城名

概要

場所

評価/more

秋元城
あきもとじょう(君津市)

 別名小糸城

 

網戸城

 

 

飯高城

 

 

城郭並の規模を持つ古墳ベースの陣屋
飯野陣屋
いいのじんや(富津市)

徳川秀忠の三男(家光の異母弟)正之が信州高遠領主保科正光の養嗣子となると、正光の異母弟正貞(母は徳川家康の妹)は幕府から1万7千石の所領を与えられて大名に列し、1648年に飯野陣屋を築造した。保科正之は後に会津藩に転じたため飯野藩は会津藩の支藩ということになり、幕末まで存続した。陣屋といっても面積は約4万1千坪と城郭に劣らぬ規模で本丸・二の丸・三の丸から成り、長州徳山・越前敦賀と並び日本三大陣屋と称された規模を周濠と土塁に残している。この地域には5世紀から7世紀にかけて築造された大型の前方後円墳が集中し、うち最大のものの名を採って内裏塚古墳群と呼ばれている。当陣屋も三条塚古墳(全長122mの前方後円墳)や稲荷塚古墳(方墳)を組み込んで造られている。

時代:江戸~幕末
種別:平城(陣屋)
築城年:1648
廃城年:
アクセス(A便利-E不便):B
難易度(A楽勝-E危険):A
知名度(A有名-E無名):E

残存度(A良好-E無惨):C
総合満足度:C


池和田城

 

石堂城
いしどうじょう(南房総市)

 
 

石堂原城
いしどうはらじょう(南房総市)

 
 

一宮城
いちのみやじょう

 
 

白浜城から移った里見氏の拠点
稲村城
いなむらじょう(館山市)

15世紀末~16世紀始め頃、安房里見氏初代・義実もしくは3代・義通が安房国府中を扼する館山平野南端の要地に築城。中心部は東西・南北各500mの丘陵で、北側と西側は急斜面の要害、東側と南側には複雑に腰曲輪を重ねている。1533年、家督を継いだ義通の子・義豊は、相模から房総半島への進出を伺う北条氏に接近した叔父・実堯を稲村城に招いて誅殺する(稲村の変/天文の内訌)。実堯の子義堯は翌1534年、北条氏の援助を受けて義豊打倒の兵を挙げ、犬掛の戦いで義豊を討って里見宗家を奪取すると、本拠を約9km北方の滝田・宮本城に移し、稲村城は廃城となった。このため、山頂の広い主郭や土塁、3箇所の堀切など、技工を凝らした戦国前期の城の縄張りが良好に残されているいる。
時代:室町~戦国
種別:平山城
築城年:1500年前後
廃城年:1534
アクセス(A便利-E不便):A
難易度(A楽勝-E危険):B
知名度(A有名-E無名):C

残存度(A良好-E無惨):C
総合満足度:B

「千葉」発祥の地に不可解な天守
亥鼻城
いのはなじょう(千葉市中央区)

1126年、桓武平氏の一族、平常兼の子・常重が山辺郡大椎(旧土気町、現在の千葉県緑区大椎町)から千葉郡千葉荘の当地に居館を構え、千葉介を称する。常重の子、常胤は源頼朝の挙兵に従い戦功を上げて有力御家人に名を連ね、千葉氏興隆の礎を築く。以後、1455年に内陸の本佐倉城に本拠を移すまでの300年余り、千葉氏累代の居城となった。「亥鼻」は、千葉氏中央を流れる都川に対して、亥の方角(北北西)に向かって突き出した舌状台地で、千葉県庁や官庁街を間近に望む、政令指定都市・千葉市の中心にあたる。現在、亥鼻台地には城址碑に加えて、戦国時代の天守を模した千葉市立郷土博物館が建ち、さらにその前には弓を構える鎌倉武将・千葉常胤の騎馬像が立つ、何ともちぐはぐな構図となっている。
時代:鎌倉~室町
種別:平山城
築城年:1126
廃城年:1455
アクセス(A便利-E不便):B
難易度(A楽勝-E危険):B
知名度(A有名-E無名):D

残存度(A良好-E無惨):E
総合満足度:D

飯櫃城(いびつじょう)

 
 

岩ケ崎城

 
 

岩富城

 
 

上杉謙信も攻めあぐねた堅城
臼井城
うすいじょう(
佐倉市)

1114年、千葉常兼の3男・臼井常康が築いた居館が起源。城の基礎が築かれたのは14世紀中頃、臼井氏中興の祖と言われる興胤の代と伝わる。1479年には、太田道灌の弟資忠がこの城を攻めて討ち死にしている。1561年、里見氏に攻められた16代臼井久胤は結城晴朝を頼り逃亡し臼井宗家は没落。代わって城主となった千葉一族の原胤貞は、1566年、上杉謙信、里見義弘らの攻撃を、北条氏の援軍にも助けられて撃退するが、1590年、小田原北条氏が降伏すると北条傘下となっていた千葉氏・原氏も共に滅亡。徳川四天王・酒井忠次の子・家次が3万7000石で入るが、1604年、家次は上野高崎5万石に移り臼井城は廃城となった。城跡は臼井城址公園となり本丸・二の丸の掘・土塁の旧態をよく残す。
時代:室町~安土桃山
種別:平山城
築城年:14世紀中頃
廃城年:1604
アクセス(A便利-E不便):B
難易度(A楽勝-E危険):A
知名度(A有名-E無名):C

残存度(A良好-E無惨):C
総合満足度:C

大倉城

 
 


徳川四天王・本多忠勝の城
大多喜城
おおたきじょう(
夷隅郡大多喜町)

1521年、真里谷信興の築いた小多喜城が前身とされる。1590年、徳川家康の関東移封に伴い10万石を与えられて入部した家康の重臣・本多忠勝は、仮想的である安房・里見氏の侵攻を防ぐには小多喜城では脆弱として、東に張り出した丘陵に本丸・二の丸・三の丸を配し、西は尾根を切る空堀、南は夷隅川の急崖、東と北は水堀という、要害堅固の城に大改修した。関が原の戦い後忠勝は伊勢桑名へ移り、次男忠朝が5万石で継ぐが大坂夏の陣で戦死し、甥政朝が継ぐ。その後は譜代大名が入れ替わり、1703年以降は大河内松平氏9代が続き明治維新に至る。天守は1843年に焼失し、現在は天守を模した博物館が立つほか、遺構として、二の丸跡にあたる県立大多喜高校に移築された薬医門と、周囲17mの大井戸が残る。
時代:安土桃山~幕末
種別:平山城
築城年:1521
廃城年:1871
アクセス(A便利-E不便):A
難易度(A楽勝-E危険):B
知名度(A有名-E無名):B

残存度(A良好-E無惨):B
総合満足度:B

里見の勇将が守った大多喜城の前身
大多喜根小屋城

おおたきねごやじょう(夷隅郡大多喜町)

1521年、上総武田氏の一族で真里谷城主の武田信興が安房里見氏の東上総への侵攻に備えて次男信清に小多喜城を築かせた。信興の孫朝信は1544年、上総刈谷原で里見氏の重臣、正木時茂と戦い敗死し、小多喜城は里見領となる。小多喜城主となった正木氏は時茂の死後も養子憲時、孫(里見義頼の次男)時尭と3代に渡り「鬼大膳」の名を轟かせるが、1590年、小田原攻めに際し里見氏は惣無事令違反を咎められ小多喜を含む上総を没収され、正木氏も安房に戻る。代わって小多喜城主となった徳川家康四天王の一人、本多忠勝は里見氏を防ぐには脆弱として南約1kmの地に大多喜城を築いた。ただし近年の研究では、正木氏時代に既に現在の大多喜城の場所に小多喜城が移されていた可能性も指摘されている。
時代:戦国
種別:平山城
築城年:1521
廃城年:1590
アクセス(A便利-E不便):B
難易度(A楽勝-E危険):A
知名度(A有名-E無名):D

残存度(A良好-E無惨):E
総合満足度:D

安房に戻った里見氏の居城
岡本城
おかもとじょう(南房総市)

16世紀後半、里見家家臣・岡本通輔が築城。その子随縁斎安泰の時、対北条の海防要地としたいという主君・里見義弘の依頼を受けて城を譲り渡した。義弘は1572年に城を完成させると弟で養子(庶長子とも)の義頼に守らせる。城の山腹を全て切り上げた絶壁(切岸)として郭や堀切を設ける里見流の築城で、城主の館は山腹の要害と呼ばれる所に置かれた。東方の聖山には岩盤を彫り込んだ水堀・枡ケ池があり、義弘死後の1579年に起きた家督争いで義頼に敗れた義弘の嫡子・義重(梅王丸・出家して淳泰)が一時期幽閉されていた。1590年、小田原攻めの際の不手際で下総・上総の領地を没収された義頼の子・義康は、翌1591年、本拠地をより南の舘山城に移し、岡本城は廃城となったと思われる。
時代:戦国
種別:平山城
築城年:16世紀後半
廃城年:1591
アクセス(A便利-E不便):A
難易度(A楽勝-E危険):A
知名度(A有名-E無名):D

残存度(A良好-E無惨):E
総合満足度:C

徳川家康が鷹狩りに行くときの休息所
御茶屋御殿

おちゃやごてん(千葉市若葉区)

小見川城

 

水戸黄門の祖母の出身地
勝浦城
かつうらじょう(勝浦市)

1541年頃、安房の里見義堯が重臣正木時茂に真里谷武田氏の攻略を命じた。時茂の弟時忠は、真里谷氏の古砦を改修して勝浦城を築城し、勝浦正木氏は2代時通、3代頼忠と続くが、里見氏が豊臣秀吉の小田原攻めに遅延して上総を没収されると、正木氏も安房に戻った。頼忠の娘は後に徳川家康の側室・お万の方となって紀州頼宣、水戸頼房を生む。勝浦城は三方を海に囲まれた断崖絶壁に位置し、落城の際、14歳のお万が弟を背負って40mの断崖を布を伝って降りて逃れたという「お万の布さらし」伝説があり、城跡にはお万(養珠院)の像が立っている。

故地を奪還した原氏の新拠点
北小弓城(生実城)
きたおゆみじょう(千葉市中央区)

1538年、第一次国府台合戦で小弓公方・足利義明が戦死すると、義明に居城・小弓城(南生実城)を奪われていた原胤清が北条氏の支援を得てこの地を奪回。旧小弓城の北約2.5kmの地点に生実城(北小弓城)を築いたとされるが、近年の調査から南生実城と同時期に存在していた可能性も出ている。1590年の北条氏滅亡とともに原氏は没落し、代わって徳川家康の旗本・西郷家員が5000石の領主となる。西郷氏は1620年に安房東条藩主に封じられ、森川重俊が1627年に1万石の生実藩を立藩。旧小弓城の一角に陣屋を構えた森川氏は幕末まで12代243年続く。現在、森川氏の菩提寺である重俊院や生実神社にわずかに遺構が残る。

安房から上総に進出した里見の城
久留里城
くるりじょう(木更津市)

別名雨城。1456年、上総武田氏の武田信長が築城し、子孫の真里谷武田氏が支配する。1534年、真里谷信清が死ぬと2人の息子による家督争いが起こり、介入した里見義堯が久留里城を奪って本拠とする。1564年、第2次国府台合戦で勝利した北条氏が一時支配するが、2年後に里見氏が奪還。しかし、小田原攻めに遅参した里見氏は上総を没収され、徳川家康の家臣・大須賀忠政が3万石で封じられる。1602年からは土屋氏3代が続くが1679年に改易され廃城。1742年に黒田氏が入って再興され9代続き明治維新を迎える。現在の天守は、かつての天守台横に建てられた模擬天守。

神崎城

 

二度にわたる北条vs里見の舞台
国府台城
こうのだいじょう(
市川市)

1478年、太田道灌が構えた陣城が国府台城の始まりとの説がある。1538年には北条氏綱と小弓公方足利義明、里見義堯連合軍、1564年には北条氏康と里見義堯・義弘父子が争う、二度に渡る国府台合戦の舞台であり、いずれも北条氏が勝って関東への覇権を確立し、里見氏は房総半島への逼塞を余儀なくされた。1590年、小田原攻めで北条氏が滅びると廃城となった。国府台は標高25m程の下総台地の西端、江戸川に平行して南に張り出した舌状台地の丘陵にあり、土塁状の城郭遺構が残っているが、現在は「里見公園」となって損壊が激しく、正確な築城時期を想定するのは難しい。

東葛地域を支配した高城氏の本拠
小金城
こがねじょう:(松戸市)

別名大谷口城。1537年、千葉氏の重臣・原氏の一族で家老を務めた高城胤吉が築き、約2km東の根木内城から本拠を移した。東西約800m、南北約600mに及ぶ下総台地西端の複雑な地形に大規模な削平、掘削、盛土工事を施し、土塁、空堀を縦横に巡らせた約10の郭を連ねた県下でも最大級の戦国城郭。大部分は市街地化されたが、北側の金杉口、達磨口付近が大谷口歴史公園として保存されている。1538年と64年に行われた2度の国府台合戦ではいずれも北条方に与して勝利し、その後も北条氏の影響下にあったことは畝堀・障子堀など北条系城郭の特徴から伺える。1590年、高城氏が北条氏とともに滅ぶと城の役割も終わった。

大政奉還のあおりを受けた田沼意次の後裔
小久保陣屋

こくぼじんや(富津市)

小篠塚城

 

小浜城
こはまじょう(いすみ市)

 

戦国の面影を遺す直線連鶴式城郭
坂田城

さかたじょう(山武郡横芝光町)

14世紀中頃、千葉氏による築城と伝わる。16世紀には千葉氏の一族、三谷大膳亮胤興の居城となっていたが、1555年、芝山大台城主・井田友胤が三谷氏の内紛に乗じて胤興を討って城主となり、戦国城郭に改修する。井田氏はその後千葉氏・小田原北条氏の被官として手勢300騎を率いて関東各地に出陣するが、1590年、北条氏の降伏と命運を共にし、坂田城も廃城となった。城域は栗山川の支流によって形成された東西250m、南北1500mの舌状台地の先端に位置し、南端の本丸及び見台から北へ登城、外城が連なる連郭式の縄張りで、東・南・西側は沖積低地に接した急崖、北端の大手は二重の掘と土塁を組み合わせた食違虎口となっている。現在登城(二の丸)・外城(三の丸)は果樹園となって旧態をよく残す。

道路割にわずかにうかがえる陣屋の痕跡
櫻井陣屋(貝渕陣屋)

さくらいじんや(木更津市)


徳川幕府の有力諸侯が城主を歴任
佐倉城
さくらじょう(
佐倉市)

印旛沼に注ぐ鹿島川・高崎川を自然の外堀とした平山城。石垣を用いない土塁ベースの城としては有数の規模を誇る。戦国時代、千葉氏の一族鹿島幹胤により築城された中世城郭をベースに、1618年頃、德川家康の命を受けた土井利勝によって今日の城構えが完成する。北・西・南を印旛沼や川に囲まれ、東側に武家屋敷と町家を配した城構えは江戸の東の護りとして重視され、堀田・大久保・稲葉氏など、德川幕府の老中格の譜代諸侯が封じられて明治維新に至る。維新後は陸軍の駐屯地となって遺構は大きく損なわれたが、1979年から佐倉城址公園として整備され、水堀の復元、本丸跡、出丸跡などが整備された。
時代:江戸
種別:平山城
築城年:16世紀半ば
廃城年:1873
アクセス(A便利-E不便):A
難易度(A楽勝-E危険):A
知名度(A有名-E無名):D

残存度(A良好-E無惨):E
総合満足度:C

 

笹子城

 

佐是城

里見vs北条の激戦地
佐貫城
さぬきじょう(
富津市)

室町時代、長尾氏系の総州長尾氏もしくは、武田氏系の真里谷氏説が築城。戦国時代には、安房の里見里見義堯・義弘父子が進出して本拠地とするが、相模の北条氏康が度々侵略し、その都度里見氏が奪回してきた。1564年の第2次国府台合戦で氏康に敗れた義弘は守勢に回るが、1567年の三船山合戦で房総半島から北条を駆逐し上総・安房を安定支配する。義弘の死後、里見氏の拠点は安房に移り、1590年の北条滅亡後は関東を与えられた徳川家康の臣・内藤家長が入って佐貫藩が成立する。佐貫藩は3度に渡り廃藩となるが、1710年以降は阿部氏1万6000石が明治維新まで続いた。

足利・武田・里見・北条が争った上総の拠点
椎津城

しいづじょう(市原市)

志摩城

 

房州里見氏、最初の居城
白浜城
しらはまじょう(南房総市)

1441年、結城合戦で敗れた里見義実が安房に落ち延び、白浜城に拠ったという伝説が残るが、実際には、関東管領上杉氏と対立した古河公方足利成氏が、上杉方の安房に配下の里見義実を送り込んだという説が有力。いずれにせよ安房里見氏最初の拠点であり、東西約1km、南北約400m、東・西・城山北の三遺構に区分される城域は、房総の中世城郭跡において最大級の規模を誇る。歴史的価値の高さに加え、切岸を多用し、堀や土塁を持たない構造的に古い形態の城として遺存状態も良好。展望台からは眼下の野島崎と太平洋の絶景を望め、麓の寺院では里見氏初代義実・2代成義の墓所がある。

須賀山城

 
 

助崎城

 
 

堤防に埋もれた本丸天守を再現
関宿城
せきやどじょう(野田市)

1457年、古河公方の家臣・簗田成助が築城。約100年間簗田氏が城主を務めるが、1565年から74年にかけての3度にわたる関宿合戦の結果、北条氏の手に落ちる。1590年、北条氏が滅びて徳川家康が関東に入部すると、江戸と水路で直結された関宿は江戸城の外城として重視され、家康の異父弟松平康元をはじめ、小笠原、北条、牧野、板倉、久世氏ら有力譜代が配され、明治維新で廃城となる。1874年に取り壊された天守は、1671年に江戸城富士見櫓を模して再建されたという記録があることから、1995年、現存する富士見櫓を参考にした千葉県立関宿城博物館が建てられた。ただし、当時の城跡は河川改修で2/3が堤防の下に埋もれてしまい、実際の本丸跡も博物館から約500m下流の堤防脇にある。
時代:室町~江戸
種別:平城
築城年:1457
廃城年:1872
アクセス(A便利-E不便):A
難易度(A楽勝-E危険):A
知名度(A有名-E無名):B

残存度(A良好-E無惨):D
総合満足度:C

千本城

南総里見八犬伝の舞台となった城
滝田城
たきたじょう(南房総市)

前期里見氏の居城であった稲村城から約7km北、平久里川に沿った丘陵上に造られた山城。築城年代は明らかでないが、城代は里見義豊の妹婿・一色九郎という記録があり、同じ尾根沿いで約2km西にある宮本城とともに、稲村城の支城として機能していたとみられる。1534年の犬掛合戦で義豊を倒した従兄弟の義堯は、稲村城から本城(もしくは宮本城)に移り、後に久留里城に移るまでの拠点としていた。江戸時代の小説「南総里見八犬伝」では、房総里見氏初代・里見義実の居城とされ、城跡には義実の娘・伏姫と飼犬・八房の像が立てられている。

多古城

 
 

多古陣屋

 
 

南総の雄・里見氏最後の居城
館山城
たてやまじょう(館山市)

安房・上総の戦国大名、里見氏の最後の拠点。1580年、里見義頼が築城し城番を置く。1591年、前年の小田原の役での不手際で下総・上総の領地を没収され安房一国に封じられた義頼の子・義康が、上総との国境に近い岡本城から本拠を移し、館山藩9万2000石の居城となる。関ヶ原の戦い後にはさらに常陸鹿島3万石を加増されて関東最大の外様大名となるが、このことが却って災いする。義康の子・忠義の代になった1614年、岳父・大久保忠隣の失脚への連座を名目に伯耆倉吉3万石へ転封(実質改易)となり、館山城も破却された。本丸は第二次大戦中に高射砲陣地となって数mも掘削され原型をとどめておらず、天守があったかどうかも定かではないが、安房博物館分館である模擬天守が建てられている。
時代:安土桃山~江戸
種別:平山城
築城年:1580
廃城年:1614
アクセス(A便利-E不便):A
難易度(A楽勝-E危険):C
知名度(A有名-E無名):B

残存度(A良好-E無惨):E
総合満足度:C

最後の城主は信玄の息子?
庁南城(長南城)
ちょうなんじょう(長生郡長南町)

1456年、古河公方・足利成氏の命を受けて上総に侵攻した甲斐武田氏の一族、武田信長は、支配圏の東部の拠点として長南城を築いて自ら守り、西部の拠点として築いた真里谷城(木更津市)には嫡男の信高を入れて守らせた。以来1590年の落城まで130年余り、上総武田氏累代の居城であり、一説には最後の城主となった7代豊信は武田信玄の3男信之が養子に入ったとも言われている。城郭の規模や構造に関しては不明な点が多いが、丘陵と谷を巧みに活かした天然の要害であったという。「庁南城跡太鼓森」の説明板が立つ高台は城の西隅にあたり、往時は物見櫓があって、出陣や家臣への合図に太鼓を打ちならしたと伝わる。城の南にある大林寺は長南武田氏の菩提寺で、1999年に墓所が再建されている。 時代:室町~戦国
種別:平山城
築城年:1456
廃城年:1590
アクセス(A便利-E不便):B/C
難易度(A楽勝-E危険):B
知名度(A有名-E無名):C

残存度(A良好-E無惨):D
総合満足度:C

三浦半島を望む里見の対北条最前線
造海城
つくろうみじょう(富津市)

 別名百首城。1400年代後半、武田氏の一族で上総に送られた武田信長もしくはその子孫の真里谷氏による築城。1530年代に里見氏が手中に収め、対岸の三浦半島に進出してきた北条氏との争いの最前線となる。 時代:戦国
種別:山城
築城年:15世紀後半
廃城年:1590
アクセス(A便利-E不便):B
難易度(A楽勝-E危険):C
知名度(A有名-E無名):C
残存度(A良好-E無惨):D
総合満足度:C

鶴舞陣屋

   

鷹狩御殿となった中世城郭
東金城 鴇ケ根城
とうがねじょう(東金市)

15世紀後半、享徳の乱の初期の時代に美濃から下向した東常縁の家臣で土岐氏の傍流、浜春利が撚ったとされるのが記録上の初見。1521年、この春利の子とも、千葉氏の一族とも、あるいは三河酒井氏の同族とも言われる土気の酒井定隆が約8km北東の東金も支配下に置き、やがて上総酒井氏は土気を拠点とする長男定治と東金を拠点とする3男隆敏の系統に分裂する。その後酒井氏は北条・里見の狭間で揺れ、時に東金と土気が敵対することもあったが、やがて両家とも北条傘下となって命運を共にし、東金城も廃城となった。1613年、家康の命を受けた土井利勝が城跡に「鷹狩り御殿」を造営し、眼前の池を拡張して八鶴湖としたが、1671年には御殿は取り壊され、跡地は県立東金高等学校となっている。 時代:戦国
種別:平山城
築城年:15世紀後半
廃城年:1590
アクセス(A便利-E不便):A
難易度(A楽勝-E危険):B
知名度(A有名-E無名):D

残存度(A良好-E無惨):C
総合満足度:D

奈良時代に起源を辿れる古城
土気城
とけじょう(
千葉市緑区)

奈良時代前期の724年、蝦夷に対する備えとして陸奥・多賀城を築いた大野東人が、軍事拠点の一つとして築いたのが起源とされる古い城跡。鎌倉時代には相馬氏、戦国時代には畠山氏の一族が居城とするが、下総中野城(千葉市若葉区)の酒井定隆に攻められ敗走。1488年、定隆は土気古城を修復して入城し、以後5代・約100年続く上総酒井氏の本拠となる。酒井氏は1538年の第1次国府台合戦では小弓公方足利義明の傘下で、1564年の第2次国府台合戦では里見氏に寝返って北条氏と戦うが、その後降伏して小田原攻めで北条氏とともに滅び、土気城は廃城となる。現在、本丸・二の丸は元日本航空の研修所だった老人福祉施設となっているが、土塁や空堀などを含む城の縄張りは比較的良好に残っている。 時代:古代~戦国
種別:平山城
築城年:724
廃城年:1590
アクセス(A便利-E不便):B
難易度(A楽勝-E危険):A
知名度(A有名-E無名):D

残存度(A良好-E無惨):D
総合満足度:C2

台風で日の目を見なかった明治の陣屋
長尾陣屋

ながおじんや(南房総市)

大政を朝廷に奉還した徳川幕府は、関東を中心とする400万余石を没収されたものの、駿河70万石の大大名として存続を許された。とばっちりを受けたのは駿河に領地を持つ小大名達で、明治維新の混乱の中、上総・安房への転封を迫られた。安房4万石に封じられたかつての田中藩もその一つで、兵学者恩田仰岳の選定した長尾地区(南房総市白浜地区の西部)を陣屋と定めた。東西を急峻な山地、北部を長尾川の断崖で守られた理想的な地形だったが、工事開始間もなく台風の直撃で甚大な被害を蒙り築城を断念、19世紀前半に、水野氏が築いていた北条陣屋(現在の館山市街地)を再興して移った。現在城地は原生林に覆われ、藩士邸となる予定地は安房地区が名産の千両(正月飾りの赤い玉)小屋などになっている。

時代:幕末
種別:陣屋
築城年:1868
廃城年:未成
アクセス(A便利-E不便):B
難易度(A楽勝-E危険):B
知名度(A有名-E無名):E

残存度(A良好-E無惨):E
総合満足度:D

中島城

 

長沼城

 

並木城

 

北条氏と結んで勢力を広げた高城氏
花輪城
はなわじょう(流山市)

16世紀に大谷口城(小金城)を本拠地として周辺一帯を支配した千葉氏の庶流・高城氏の属城で、築城主は家臣の平本定虎と伝わる。江戸川に向けて東・南・西の三方を急斜面に囲まれた細長い舌状台地に設けられた天然の要害で、陸続きとなる北面には深さ3mの空堀と土塁、土橋と思われる痕跡が残り、直線連郭式の縄張りであったことがわかる。高城氏は16世紀後半には北条氏の支配下に入り、1590年に北条氏と共に滅亡した。この頃に花輪城も廃城になったと考えられている。江戸時代入ると17世紀前半に西福寺琵琶首観音堂が建てられたが現存せず、基壇・礎石のみが残る。現在は枇杷島城址公園として整備されている。

安房に逃れた源頼朝を助けた豪族の居城
平松城

ひらまつじょう(南房総市)

安房の豪族、安西三郎景益の居城と伝わる。1180年、源頼朝が石橋山の戦いに敗れて海路安房(房総半島南部)へ逃れた際、最初に参集した豪族が安西景益だったことは「吾妻鏡」にも記述されている。頼朝の安房上陸が8月29日、景益が頼朝の元に伺候したのが9月4日とタイムラグがあることから、安西氏の居城は上陸地に近い勝山ではなく、内陸の平松にあったと推定されているが、それ以上の傍証があるわけではない。ただ、平松は安房国府の所在地に比定される旧三芳村(現南房総市)の中心部に近く、有力豪族が館を構えていても不自然ではない。現地案内板によれば、付近に木戸・御国・馬場畑などの地名や、姫ケ井・松葉ケ井などの伝承があり、戦国時代の里見氏家臣、安西式部の館跡とも言われている。

時代:平安~戦国
種別:居館
築城年:平安末頃?
廃城年:不明
アクセス(A便利-E不便):B
難易度(A楽勝-E危険):B
知名度(A有名-E無名):E

残存度(A良好-E無惨):E
総合満足度:D

福星寺館(ふくしょうじやかた)

 

本納城
ほんのうじょう

 

三重連郭式の縄張りとされる戦国城跡
前ヶ崎城

まえがさきじょう(流山市)

築城時期は不明だが、近隣の花輪城と同様、16世紀後半に小金城を拠点に周辺地域を支配した高城氏の支城であったと考えられている。主郭は西・北・東を坂川とその支谷で囲まれた比高11mの舌状台地先端にあり、主郭南端部及びその南160mと同350mにあった堀切で仕切られた三連郭構造であったと推定されている。現在、前ヶ崎城址公園となって残存しているのは最北端の主郭部のみで、西側は道路造成により喪われているが、東及び南側には高さ3~4mの土塁、東側の一部と南側には深さ3mの空堀が残る。南側土塁の途切れたところが虎口跡、その西側の最高部が櫓跡とも言われている。高城氏とともに1590年頃廃城。

増尾城

 

上総に乗り込んだ武田氏の雄大な山城
真里谷城

まりやつ/まりがやつじょう(木更津市)

1456年、関東管領・上杉氏と対立した古河公方・足利成氏は、上杉領である上総の攻略を甲斐守護・武田信満の次男・信長に命じる。信長は上総を制圧すると東部に庁南城(長南町)、西部に真里谷城を築いて上総支配の拠点とした。真里谷城は千畳敷と呼ばれる主郭を中心に東西700m、南北400mに及ぶ山城で、堀切や土塁で仕切られた主な4つの郭から構成されている。上総武田氏は全盛期の1530年頃には浅草寺や鎌倉八幡宮の修復にも寄進するほどの財力を誇ったが、1538年の国府台合戦で北条氏に敗れると次第に衰退する。1590年の豊臣秀吉の小田原攻めでも旗幟を鮮明にしなかった上総武田氏は領地を没収され真里谷も廃城となった。城跡は現在キャンプ場(木更津少年自然の家)となって、土塁や堀などが比較的良好に残っている。

時代:室町~戦国
種別:山城
築城年:1456
廃城年:1590
アクセス(A便利-E不便):C
難易度(A楽勝-E危険):B
知名度(A有名-E無名):B

残存度(A良好-E無惨):C
総合満足度:B

丸城

 

美濃から入部した土岐氏の一族
万喜城 (万木城)

まんぎじょう(いすみ市)

美濃の守護大名・土岐氏の一族で上総夷隅郡万喜郷に移り住んだ万木(土岐)氏の居城。蛇行する夷隅川が城の南・北・東を流れる天然の要害にあり、唯一陸続きの南東面は入り組んだ尾根をほぼ垂直に削り落として長い城壁のように造成して守っていた。万木氏は関東管領上杉氏に従い関東へ入った土岐秀成の子・時政に始まるとされ、築城者も時政のほか、摂津から移住した頼元、土岐宗家から養子に入った頼房など諸説あるが詳細は不明。頼房の孫・為頼は安房・里見氏と連携して夷隅川流域に勢力を拡げるが、1564年の第2次国府台合戦では北条氏に鞍替えする。為頼・頼春父子は、里見氏や配下の小多喜正木氏、長南武田氏などの度重なる攻撃も籠城して跳ね返すが、北条と命運を共にして滅亡し万喜城も廃城となった。

時代:室町~戦国
種別:山城
築城年:15世紀末~16世紀前半?
廃城年:1591
アクセス(A便利-E不便):D
難易度(A楽勝-E危険):B
知名度(A有名-E無名):C

残存度(A良好-E無惨):C
総合満足度:C

関東の覇権を夢見た小弓公方義明
南生実城
みなみおゆみじょう(
千葉市中央区)

鎌倉時代初期、千葉城(現在の千葉氏中央区亥鼻)を本拠地とした千葉氏の重臣であった原氏が、千葉城の南の守りとして築城。1518年、真里谷城主の武田恕鑑が古河公方・足利高基の弟・義明を奉じて小弓城を落とし、城主・原元胤は討ち死にする。義明は「小弓公方」を称して古河公方と対立すると、自らを擁立した武田氏を屈服させ、さらに、安房の里見氏を内紛に乗じて味方に付けて東京湾岸へ進出してきた北条氏と対立する。その結果、1538年、小弓公方・里見連合と古河公方・北条連合が激突した第一次国府台合戦で義明は敢え無く戦死して小弓公方は滅び、南生実城も廃城となった。しかし義明の子孫は足利嫡流・喜連川氏として江戸幕府から特別な待遇を受け、維新後は足利に復して今日まで続いている。

時代:鎌倉~戦国
種別:平山城
築城年:12世紀末頃
廃城年:1538
アクセス(A便利-E不便):D
難易度(A楽勝-E危険):B
知名度(A有名-E無名):C

残存度(A良好-E無惨):E

見広城

 

宮本城

 


戦国大名となった千葉氏の居城
本佐倉城
もとさくらじょう(
印旛郡酒々井町・佐倉市)

15世紀後半、享徳の乱で分裂した千葉氏は室町幕府に派遣された東常縁や太田道灌の追討を受け、第21代千葉輔胤は千葉氏累代の居館であった亥鼻城(千葉城)から約20km北東、印旛沼に面した水運の要衝に本拠を移した。千葉氏は、城の四方に城下町と港を整備し、佐倉の発展に務めたが、2度にわたり当主が暗殺される不運にも見舞われて北条氏の傘下となる。1590年に北条氏が滅ぶと千葉氏9代の支配は終わり、佐倉藩の藩庁となるが、1615年、藩庁が佐倉城に移ると廃城となった。戦国末期には東西約700m、南北約800m、面積約35万㎡に及んだ遺構は土塁や空堀などがよく残り、国史跡として発掘作業も進められている。

時代:戦国~江戸
種別:平山城
築城年:文明年間(1469-1486)
廃城年:1615
アクセス(A便利-E不便):B
難易度(A楽勝-E危険):B
知名度(A有名-E無名):B

残存度(A良好-E無惨):A

森山城

 

 

印旛沼を隔てた本城とは「渡」で連絡
師戸城

もろとじょう(印西市)

千葉氏の支流である臼井氏の本拠地、臼井城の支城として14世紀に築かれ、16世紀半ば頃までの改築で現在残る形に拡張されたと推定される。城主として、江戸時代の書物で「臼井氏四天王」に数えられる師戸四郎の可能性が指摘されている。本城である臼井城は印旛沼を隔てて約1.5km南の対岸にあり、師戸城との間は「渡」で連絡されていた。1566年、上杉謙信らによる臼井城攻めの際もよくその猛攻を凌いだが、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めで臼井城とともに落城し、廃城となった。城跡は現在、千葉県立印旛沼公園となっている。城跡保存が開設目的の一つとなっているので本丸・二の丸・三の丸を囲む土塁や堀などの保存状態は良好で見学もしやすく、本丸跡の展望台からは印旛沼越しに臼井城を望める。

時代:室町~戦国
種別:平山城
築城年:14世紀?
廃城年:1590
アクセス(A便利-E不便):A
難易度(A楽勝-E危険):A
知名度(A有名-E無名):D

残存度(A良好-E無惨):B
 

山本城
やまもとじょう(館山市)

 

 

八日市場城

 

 
 
 
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