家にそれぞれ移築されている。
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金砂城
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古代の環濠集落もあった広大な城域 木原城 きはらじょう(稲敷郡美浦町村)
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宇都宮氏に備えた水谷蟠龍斎の隠居城 久下田城 くげたじょう(筑西市)
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車城
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河川改修で消えた歴史の舞台 古河城 こがじょう(古河市)
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平安末期、下河辺行平の居館が起源。1455年、室町幕府軍に追われた鎌倉公方・足利成氏がこの地で「古河公方」を称して以降、5代・130年余りにわたる古河公方の拠点となる。江戸時代に入ると、城下は日光道中の宿場町としても繁栄し、将軍の日光社参における御泊城の役割も担った。城主はしばしば、大老、老中など幕府要職を務めている。明治維新後後も、土塁・堀は残存していたが、1910年からの渡良瀬川改修工事によりほぼすべてが水没、「獅子ヶ崎」土塁などに僅かな面影が残る。
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戦国時代の城郭が再現された水城 逆井城 さかさいじょう(坂東市)
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別名飯沼城。1450年頃、小山氏の一族、逆井常光が築城。1536年(異説あり)、逆井常繁の代に北関東進出を目論む北条氏に攻められて落城、以後、北条氏と佐竹、結城、多賀谷氏などとの領土争いの最前線となる。1577年、北条氏繁が小田原から技術者を呼び寄せて戦国城郭を新たに築くが、1590年、小田原の役で豊臣軍に降伏、廃城となる。このため、当時の土塁、堀の一部が良好な状態で残存しており、二層櫓、主殿、井楼櫓などを戦国時代の様式で整備した公園となっている。
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天狗党の乱に巻き込まれた水戸の分家 宍戸城 ししどじょう(笠間市)
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関東の名将、水谷蟠龍斎の城 下館城 しもだてじょう(筑西市)
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下館の名称は、940年、平将門を討った藤原秀郷が、上館(後の久下田城)、中館(後の伊佐城)、下館の3つの館を築いたことに因む。下館城は1478年、結城氏の重臣・水谷勝氏が築城した。戦国時代の勇将として知られる6代目の水谷政村(蟠龍斎)は、下館城を弟勝俊に譲り、自らは久下田城に移る。水谷氏は、次の勝隆の代に備中松山に移封され、水戸光圀の兄・松平頼重が入城する。以後、増山、黒田氏を経て1732年以降は石川家9代の居城として明治維新まで続いた。
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下妻城(多賀谷城)
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関城
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大宝城
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小貝川を望む下総相馬氏の支城 高井城 たかいじょう(取手市)
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水に浮かぶ「亀」のような本丸 土浦城 つちうらじょう(土浦市)
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別名亀城。平城ながら、幾重にも濠を巡らせた水城でもあった。室町時代に若泉氏が築城、戦国時代は信太氏、菅谷氏と城主が変わり、戦国末期には徳川家康の次男、結城秀康の領地となる。江戸時代も前半は城主が何回も変わったが、中期以降は土屋氏9万5000石の居城として明治維新まで続いた。現在、本丸・二の丸跡にあたる部分が亀城公園として整備され、関東で唯一現存の櫓門(太鼓櫓)と霞門、旧前川門、土塁などが残るほか、東櫓、西櫓が復元されている。
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額田城
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常陸国府跡に築かれた大掾氏の城 府中城 ふちゅうじょう(石岡市)
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筑波山麓に残る広大な平城の史跡 真壁城 まかべじょう(桜川市)
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1172年、桓武平氏の名門、大掾氏の一族・多気長幹が築城。長幹の子孫は真壁氏を名乗り、南北朝の騒乱や鎌倉公方と足利将軍家の争いに巻き込まれながら400年余り独立を維持するが、戦国時代末期には佐竹氏の配下となり、関ヶ原の戦い後、佐竹氏の秋田転封に従う。その後浅野長重、稲葉正勝が城主となるが、1628年以降は天領となり真壁城は廃城となる。そのため、体育館になった本丸を除き城跡が良好に残り、1994年に国指定史跡となって以降、復元整備が進んでいる。
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水戸光圀、徳川慶喜を輩出 水戸城 みとじょう(水戸市)
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1193年、桓武平氏の後裔・大掾氏の一族、馬場資幹が築城。室町時代、大掾氏から江戸氏に城主が代わるが、1590年、小田原征伐に参陣しなかったことで領地没収。佐竹義宣が常陸一国54万石の居城とするが、関ヶ原の戦いに敗れて秋田20万石に減封された後は、徳川御三家の一つとして幕末まで続く。1945年、空襲で天守代わりの御三階櫓を含めほぼ全焼し、戦国期の遺構としては薬医門(写真)が残るのみだが、1841年に城内三の丸に作られた藩校・弘道館は国の重要文化財、特別史跡に指定されている。戦災焼失した天守で唯一、再建されていない。
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鎌倉時代の名族・相馬氏に遡る城 守谷城 もりやじょう(守谷市)
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山方城
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落城、廃城を経て維新まで存続 結城城 ゆうきじょう(結城市)
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平安末期、結城朝光の築城と伝わる。1440年の結城合戦では、結城氏朝が関東公方足利持氏の遺児春王、安王を奉じて挙兵、落城まで一年余を有し堅城ぶりを知らしめた。1590年、結城晴朝は徳川家康の次男秀康に家督を譲るが、1601年、秀康は福井に転封され、結城城は廃城となる。1700年、水野勝長によって再興され、明治維新まで水野氏1万8000石の居城となった。建物の遺構は残っていないが、住宅街の中に土塁や内堀跡が残り、往時の規模を窺い知ることができる。
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