城名

概要

場所

評価/more


駅のホームが絶好のビューポイント
明石城
あかしじょう(明石市)

別名鶴の城、喜春城。1618年、信濃松本8万石から10万石に加増転封された小笠原忠真が、将軍徳川秀忠の命により、幕府の援助と岳父で姫路城主の本多忠政の協力を得て築城、それまでの拠点・船上城から移った。当初から天守はなく、本丸の四隅を三層の隅櫓が置かれていた。このうち南側の巽櫓と坤櫓は現存しており、JR明石駅のホームから同時に見ることができる。在城13年で小笠原忠真は豊前小倉に転封となり、以後戸田松平→大久保→藤井松平→本多と譜代大名が継承し、1682年以降は親藩の越前松平家が10万石格で幕末まで続いた。


城主の軽挙に殉じた浪士集団
赤穂城
あこうじょう(赤穂市)

室町時代の赤松氏の一族、岡氏の築いた加里屋城が起源。江戸時代初期には姫路・岡山を領した池田氏の支藩となるが、1645年、城主の発狂事件で改易となり、常陸笠間から長直が5万3000石で入封する。長直は15年かけて赤穂城を築城するとともに、軍学者山鹿素行を招聘し、製塩業を奨励するなど城下町発展に務めたが、1701年、3代藩主長矩(内匠頭)が江戸城内で吉良義央(上野介)へ斬りつけ即日切腹。赤穂藩も改易となる。翌年末、赤穂浪士が義央を討ち取った頃は永井直敬、続いて森長直が領主となり、幕末まで森氏が城主で続く。現在までに大手隅櫓、大手門、本丸門などが復元されている。

尼崎城
あまがさきじょう

 

信長抜擢の有力武将、突然の出奔
有岡城
ありおかじょう(伊丹市)

鎌倉時代末期から続く伊丹氏の居城だったが、1574年、織田信長の武将、荒木村重が伊丹氏を破って城主となる。村重は伊丹城を有岡城と改め、南北6kmの惣構を持つ巨大な城を築くが、1578年、三木城攻めの最中に突如信長に背き籠城。説得に赴いた黒田孝高(官兵衛)は地下牢に軟禁され、重い障害を負う。一年余の攻防の後に開城すると、池田之助が城主となるが、三年後に美濃へ転封され、有岡は廃城となる。土塁・石垣・建物跡・井戸跡などの遺構がある史跡公園は、文字通りJR伊丹駅の駅前にある。


旧山名氏の山城から近世城郭に
出石城
いずしじょう(豊岡市)

長く山名氏の本拠だった此隅山城が1569年に羽柴秀吉に落とされ、織田信長に降伏して赦された山名祐豊は1574年、南の有子山に新しい城、麓に館を築いた。1580年、祐豊は織田から離反し、有子山も秀吉に落とされて山名氏は滅亡する。その後有子山城には秀吉の臣・前野長康、小出吉政が城主となり、関ヶ原の戦い後、領土を安堵された吉政の子・吉英が山頂の城を廃して山麓の居館を「出石城」と名付けた。5つの郭が上下に並ぶ梯郭式の山城で、小出氏9代、松平氏1代の後、仙石氏7代が明治維新まで続いた。建物は破却されたが、1967年に隅櫓、1994年に登城門が復元されている。

越水城
こしみずじょう

 


焼失した本丸書院を復元
篠山城
ささやまじょう(篠山城)

1609年、徳川家康が豊臣秀頼の大阪城包囲と、西国の有力大名を牽制する目的で山陰道の要衝の地に築城。築城の名手・藤堂高虎の縄張りのもと、近畿・中国・四国・九州など15カ国の20大名が動員された。二重の堀を廻らし、外堀の三方に馬出しを設けた防御に徹した設計で、天守は設けず、二の丸に大書院に代表される御殿が建てられた。1615年の大坂落城後も、西の抑えとして重要視され、松井松平→藤井松平→形原松平→青山と譜代4家が城主となって明治維新を迎えた。大書院は1944年に失火で焼失するが2000年に木造復元されている。


城ブームの引き金となった元祖天空の城
竹田城
たけだじょう(朝来市)

1443年、但馬守護山名宗全が太田垣光景(誠朝とも)に命じて築城。戦国時代を通じて山名氏配下の太田垣氏の居城であったが、1569年、織田信長の武将木下(羽柴)秀吉が但馬へ侵攻すると、織田軍と毛利軍の間で争奪戦となり、最終的に1580年、羽柴秀長の手により織田方へ帰属する。秀吉は武田城主に桑山重晴、次いで赤松広秀(斎村政広)を任命。今日「天空の城」と呼ばれる総石垣は、広秀の時代に整備されたと考えられている。関が原の戦いで広秀は西軍から東軍に寝返るが、徳川家康から不手際を責められ自刃。竹田城も廃城となった。

富松城
とまつじょう

 

花隈城
はなくまじょう

 


大修理で蘇った「白すぎる」白亜の天守
姫路城
ひめじじょう(姫路市)

世界文化遺産。国宝。1333年、赤松則村(円心)が築いた砦が起源。戦国時代には一族の小寺氏、その家臣黒田氏と城主が代わる。戦国末期、織田信長から中国攻略を命じられた羽柴秀吉は、1580年、姫路城を黒田孝高(官兵衛)から献上され三層の天守を築く。その後秀吉の弟秀長、義兄木下家定が城主となる。1600年の関ヶ原の戦い後、徳川家康の娘婿・池田輝政が52万石で封じられると、西国大名に対する牽制を目的に城の大改築を実施。さらに池田氏に変わった本多忠政が三の丸、西の丸などを増築し、ほぼ現在に残る姿が整った。2015年には50年ぶりの天守の解体修理が完了した。

戦国の非情さを語る「三木の干殺し」
三木城
みきじょう(三木市)

15世紀後半、別所則治によって上の丸台地上に築かれた丘城。1578年、東播磨で最大の勢力を誇る別所長治は、織田信長に中国の毛利攻めを命じられた羽柴秀吉に一旦加勢するものの離反。これに対し秀吉は力攻めを避け、陣城を築いて糧道を絶つ兵糧攻めを選ぶ。後世「三木の干殺し」と呼ばれる1年8カ月の凄絶な籠城戦は、長治と一族が兵士や領民の助命を条件に自刃して開城。交通の要地であることから、その後も豊臣家の直轄地として城代が置かれ、関ヶ原の戦い後は姫路城主池田輝政の家老伊木忠次が入るが1615年の一国一城令で廃城となった。

 
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