城名

概要

場所

評価/more


古代日本の奥州西部における拠点
秋田城
あきたのき(秋田市)

奈良~平安時代にかけて、出羽国(東北地方の日本海側)における政治、軍事、文化の中心となっていた官庁跡。8世紀初め頃、現在の山形県庄内地方に置かれていた「出羽柵(いではのき)」が、733年、この地に北上し、760年頃から「秋田城(あきたのき)」と呼ばれた。奈良時代には出羽国府も置かれ、津軽、渡島のほか渤海(中国東北部)などとの交易拠点としても重要な役割を果していたが、11世紀迄にはその役割を終えた。1939年、国の史跡となり、1998年以降、外郭東門、築地塀、政庁東門などが復元されている。

みちのくの小京都を見下ろす古城
角館城
かくのだてじょう(仙北市)

別名小松山城。1424年、戸沢飛騨守家盛が門屋城からこの地に居城を移し、以後代々戸沢氏の居城となる。1600年、当主戸沢政盛は関が原合戦で東軍に属して本領安堵されるが、1602年、常陸国松岡に4万石で転封となる。代わって角館には、秋田へ入部した佐竹義宣の弟葦名義勝(義広)が1万6000石で入る。城は1620年の一国一城令で廃城となるが、同年、義勝は城下町を城の北西川から南側に移して整備し、今日、「みちのくの小京都」と呼ばれる町並みの礎を築いた。


関ヶ原で故地を逐われた佐竹氏の城
久保田城
くぼたじょう(秋田市)

別名秋田城。戦国末期、この地域の拠点は安東氏(秋田氏)の拠る土崎湊城だったが、関ヶ原の戦いで西軍に与して常陸54万石から秋田20万石に減封された佐竹義宣が、手狭な湊城に代えて南の窪田神明山に築城した。天守と石垣のない平山城で、1604年の完成以後幕末まで秋田藩佐竹氏12代の居城となる。維新後、1880年の火災で本丸は全焼、1890年に公園として開放され千秋公園と命名される。本丸表門と御隅櫓(写真)が復元されているが後者は旧状と大きく異なる模擬天守。

複雑な経緯をたどった城の主
本荘城

ほんじょうじょう(由利本荘市)

別名:尾崎城、鶴舞城

秋田市の基礎となった湊安東氏の居城
湊城

みなとじょう(秋田市)

策に溺れた本多正純終焉の地
横手城
よこてじょう(横手市)

別名朝倉城、韮城。1554年頃、小野寺輝道が築城。「韮城」の別名は土砂崩れと敵の登坂を防ぐ目的で韮を植えたことに因む。小野寺氏は関が原の戦いで西軍に味方したため改易、横手城は久保田藩の支城となり、伊達盛重、須田盛秀を経て佐竹一門の戸村氏が明治維新まで城代を務める。須田盛秀の時、「釣天井事件」で失脚した徳川幕府の重臣、本多正純を預かり、正純は1637年、この地に没す。戊辰戦争で久保田藩は官軍側に付いたため東北諸藩の攻撃で落城し、そのまま廃城となる。


日本海を望む縄張りが見事な安東氏の城
脇本城

わきもとじょう(男鹿市)


inserted by FC2 system