城名

概要

場所

評価/more

津軽為信に抵抗し続けた朝日氏
飯詰城
いいづめじょう(五所川原市)

別名:高楯城

十三湖や日本海を望む高台の城
唐川城

からかわじょう(五所川原市)

城址碑だけが物語る中世黒石城の痕跡
黒石城
くろいしじょう(黒石市)

弘前藩津軽氏の支藩として幕末に至る
黒石陣屋

くろいしじんや(黒石市)

縄文前~中期の大規模集落跡 
三内丸山遺跡
さんないまるやまいせき(青森市)

国特別史跡。1992年、野球場建設の際、縄文前・中期(約5500年-4000年前)の遺構や遺物が多数発見され、日本考古学史上例を見ない巨大な縄文集落と判明した。発掘調査では、竪穴住居、掘立柱建物、貯蔵穴、墓、道路などの遺構とともに、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、木器、装身具や、ひょうたん、ごぼう、豆などの栽培植物が出土した。これまでに、物見櫓とも祭祀施設とも言われる大型掘立柱建物を始め、大型竪穴式住居、竪穴式住居、高床式建物などが復元されている。

奥州戦国の雄、南部宗家の本城
三戸城
さんのへじょう(三戸郡三戸町)

南部家24代晴政が1539年、それまでの居館、聖寿寺館の放火焼失を機に築城、以後南部家の本城となる。1590年、26代信直は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して南部七郡を与えられ、領土が南進したことを受け本城を南の九戸城に移す。さらに1597年、より南の盛岡に築城を開始し、1633年、孫重直の代に完成して移転、三戸城は御古城と呼ばれ17世紀後半まで城代が置かれた。現在は城山公園となり、模擬天守のほか、1989年に、綱御門(「心経綱」を掲げた門)が復元されている。

安東氏に備えた南部氏の北方拠点
七戸城
しちのへじょう(上北郡七戸町)

バイパスをルート変更させた平安期の集落跡
高屋敷館
たかやしきだて(青森市)

縄文・平安・戦国期の痕跡が出土
中里城

なかざとじょう(北津軽郡中泊町)


「北の御所」と称された浪岡北畠氏
浪岡城

なみおかじょう(青森市)

 


戦国前期を体感できる復元建物群
根城
ねじょう(八戸市)

1334年、南部師行による築城と伝わる。南北朝時代、根城南部氏(八戸氏)は奥州における南朝方の中心的存在であり、室町、戦国期を生き延びるが、同族の三戸南部氏が秀吉から南部領全体の支配権を認められたことでその配下となり、家老職を務める。1627年、根城南部氏は遠野に移封となり、根城は廃城となる。そのため遺構の保存状態は良好で、1994年、「史跡根場の広場」として整備され、主殿、工房、板蔵、納屋、馬屋など安土桃山時代の様子が復元されている。

南部八戸藩200年の歴史を語る
八戸城
はちのへじょう(八戸市)

1334年、南部師行が根城を築城したのとほぼ同時期、孫の信助が築いた「中館」が起源と言われる。1627年、南部宗家当主利直は中館氏を含む根城南部氏を遠野に移し、中館を直支配として自ら城と城下町の縄張りを行う。利直の子重信は後継を定めぬまま死去したため、幕府は弟重信に盛岡8万石、同直房に八戸2万石を分地し、以後幕末まで八戸藩南部氏の居城となる。遺構は三八城公園として整備されている他、1797年上棟の角御殿表門が現存し、南部会館表門として使われている。


三重の堀が残る最北の現存天守
弘前城
ひろさきじょう(弘前市)

1603年、津軽藩初代藩主津軽為信が築城を始め、1611年、2代信枚の代に完成。五層六階の初代天守は1627年に焼失。現在残る三層の天守は、1810年、天守代替の御三階櫓として建造を許可されたもの。維新後は、三重の堀と土塁、石垣を含む創建当初の敷地がほぼそのまま公園となり今日によく規模を伝える。天守に加え、現存する3棟の櫓、5棟の櫓門はいずれも重要文化財。城内には約2600本の桜が植えられ、開花時期がGWと重なる「弘前さくら祭り」でも有名。現在、崩落の恐れがある石垣修理のため、天守は曳家工事で本丸内部へ移動している。

蝦夷との交易で栄えた十三湊安東氏の本拠
福島城

ふくしまじょう(五所川原市)

inserted by FC2 system