城名

概要

場所

評価/more

譜代大名が城主に連なる近世城郭
安中城
あんなかじょう(安中市)

1559年頃、安中忠政が九十九川と碓氷川に挟まれた台地に築城。徳川家康が関東に封じられると上野には井伊直政が入り、直政没後は長男直継(直勝)が継ぐが、幕命により次男直孝が後に彦根藩となる井伊本家を継ぎ、直勝は安中藩3万石を立藩する。その後水野、堀田、板倉、内藤、再び板倉氏と藩主が代わって明治維新を迎える。維新後城郭は破却されて遺構はほとんど残っておらず、本丸のあった安中小学校正門前に「安中城址」の碑が立てられている。平成に入って、城内にあった旧安中藩の郡奉行役宅と武家長屋が復元され、内部も見学できる。ちなみに同志社大学を設立した新島襄は旧安中藩士であり、市内に旧宅が残る。

鎌倉期の築城とも伝わる戦国城郭
磯部城
いそべじょう(安中市)

伝承では1201年頃、鎌倉幕府御家人・佐々木盛綱の旧跡とされる。ただし遺構は明らかに戦国期のもので、おそらく武田信玄が1562年頃に築いたもので、500m東にある文殊寺砦が狼煙台であったと考えられているが裏付ける資料はない。現在は城址公園となっていて遺構がほぼ完全に残っており、山頂部は堀切で東西に仕切られている。掘削土を転用したであろう土塁が西側に設けられていることから、おそらく西側が本丸、東側が二の丸と考えられている。ただし現状はなぜか、本丸側のみ「本丸」の標識さえ覆い隠しそうな深い笹が繁茂してしまっている。二の丸の南東側には馬出しと三の丸があり、空壕で仕切られている。


沼田と上田を結ぶ真田領の中枢
岩櫃城
いわびつじょう(吾妻郡東吾妻町)

標高802mの岩櫃山の中腹東面に築かれた山城。山頂より約200m低い位置に本丸・二の丸・中城があり、周囲に堅堀や曲輪が配置されている。築城主の確かな記録はないが、南北朝時代に岩櫃城主として吾妻太郎行盛の名が見え、その子斉藤憲行から6代に渡って斉藤氏が城主を務める。1563年、武田信玄の命を受けた真田幸隆が攻め落とし、武田氏の西上野支配の中枢となる。武田氏滅亡後も真田氏の支配下にあり、真田氏が沼田城を領有すると本拠地上田と沼田の中継地として重要な位置を占めるが、1614年、一国一城令により廃城となる。因みに岩櫃山は大河ドラマ「真田丸」オープニングの冒頭に登場するが、山頂の城郭はCG。

岩松館

新田一族の末裔が護り続けた中世居館
江田館
えだやかた(太田市)

新田氏の祖・義重から5代の後裔で、新田義貞の鎌倉攻めにも参陣した江田行義の居館跡と伝わる。本丸は東西約80m、南北約100m、周囲に土塁と堀を巡らせた典型的な中世平城で、南面から西面を鍵型に囲う二の丸や、北東に残る黒沢屋敷・毛呂屋敷・柿沼屋敷などの曲輪跡は戦国時代の拡張と推定される。江田行義は西国転戦後、備後に土着したと伝わり、戦国時代には太田金山城の出城として改修され、金山城主由良氏の重臣、矢内四郎左衛門の居城となる。天正年間には小田原の北条氏が武蔵から上野へ進出し、江田館を落として金山城攻略の拠点とした。1590年に北条氏が滅亡すると廃城となった。 時代:鎌倉末~戦国
種別:平城
築城年:13世紀後半~14世紀前半
廃城年:1590
アクセス(A便利-E不便):B
難易度(A楽勝-E危険):A
知名度(A有名-E無名):D

残存度(A良好-E無惨):C
満足度(A満足-E残念):B

遺構がよく残る土の近世城郭
大胡城
おおごじょう(前橋市)

南北670m、東西310mに及ぶ平山城。元々は平将門を討伐した藤原秀郷の子孫とされる大胡氏の居城であったと伝わる。戦国時代、大胡氏は近隣の横瀬氏に敗れて江戸牛込に移り、横瀬氏や上杉謙信の武将、北条(きたじょう)氏が城主となる。大胡氏の一族で、新陰流の元祖として知られる剣豪・上泉信綱が城主の時代もあったという。後に北条(ほうじょう)氏の支配下となり、1590年、徳川家康が関東に入部すると、家臣の牧野康成が大胡2万石に封じられ城主となる。しかし、子の忠成の代に越後へ転封となり、大胡は前橋藩酒井氏の所領となって大胡城も廃城となった。ほとんど石垣を用いない土塁の近世城郭として遺構がよく残る。

時代:鎌倉末~江戸前期
種別:平山城
築城年:?
廃城年:17世紀前半
アクセス(A便利-E不便):B
難易度(A楽勝-E危険):B
知名度(A有名-E無名):D

残存度(A良好-E無惨):C
満足度(A満足-E残念):B

大舘氏館


河岸段丘の崖端に立つ沼田氏の支城
小川城

おがわじょう(利根郡みなかみ町)

家康に重用された三河奥平発祥地
奥平城
おくだいらじょう(高崎市)

奥平氏は村上源氏の流れを汲む播磨・赤松氏の支流を称する。12世紀末、赤松則景は源頼朝の挙兵に応じて鎌倉へ上り、子の氏行が上野甘楽郡司となって奥平郷に移住し、奥平氏を称したのが始まりという。6代定政は新田義貞に従い南北朝の争いに南朝方として活躍するが、14世紀末、新田氏の没落とともに8代貞俊は三河へ移った。やがて徳川家康の娘婿となり、中津10万石の大名として続く奥平氏の上野在住は200年余に上ることになる。現在、奥平城は城跡に碑が残るだけで遺構は見られないが、案内看板によれば、周囲には武家屋敷跡が点在し、武道原、止め場などの地名や、鎌倉期以降の板碑、五輪塔などが往時を物語るという。

しぶとく系譜を紡いだ信長次男
小幡陣屋
おばたじんや(甘楽郡甘楽町)

2万石の小藩ながら、織田信長の係累ということで国主級の待遇を受けた小幡藩の陣屋。信長の次男・信雄は、尾張・美濃からの転封を拒んで豊臣秀吉に100万国の領地を没収されるが、豊家滅亡後に徳川幕府から大和宇陀3万石・上野甘楽2万石を与えられる。このうち甘楽領を四男信良に与え、その子信昌が小幡村に陣屋を築いた。陣屋に付属する楽山園は、7年の歳月をかけて築かれた県内唯一の池泉回遊式大名庭園、背後の山を借景に取り入れている。2012年には築山、池、茶屋、門、土塀などを江戸時代当初の状態に復元する事業が完成。隣接する陣屋部は、御殿の部屋割りが敷石で再現されているほか、長屋、井戸等が復元されている。


堅固な山城も城主が囚われて開城
金山城
かなやまじょう(太田市)

1469年、新田氏の一族岩松氏によって築城。1528年、岩松氏は家臣の横瀬氏(後に由良氏と改姓)による下克上で倒され、横瀬氏が城主となる。関東七名城に数えられる堅城で、その後上杉、武田氏らの十数度にわたる攻撃に耐えるが、1584年、城主横瀬国繁と弟長尾顕長が北条氏の奇計により小田原に幽閉されて降伏。1590年、秀吉の小田原攻めで北条氏が滅亡すると金山城も廃城となった。江戸時代は献上用松茸が採れる德川幕府直轄の「御林」となり、結果的に良好な城の遺構が残ることになった。1995年から復元事業が始まり、土塁や石垣、堀切、馬出しなどが再現されている。

武田信玄の上州攻略拠点となった山城
国峯城
くにみねじょう(甘楽郡甘楽町)

標高434m、比高170mの城山山頂を中心とする「山城部」、城主が居住し御殿平と呼ばれる「丘城部」、最外防御線を構成する「平城部」から構成され、南北2.5km、東西2kmに及ぶ戦国城郭。武蔵七党の児玉党の流れを汲む小幡氏は平安時代末期に西上野に土着し、鎌倉時代前半に国峰城を築いたと推定される。戦国時代、小幡憲重は関東管領上杉憲政の重臣だったが、憲政の越後亡命後は武田信玄に仕え、子の信貞は武田騎馬軍団の「赤備え」として名を馳せた。武田滅亡後は北条氏に仕えるが、1590年の小田原攻めでは城主の信貞は小田原に籠城。子の信秀が守った国峰城は前田利家らの北陸方面軍に攻略され落城、廃城となった。

蛇行する烏川の断崖を守りとした要害
倉賀野城
くらがのじょう(高崎市)

ポルトガル語あふれる街中の城址公園
小泉城
こいずみじょう(邑楽郡大泉町)

良好に残る縄張りが見学しやすい城址公園
後閑城
ごかんじょう(安中市)

後閑川と九十九川の合流地点に突き出した丘陵の先端部に位置する山城で15世紀半ば、信濃の国人依田忠政による築城と伝わる。戦国末期には新田氏一族の後閑氏が城主を務め、関東管領上杉氏、武田氏、北条氏と主を変えたが、1590年の北条氏滅亡とともに廃城となった。南北約60m、東西約30mの本丸は南端の最も高い部分に位置し、東西に階段状に郭が連なっている。本丸から陸続きの北側及び東南と西南に伸びる枝尾根の基部は大堀切で分断されており、東南の二ノ丸と西南の南郭は本丸から切り離された「一城別郭」構造となっている。二ノ丸は本丸より約16m低い位置にあり、櫓台が推定復元されている。

八犬伝伝説で知られる南総覇者の故地
里見城
さとみじょう(高崎市)

平安時代後期、新田義重の庶長子・義俊は新田領西部の碓氷郡里見郷に居を構えて里見義俊を名乗る。以後、1441年、10代家基が結城合戦で討死し、その遺児義実が房州白浜に拠点を移すまでの約300年、里見氏の本拠地であった。その後も一族は当地に残り、戦国時代の永禄年間には、箕輪城主・長野業正/業盛父子配下の里見河内が城主を務めたが、長野氏は1566年に武田信玄に滅ぼされ、里見城も同時期に廃城になったと思われる。本郭は東西約100m、南北約70mの方形で、北側は里見川による断崖、東南西は高さ約2.5mの土塁が巡り、その外側は南西方向の腰郭、東方向の堀切など本丸を防御する山城の遺構が比較的よく残る。

川の合流点に築かれた要害
白井城
しろいじょう(渋川市)

15世紀半ば、関東管領上杉憲実の家臣、長尾景仲の築城と伝わる。越後と関東を結ぶ街道沿いにある白井は戦国大名の戦略目標でなり、戦国末期には北条氏の勢力下にあったため小田原攻めで開城。徳川譜代の本多康重以下5家が次々と領主になるが、1624年に廃城となる。利根川と吾妻川の合流点に突き出した大地の先端に位置し、本丸西側は吾妻川の断崖絶壁、他方は高さ3~4mの土塁に囲まれている。唯一開けた北側に二ノ丸・三ノ丸・北曲輪・金比羅郭、南東にささ郭・南郭・新郭が連なり、城域の北と東に堀があって総郭を囲んでいる。早くに農地となったためか、堀や土塁などが良好に残っている。

住宅街に良好に残る濠と土塁
膳城

ぜんじょう(前橋市)

新田義貞の居館とも伝わる大規模館跡
反町館
そりまちやかた(太田市)

鎌倉~南北朝期の築造と推定される。真偽不明だが新田義貞が移り住んだという伝承があり、義貞が軍議の際に蛙の鳴き声を静めたという「不鳴の池」が残る。室町時代に金山城の支城となり、戦国期に三重の堀を持つ城郭に拡張されたが、1590年の秀吉の北条攻め前後に廃城となった模様。平面形は南北115m、南辺138m、北辺75mの凸字型で、南東角と西側の2カ所に出入り口がある。北・西・南辺に残る土塁は基底部で10~13m、高さ4~6m、堀は幅10~20mの規模だが東北側は県道改修時に拡げられたもの。現在、居館跡に建つ照明寺は厄除け薬師として知られる。元々堀の西側にあったが、1714年の火事の後に移転した。

商都・高崎の礎を築いた城
高崎城
たかさきじょう(高崎市)

1598年、徳川四天王に数えられ、譜代中最大の12万石を領していた井伊直政が、家康の命で箕輪城から南南東約10kmの当地に移り、国人・和田氏の古城を取り囲む形で5万坪を超える広大な城郭を築いた。直政が箕輪城下から多くの寺社や商家を移転させたことが、中山道と三国街道との分岐点として今日なお交通結節点の役割を果たす礎となった。関ヶ原後に井伊家が近江彦根へ移ると、5万石級の譜代大名が入れ替わり城主を務め、1717年以降は大河内松平家10代が幕末まで続く。維新後は陸軍省管轄となって本丸や二の丸は整地され、三の丸の土塁と堀が僅かに残るほか、移築されていた乾櫓と東門が三の丸に移築復元されている。
 

「徳川四天王」と「五代将軍」が在城
館林城
たてばやしじょう(館林市)

別名尾曳城。15世紀後半に国人・赤井氏が築城。戦国末期には北条氏の支配となるが、小田原攻めで開城。関東に入封した徳川家康は、江戸の北方を守る当地に、四天王の一人・榊原康政を10万石で封じる。康政は石垣や天主を備えた近代城郭と城下町を整備し、榊原家・大給松平家の後、3代将軍家光の4男綱吉が25万石で封じられると城郭はさらに拡張されるが、5代将軍となった綱吉を継いだ嫡子徳松が5歳で死ぬと、綱吉は館林を廃城とする。1707年、6代将軍家宣の弟・松平清武が城を復興し、以後、幕府の重鎮を務めた4家が幕末まで城主を引き継いだ。

実在した「最初の徳川氏」の居館
徳川義季館
とくがわよしすえやかた(太田市)

新田義重の4男、得川義季の居館があったとされ、現在は東照宮(徳川東照宮)が建つ。得川義季は新田宗家を継いだ義兼の同母弟で、里見氏・山名氏の祖となった異母兄たちより地位は高く、新田郡得川(徳川)郷と同世良田郷を継承して世良田義季とも呼ばれた。新田義重夫妻は晩年をこの館で過ごしたとされ、近隣に夫妻のものと伝わる墓が残る。戦国時代、三河の国人松平清康は世良田氏の、その孫家康は得川氏の後裔をそれぞれ自称し、得川義季は江戸徳川将軍家の祖に祭り上げられた。江戸時代、徳川郷は租税免除の地とされ、義季を開基、娘の浄念比丘尼を開山とする満徳寺は鎌倉東慶寺と並ぶ「縁切寺」として知られ、家康の孫・千姫も大坂落城後本多忠刻に再嫁する前に入寺している。

上杉が築き後北条と真田が争った境目の城
長井坂城

ながいさかじょう(渋川市)


北条氏滅亡を招いた一武将の軽挙
名胡桃城
なぐるみじょう(利根郡みなかみ町)

1492年、沼田氏の築城と伝わる、沼田城とは利根川の河岸段丘を隔てた対岸に位置し、三方が断崖絶壁となった天然の要害。天文年間、北条氏が沼田氏を追放して支配するが、関東管領となった上杉謙信、謙信死後は再び北条、さらに武田勝頼の命を受けた真田昌幸と度々支配者が変わる。1589年、豊臣秀吉の上洛命令に対し、北条氏政は真田領である沼田・名胡桃両城の引き渡しを要求し、沼田は北条、名胡桃は真田領ということで裁定が下る。しかし僅か4ヶ月後、沼田城代・猪俣邦憲は名胡桃城を急襲、城主・鈴木主水を自害に追い込み奪取すると、これを約定違反として秀吉は小田原攻めに踏み切る。100年続いた北条氏滅亡の端緒となり、小田原開城後名胡桃城も廃城となった。

「槍の又左」系譜を幕末まで受け継ぐ
七日市陣屋
なのかいちじんや(富岡市)

加賀百万石の藩祖・前田利家の5男利孝が大阪夏の陣の戦功で甘楽1万石を与えられて立藩。以後12代、関東では数少ない外様大名として幕末まで続く。陣屋は約100m四方で東と北に水堀、南と西に空堀が廻り、高さ約1.8mの土塁上に1.5mの塀が築かれていた。明治維新後、敷地は県立富岡高校の校庭となり、1843年に再建された御殿の玄関と書院の一部、中門が移築保存されている。書院と中門は2018年に国登録有形文化財に登録された。この他、御殿山と呼ばれた櫓台や土塁の一部も残存し、大手門、裏門、南門も個人宅に移築現存している。隣地に建つ前田氏崇敬の蛇宮神社境内には前田利孝の供養塔が残る。

新田一族惣領家の館跡と推定される
新田館
にったやかた(太田市)

この地にある総持寺は寺域1ha余りに過ぎないが、かつては二町(約200m)四方の規模を有し、西の早川を背に三方に濠を備えた惣領クラスの居館跡だったため「館の坊」の別名がある。東と南の一部に濠の跡が残るほか、昭和初期までは残置された土塁も見られたという。当寺がある世良田の地は、鎌倉時代に新田庄の経済・文化の中心であったことや館の規模から、吾妻鑑や太平記にも登場する新田宗家の居館であったと推定される。居住者として、一族の始祖・新田義重、一時新田氏総領となった世良田頼氏、鎌倉幕府討滅の立役者・新田義貞などの説があり、毎年8月1日には伝新田義貞木像を祀る「義貞様」行事が開かれている。

河岸段丘上に設けられた堅城
沼田城
ぬまたじょう(沼田市)

1532年、三浦氏の一族・沼田顕泰が高さ約70mの河岸段丘上に築城。関東と越後・信州を結ぶ要衝にあり、上杉・北条・武田・長尾氏らの間で争奪戦が繰り広げられる。1580年、武田勝頼の武将・真田昌幸が入城し、城を拡大するが、豊臣秀吉の裁定で北条領となる。1590年、北条氏滅亡後は昌幸の嫡子信之が領主となり、5層の天守を築く。関ヶ原の戦いでは、信之の妻(本多忠勝娘)・小松姫が舅昌幸を追い返した。1622年、信之が松代に移封となり、沼田は3万石の支藩となるが1681年に改易され一時的に廃城。1703年に本多氏4万石で入封、黒田氏を経て土岐氏12代の居城として維新を迎える。

根小屋城

関東管領・上杉氏100年の居城
平井城
ひらいじょう(藤岡市)

1438年、鎌倉公方足利持氏と関東管領山内上杉憲実の関係が悪化し、憲実は総社長尾忠房に命じて領国の上野に平井城を築かせて鎌倉から移ったとする説と、1467年、管領職を継いだ上杉顕定による築城説がある。いずれにせよ1552年に上杉憲政が北条氏康に攻められ越後の長尾景虎を頼って落ち延びるまで、関東管領山内上杉氏の居城として機能していた。平地に築かれた本城は西平井の村落を取り込んだ惣構の造りで、城域南端部の鮎川の崖上に土塁と堀で区画された主郭、その西側に二の丸、笹曲輪などが配され、背後の金山には有事に備えた詰城(平井金山城)も築かれた。現在、城址公園として土塁や掘、橋などが復元されている。

藤岡城

幕末に再建されるも僅か4年で廃城
前橋城
まえばしじょう(前橋市)

旧名厩橋(まやばし)城。15世紀、長野氏の一族前橋方業により築城。戦国時代には戦略的立地から北条・上杉・武田氏らによる争奪戦が繰り返される。1582年、滝川一益が関東管領として入るも本能寺の変で撤退。北条氏の支配となるが、1590年の小田原攻めで浅野長政により落城、徳川家康配下の平岩親吉が入る。徳川政権下では酒井氏9代の後、松平朝矩が藩主となるが利根川の氾濫被害が多発したため1767年に川越に移り、前橋は一旦廃城となる。1863年、松平直候が前橋帰城を許され1867年に再築前橋城に移るがわずか4年後の廃藩置県で廃城。本丸跡は群馬県庁となり、本丸土塁の一部と車橋門跡などに僅かに面影を残す。

上杉・前田・真田らを抑えた大道寺政繁
松井田城
まついだじょう(安中市)

碓氷川と九十九川に挟まれた標高250~410mの尾根上に築かれた戦国期の山城。主郭部は東西約1km、南北約1.5kmに及び、10カ所程の郭と、堀切や連続竪堀など防御施設が発見されている。元々、国人の安中氏が武田信玄に備えて築いたと推定されるが、その後武田、織田、北条と領主が代わり、北条譜代の重臣、大道寺政繁が城代を務めた。1590年の小田原攻めで政繁ら北条勢は奮戦するも、前田、上杉、真田らの大軍に攻められて降伏。そのまま廃城となった。ちなみに降将政繁はその後の鉢形城、八王子城攻め等で活躍するが、戦後秀吉は政繁に切腹を命じられた。開戦を主導したためとも、裏切りが嫌われたためとも言われている。


信玄も手を焼いた長野氏の居城
箕輪城
みのわじょう(高崎市)

16世紀初め頃、関東管領山内上杉氏の家臣長野尚業が築城、子憲業、孫業正の3代にわたって強化される。長野業正は、主君上杉憲政の越後亡命後も武田信玄の6回にわたる攻撃をよく防いだが1561年に病死。子の業盛が跡を継ぐが、武田の上野侵攻を防ぎきれず1566年に落城する。その後、武田氏の上野における拠点として、重臣の真田幸綱や内藤昌秀(昌豊)が城主を歴任。徳川家康の関東移封後は、家康四天王の井伊直政が、譜代最高の12万石を与えられて入城するが、1598年に新築した高崎城に移り、箕輪城は廃城となった。現在も大規模な掘や土塁など縄張りが非常に良好に残り、2016年には郭馬出西虎口門が復元された。

時代:戦国~安土桃山
種別:平山城
築城年:16世紀後半~14世紀前半
廃城年:1598
アクセス(A便利-E不便):B
難易度(A楽勝-E危険):A
知名度(A有名-E無名):B

残存度(A良好-E無惨):B
満足度(A満足-E残念):A

猿ヶ京の湖上ホテルになった断崖絶壁の城
宮野城
みやのじょう(利根郡みなかみ町)

藤原氏系足利氏の支流山上氏の居城
山上城

やまがみじょう(桐生市)

「六分一殿」山名氏の故地とされる
山名城
やまなじょう(藤岡市)

新田義重の子・山名義範が築き、以後8代に渡り居住したと伝わるが、後に山名宗全を輩出し、一族で11カ国もの守護を務めて「六分一殿」と呼ばれた名族の故地なのかどうか詳細は不明。南北朝期には南朝方の関東での拠点として寺尾上城(乗附城)や寺尾中城(寺尾城)と一連の名称で「寺尾下城」と呼ばれ、戦国期には武田信玄が築いた根古屋城の支城として「前城」とも呼ばれた。今日に遺る城跡は東西450m、南北は最も広い二ノ丸部分で約130mの連郭式山城で、築城法から鉄砲が使われていた戦国末期の普請と伺えるが、これは当地の土豪・木部氏が要害城として改築したため。1590年の秀吉の関東平定前後に廃城となった。

公家から武家に転身した珍しい大名の陣屋
吉井陣屋

よしいじんや(高崎市)

 
 
inserted by FC2 system