城名

概要

場所

評価/more

 
日本海側における蠣崎氏の拠点
勝山館
かつやまだて(上ノ国町)

1462年頃、武田信広による築城説が有力。信広は上ノ国(渡島半島の日本海側)を支配した蠣崎氏の客将で、1457年に和人とアイヌ人が争ったコシャマインの乱を平定した功により蠣崎季繁の娘婿となり、それまでの花沢館に代えて勝山館を築いた。1514年、信広の跡を継いだ子の光広は津軽海峡に面した松前大館に居館を移し、子の高広を条第として勝山館に配する。蠣崎氏は後に松前と改姓し、1604年に松前藩を立藩。この頃に勝山館は廃された。館は日本海へ下る尾根上に、東西約250m、南北500mにわたって築かれ、南北には堀切が設けられていた。主郭は柵や木橋が復元され、門、櫓、建物、井戸など町並みの跡も平面表示されている。
時代:室町~戦国
種別:平山城
築城年:1462頃
廃城年:1604頃
アクセス(A便利-E不便):B/D
難易度(A楽勝-E危険):C
知名度(A有名-E無名):C

残存度(A良好-E無惨):C
満足度(A満足-E残念):B


榎本と土方の夢遺す洋式城郭
五稜郭
ごりょうかく(函館市)

五稜郭タワーから見る全景

ペリー来航の翌1854年、日米和親条約で開港することが決まった箱館には「箱館奉行」が設置された。五稜郭はその役所を兼ねて、蝦夷地統治と防衛のために整備された洋式城郭で、蘭学者・武田斐三郎の設計により1857年に着工、1864年に完成する。1868年10月、江戸を脱出した旧幕府軍によって占拠され、榎本武揚を長とする箱館新政府(蝦夷共和国)の拠点となるが、翌69年5月には新政府軍に敗れて降服。五稜郭も接収されて建物は兵糧庫を除き撤去され、陸軍施設、後に公園として整備された。城郭の中央部に置かれていた箱館奉行所は、2010年、中央部の約1/3が140年ぶりに、古写真や図面を元に忠実に復元された。
時代:幕末
種別:平城
築城年:1866
廃城年:1512頃
アクセス(A便利-E不便):A
難易度(A楽勝-E危険):A
知名度(A有名-E無名):A

残存度(A良好-E無惨):B
満足度(A満足-E残念):A


復元された箱館奉行所

 
道南十二館の最東端は空港の隣
志苔館

しのりだて(函館市)

14世紀末~15世紀初頭、蝦夷地へ進出した和人・安東氏は、渡島半島南部に「道南十二館」と呼ばれる舘群を築く。その最東端になる志苔館は、安東氏家臣、小林重弘の築城と伝わる。1457年、蝦夷地の本拠地化を目指す安東氏と、族長コシャマイン率いる先住民アイヌが当地で武力衝突、志苔館も陥落する。その後和人が奪回するものの1512年に再びアイヌの蜂起により陥落、おそらくその際放棄されたものとみられる。舘は標高約25mの海岸段丘城に位置し、東西最大80m、南北最大65mの方形で、周囲は高さ4m、幅15mほどの土塁の外側を濠が巡らされていた。現在は函館空港が近接し、遺構越しに旅客機の離着陸が見られる。

時代:室町~戦国
種別:平山城(居館)
築城年:14世紀末~15世紀前半
廃城年:1512頃
アクセス(A便利-E不便):B
難易度(A楽勝-E危険):A
知名度(A有名-E無名):B

残存度(A良好-E無惨):C
満足度(A満足-E残念):B

五稜郭の背後を護るため急造陣地
四稜郭
しりょうかく(函館市)

1869年、榎本武揚率いる旧幕府軍(箱館新政府)が新政府軍の来航に備えて築城。本拠地・五稜郭の背後を護るべく、その北約3kmの傾斜面台地に築かれた洋式台場で、蝶が羽を広げたような形状から四稜郭の名がある。士卒と近隣住民約300名が数日間の昼夜兼行工事で完成させたと伝わるが、実際、周囲を高さ約2mの土塁と濠で囲っただけの簡易なもので、四隅に砲座は設けられたが建物は当初からなかった。5月11日に始まった箱館総攻撃では松岡四郎次郎の指揮のもと防御に尽くすが、五稜郭への退路遮断の危機が高まったため放棄。その後は荒廃するが昭和期に修復された。小ぶりなだけに、洋式城郭の形状がよくわかる。 時代:幕末
種別:平城(陣城)
築城年:1869
廃城年:1869
アクセス(A便利-E不便):A
難易度(A楽勝-E危険):A
知名度(A有名-E無名):D

残存度(A良好-E無惨):C
満足度(A満足-E残念):C

道南十二館・上ノ国守護の居館
花沢館

はなざわたて(上ノ国町)

15世紀に本州から進出してきた「渡党」と呼ばれる大和民族(和人)が築いた道南十二館の一つで、「上ノ国」守護の居館。1457年に和人とアイヌの間で勃発したコシャマインの戦いでは、道南十二館のうち10館が陥落したが、守護・蠣崎季繁や客将・武田信広がよく守った花沢館は茂別館と共に陥落を免れた。城跡は南北200m、幅80m、比高50mの規模で、1945年に約2000枚の銭が、平成に入ってからは堀、溝、柵跡、柱穴のほか珠洲焼の擂鉢、中国製の青磁、白磁などが発見されている。磁器は全て15世紀のもので、1462年に蠣崎季繁が没し、娘婿となった武田信広がより広大な勝山館を築いて移った頃までに廃城となったと思われる。 時代:室町
種別:平山城
築城年:1400年代
廃城年:1462頃
アクセス(A便利-E不便):B/D
難易度(A楽勝-E危険):C
知名度(A有名-E無名):C

残存度(A良好-E無惨):D
満足度(A満足-E残念):C

開国で急遽作られた松前藩の陣屋
戸切地陣屋
へきりちじんや(北斗市)

幕末、日米和親条約により箱館開港が決まったことを受け、徳川幕府が蝦夷地防衛の一環として松前藩に命じて築かせた陣屋。函館湾の北西、海岸から約5km奥まった標高約70mの高台に位置する。縄張りは東西南北に堡塁を持つ四稜郭構造で、このうち東側の堡塁のみ亀の首のように大きく張り出し、6基の砲座が設けられていた。郭内に17棟の建物があり、松前藩士約120~160名が守備していたが、1868年の箱館戦争では榎本武揚率いる旧幕府軍に接収されることをおそれ、自ら陣屋を焼いて撤退した。保存状態が良好のため1965年に国の史跡に指定され、2001年までの整備事業で大手門、搦手門、土塁、堀、建物の土台などが復元されている。 時代:幕末
種別:平城
築城年:1855
廃城年:1868
アクセス(A便利-E不便):C/D
難易度(A楽勝-E危険):B
知名度(A有名-E無名):C

残存度(A良好-E無惨):C
満足度(A満足-E残念):B

道南十二館・松前守護の居館
松前大館
まつまえおおだて(松前町)

15世紀に本州から進出してきた「渡党」と呼ばれる大和民族(和人)が築いた道南十二館の一つで、「松前」守護の居館。


幕末に建てられた最後の日本式城郭
松前城
まつまえじょう(松前町)

道南十二館・下ノ国守護の居館
茂別館
もべつだて(北斗市)

inserted by FC2 system