城名

概要

場所

評価/more


「女城主」の哀話語り継ぐ山里の城
岩村城
いわむらじょう(恵那市)

「日本三大山城」に数えられ、本丸の海抜717mは日本最高所。鎌倉御家人加藤景朝が遠山荘地頭に任じられ、岩村に館を構え遠山氏を名乗る(「遠山の金さん」こと遠山景元の遠祖)。1572年、武田軍に攻められた城主遠山景任未亡人(織田信長の叔母)は敵将秋山信友と結婚して開城。養子坊丸(信長5男・織田勝長)は人質として甲府に送られた。3年後、長篠の戦いで織田勢力圏に孤立した岩村城は5ヶ月の攻防戦の末開城。信友夫妻は磔刑に処せられる。江戸時代は松平、丹羽氏の居城となり、明治維新で廃城。

江馬氏館
えましやかた(飛騨市)


関が原前夜の西軍本拠地

大垣城
おおがきじょう(大垣市)

1535年、美濃守護・土岐一族の宮川安定が築城。1559年に氏家卜全が城郭を改修した。1585年に城主となった一柳直末が豊臣秀吉の命で4層4階の天守を構築した。1600年、関が原の戦いでは西軍の本拠地となり、石田三成ら西軍本隊の関が原移動後も福原長堯らが籠城戦を繰り広げたが開城。その様子は「おあむ物語」に伝えられている。その後は石川・久松松平・岡部・久松松平と城主が変遷し、1635年以降は戸田家10万石の居城として明治維新まで続く。国宝に指定されていた天守は戦災で消失し、1959年に外観復元された。2010年には最上階の窓を縮小するなど、焼失前の姿により忠実になるよう改修されている。

城下町と城主一族もろとも消えた幻の城
帰雲城
かえりぐもじょう(大野郡白川村)

1460 年頃、内ヶ島為氏が築城して以降、4代120年余り、白川郷など飛騨地方西部を支配した内ヶ島氏の居城となる。鉱山経営で繁栄し、天然の要害と相まって織田信長、上杉謙信ら外敵の脅威を巧みに生き延びるが、1586年1月に起こった天正大地震で大規模な土石流が発生、帰雲城は城下町ごと飲み込まれて消滅し、内ヶ島氏も城主氏理以下残らず死亡した。そのため正確な位置は不明で、推定地に碑が建てられている。この地震では、越中で前田利家の末弟秀継夫妻、近江で山内一豊の娘が死亡するなど、被害は中日本から西日本の広範囲に及んでいる

岐阜に代わる江戸時代の城下町
加納城
かのうじょう(岐阜市)

1601年、徳川家康の娘婿・奥平信昌が加納10万石に封じられ、翌年、中山道に面した地に天下普請で築城された。北から南へ三の丸・厩曲輪・二の丸・本丸・大藪曲輪の5曲輪を備えた、関ヶ原の戦い後初の本格的城郭で、関が原の戦いで改易された織田秀信の岐阜城から建材や石垣を転用した。岐阜城山頂から移築されたと伝わる3層4階の天守も建てられたが1728年に落雷焼失した。奥平氏は1632年に無嗣断絶となった後も、大久保・戸田松平・安藤と譜代大名が入り、1756年以降は永井氏6代が明治維新まで続く。維新後、建物は全て破却されたが、本丸外周や二の丸北面などに石垣や土塁が残る。

川手城

 


天下布武の夢映える金華山
岐阜城
ぎふじょう(岐阜市)

初名稲葉山城。13世紀初頭、二階堂行政(後の稲葉氏祖)が砦を構える。1549年、斎藤道三が大規模に改築し、城下町を形成。1567年、織田信長が小牧山から移り岐阜城と改名。安土築城後は嫡男信忠の居城となり、本能寺の変で信忠が斃れた後は、弟・信孝、さらに池田元助、同輝政、豊臣秀勝、織田秀信と城主が代わる。関ヶ原の戦いで西軍に加わった信忠の子・秀信が降伏、開城した後、城下町は平地の加納へ移り、岐阜城は廃城となる。現在の復興天守は、図面の残る加納城御三階櫓などをもとに、1956年に再建された鉄筋コンクリート造り。


木造天守が醸しだす風格

郡上八幡城
ぐじょうはちまんじょう(郡上市)


1559年、遠藤盛数がこの地を支配していた東氏を滅ぼして築城。盛数の子・慶隆は豊臣秀吉に対抗したため追放され、代わって入った稲葉貞通が城と城下町を整備する。関が原の戦いの功で八幡城主に返り咲いた慶隆が城を大規模改修。遠藤氏が5代で改易されると、井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と城主が入れ代わって明治維新に至り、廃藩置県で廃城となって建物は破却される。層塔型4層5階の天守は、1933年に大垣城を参考に建てられた復興天守で歴史的価値は低いが、木造建築の模擬天守としては日本でもっとも古く、街の情景に溶け込んでいる。

斎藤道三、最後の隠居城
鷺山城
さぎやまじょう(岐阜市)

平安末期~鎌倉初期の文治年間、源頼朝から当地を賜った佐竹秀義による築城と伝わる。室町時代には守護土岐氏の支城であったが、16世紀前半には土岐政房が本拠を川手城から鷺山城に移し、子の頼武、その弟頼芸と続く美濃守護争奪戦の舞台となる。やがて美濃の実験は土岐氏から守護代斎藤氏に移り、美濃一国を支配した斎藤道三は嫡子義龍に稲葉山城を譲って鷺山城に隠居する。道三の娘はこの城から織田信長に嫁ぎ、鷺山殿と呼ばれた。後に道三は義龍と争い、稲葉山城と鷺山城を隔てる長良川河畔で破れて戦死、鷺山城も廃城となった。

何でこんなモノを建てたのか・・・
墨俣城
すのまたじょう(大垣市)

1566年、織田信長は美濃・稲葉山城攻略にあたり、配下の木下秀吉に、長良川沿いの交通の要衝・墨俣に築城を命じた。秀吉は木材を上流から筏に組んで運ぶなどの奇策を用いて短期間で砦の構築に成功した・・・という逸話に基づき、旧墨俣町が町のシンボルとして建てた、日本に数あるなかでも横綱級のトンデモ天守。本来の墨俣城は、その経緯から砦程度のもので、1586年の木曽三川氾濫で木曽川の流路が変わったことで存在意義を失い、廃城となったとされる。当然天守はなかったばかりか、実際の位置さえ不明である。近年の城ブームを考えれば、むしろ戦国の砦を再現した方が良かっただろう。

高原諏訪城
たかはらすわじょう(飛騨市)

風情残る街並みを見下ろす平山城
高山城
たかやまじょう(
高山市)

標高686.6m、高山市街地を見下ろす城山(臥牛山)に築かれた平山城。15世紀半ば、飛騨守護代・多賀徳言が築城し、近江の多賀天神を祀ったことから天神山城、多賀山城等と呼ばれた。1585年、羽柴秀吉の命を受けた越前大野城主・金森長近が飛騨へ侵攻。翌年、平定した飛騨一国を賜ると、東西南北の街道が交差する天神山古城跡に築城を開始する。安土城構築直後に築かれた高山城は、安土城の影響を強く受けた御殿風の古い城郭形式を持ち、2層3階の天守も備えていた。1692年、金森氏が出羽上山へ転封されると金沢藩預りとなるが、3年後に天領となって高山城は廃城となった。
比高は高山の町並みから100m、3の丸駐車場から70m

全国唯一、現存する幕府の陣屋跡
高山陣屋
たかやまじんや(
高山市)


1692年、飛騨一国は天領(幕府直轄領)となり、関東郡代・伊奈忠篤が飛騨代官を兼務した。1695年に前領主・金森氏の高山城が取り壊され、忠篤は金森氏の旧向屋敷を「高山陣屋」として整備し、以後、幕末まで25人を数える「飛騨郡代」の統治所として、関東・西国・美濃と並び四郡代と称された。当初の陣屋は約28000㎡の広大な敷地を有したが、1725年、建物の老朽化に伴う建て替えの際、敷地は1/3に縮小された。明治以降も、飛騨県・高山県・筑摩県・岐阜県と所属が変わる中、庁舎等として1969年まで現役で使われ、全国60数カ所あった幕府の陣屋で唯一現存している。


眼下に木曽川を臨む懸造の城
苗木城
なえぎじょう(中津川市)

別名赤壁城、霞ヶ城。16世紀前半、北方の植苗木(うわなぎ)を拠点としていた遠山氏が移り住んで築城。木曽川右岸に聳える標高432mの城山に設けられた山城で、木曽川から山頂天守までの高低差は約170mある。岩山で土地の確保が難しいため、天然の巨岩を利用したり、懸造(清水の舞台が有名)が採用されていた。戦国末期の動乱で、遠山氏は武田勝頼や森長可に苗木を追われ、最終的に徳川家康を頼る。関ヶ原の戦いで遠山友政が苗木城を奪回、その功で旧領復帰を認められ、以後明治維新まで遠山氏12代の居城となった。現在は石垣のみ残り、天守3階部分が一部復元されている。

野口城
のぐちじょう(飛騨市)

東町城
ひがしまちじょう(飛騨市)

広瀬城
ひろせじょう(高山市)

古川城
ふるかわじょう(飛騨市)

小早川秀秋、日和見の陣
松尾山城
まつおやまじょう(不破郡関ケ原町)

15世紀初め頃、美濃守護代・富島氏が築城。戦国時代末期、織田信長と断交した浅井長政が樋口直房に守らせるが、竹中半兵衛の調略で織田方に降る。1600年、居城・大垣を石田三成率いる西軍に明け渡した伊藤盛正は、廃城となっていた松尾山城に入り修復を行う。西軍主力である毛利軍の本陣とする目論見だったが、小早川秀秋に占拠され、帰趨不明確な小早川軍に退路を断たれるのを恐れた西軍は、大垣城での後詰決戦を諦め、急遽夜陰に紛れて関ヶ原へ移動。翌日、眼下で繰り広げられる史上空前の野戦に日和見を続けた秀秋だが、結局東軍に味方し、その後の日本の行く末を大きく動かした。

増島城
ますじまじょう(飛騨市)

松倉城
まつくらじょう(高山市)

比高は飛騨の里から200m、そこから林道を登ったシンボル広場から60m

百足城
むかでじょう(飛騨市)

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