城名

概要

場所

評価/more

戦国時代の山城を忠実に再現
足助城
あすけじょう(豊田市)

別名真弓山城。標高301mの真弓山山頂を本丸とし、四方に張り出した尾根を利用した連郭式山城。築条時期は不明だが、15世紀以降に、国人・鈴木氏が築城したと考えられている。1571年、武田信玄に攻略され73年まで武田の城代が在番した。その後は鈴木氏が復したが、徳川家康の関東入りに従い足助を離れ、廃城となった。1990年からの発掘調査で、建物跡の柱穴が数多くみられ、日用品や茶道具もが出土したことから本格的な生活の場であったことがわかり、復元作業に着手。後の天守に相当する本丸高櫓をはじめ、西の丸と南の丸の物見台、長屋、厨、跳ね上げ扉、柵などが復元されている。

「槍の又左」を育んだ故地
荒子城
あらこじょう(名古屋市中川区)

1544年頃、前田利昌(利春)が前田氏発祥地である前田城から移って築城。城といっても一重堀に囲まれた東西68m、南北50mの小規模な館で、1560年に利昌が死ぬと、長子利久が城主となるが、1569年、織田信長の命により弟・利家に家督を譲る。荒子城主となった利家は城の鎮守として富士権現を勧請し、祖先とされる菅原道真を祀ったという。1575年、利家は佐々成政・不破光治と3人で10万石の所領を与えられて越前府中に移り、嫡子利長が城主となるが、1581年に利家が能登一国を与えられると、利長も能登に移り、荒子城は廃城となった。

徳川氏繁栄の基礎を築いた安祥松平
安祥城
あんじょうじょう(安城市)

1440年、畠山一族・和田親平の築城と伝わる。1476年、松平信光が奇策を用いて奪い、子の親忠を城主とした。以後長忠・信忠・清康と続く安祥松平家は、三河をほぼ統一して松平の総領となるが、清康が家臣に殺されると弱体化し、1540年には尾張の織田信秀が奪う。これに対し、松平氏を傘下に組み入れた今川義元は、1549年、太原雪斎に安祥城攻略を命じ、城主織田信広(信長の庶兄)を捕らえて、当時織田家の人質だった松平竹千代(後の徳川家康)を交換で取り戻した。1562年に清洲同盟が結ばれると廃城となった。現在、本丸跡は大乗寺、二の丸跡は八幡社が立ち、周囲に堀や土塁などが残る。
徳川四天王・酒井忠次の生誕地
井田城
いだじょう(岡崎市)
一宮城
いちのみやじょう
 

近年まで個人所有だった国宝天守
犬山城
いぬやまじょう(犬山市)
別名白帝城。現存12天守。国宝。1537年、織田信長の叔父、信康が築城。望楼以外は築城当時の建築とみられる。信康戦死後、子の信清が継ぐが、1562年、信長に反旗を翻し、2年後犬山城は陥落し、信清は甲斐に逃れる。以後、池田恒興や織田勝長(信長五男)らが城主を務める。1584年の小牧・長久手合戦では羽柴秀吉の本陣となり、小牧山の徳川家康と対峙する。江戸時代には尾張徳川家付家老として成瀬正成が入り幕末まで続く。明治維新後も成瀬家の個人所有のまま国宝に指定されていたが、2004年以降は「(財)犬山城白帝文庫」の所有となっている。

尾張を二分した織田伊勢守家の本拠地
岩倉城
いわくらじょう(岩倉市)

15世紀後半の文明年間、尾張守護斯波氏の守護代織田敏広が築城。尾張上四郡の実質的な支配者だった織田伊勢守家の居城として約80年間に渡り繁栄する。1556年、伊勢守家当主織田信安は尾張下四郡で急速に力をつけた織田信長に対抗して、信長の弟信勝(信行)に加担したことで信長と対立。1558年、信安を継いだ信賢は浮野の戦いで信長に敗れ、岩倉に籠城するが翌年降伏、岩倉城は廃城となる。尾張一国を統一した信長は翌年の桶狭間の戦いで今川義元を討ち、天下統一に大きく踏み出すことになる。因みに土佐藩主となった山内一豊は織田伊勢守家の家老の子として岩倉で生まれている。

松平郷から進出した松平氏第2の拠点
岩津城
いわつじょう(岡崎市)

宇利城
うりじょう(新城市)

 

兵糧運び入れで武名高めた家康
大高城
おおだかじょう(名古屋市緑区)

室町時代の永正年間に花井備中守によって築かれたと伝わる東西約106m、南北約32mの山城。天文・弘治年間(1532-58)には水野忠氏親子の居城であったが、織田から今川に寝返った鳴海城主山口教継の調略により落城、鵜殿長照が城将を務める。1560年、今川義元が尾張討伐の大軍を動員、先鋒を命じられた松平元康(後の徳川家康)が大高城への兵糧入れに成功、そのまま城将となるが、桶狭間で今川義元が敗死すると岡崎に撤退。戦略的価値を失った大高城は廃城となる。1938年、丸根砦、鷲津砦とともに国の史跡となる。


「産湯の井戸」も残る家康生誕の城
岡崎城
おかざきじょう(岡崎市)

1452年頃西郷頼嗣が築いた砦が原型。1531年、安祥から本拠を移した松平清康が本格的な城郭を構え、1542年には清康の孫、徳川家康が誕生した。家康が浜松を本城に移した後は、嫡男信康の居城となる。1590年に封じられた田中吉政が、近世的な岡崎城と城下町を作り上げる。江戸時代を通じて本多・水野・松平など5万石前後の譜代大名が治め、東海道の宿場町としても栄える。明治維新後城郭は取り壊され、本丸・二の丸などは岡崎公園となる。現天守は1959年の再建。

大給城
おぎゅうじょう(豊田市)

奥殿陣屋
おくとのじんや(岡崎市)

滝川一益、最後の奮戦
蟹江城
かにえじょう

 

織田・松平の狭間で揺れた家康生母の家
刈谷城
かりやじょう(刈谷市)

1533年、水野忠政が築城。徳川家康の母於大の方は忠政の娘で、1541年、この城から松平広忠に嫁している。1576年、於大の兄・信元は武田氏に通じた疑いで甥の家康に殺され、刈谷城は佐久間信盛の領地となるが、1581年に信盛が織田信長に追放されると信元の末弟忠重が復帰する。江戸時代を通じて9家22代と頻繁に城主が変わったが、1747年以降は土井氏9代(2万3000石)が幕末まで続いた。現存建物はないものの、本丸と二の丸の一部が亀城公園となっている。現在、本丸南東部の辰巳櫓・多聞櫓・表門・裏門などの復元事業が進められている。

岩略寺城

歴史の名舞台、家康の一声で廃城
清州城
きよすじょう(清須市)

1405年、尾張守護斯波義重が築城、1476年、守護所・下津城の焼失後は尾張守護所となる。1555年、織田信長は守護斯波義統を殺害した織田信友を討って清須を居城とし、1560年、桶狭間の戦い前に幸若舞・敦盛を舞っての出陣をはじめ、1562年には徳川家康との清洲同盟、1582年には信長没後の後継者や領地を取り決めた清州会議など、度々歴史の舞台となった。1586年、織田信雄の時代に大改修が行われ、以後豊臣秀次、福島正則、松平忠吉、徳川義直が城主となるが、1610年、家康の名古屋遷都令(清洲越し)により廃城となる。現在、五条川を隔てた城跡の対岸に復興天守が建つ。

黒田城
くろだじょう

 


信長・秀吉・家康、それぞれの思惑
小牧山城
こまきやまじょう(小牧市)

1563年、美濃進出を目指す織田信長が、居城清須から北東約10kmの小牧山に築城。濃尾平野に浮かぶ独立峰全体を城郭とし、重臣の居館や城下町も清須から移転させた。しかし、1567年に美濃・稲葉山城を落とした信長は、稲葉山改め岐阜へ移り、小牧は僅か4年で廃城となる。1584年、羽柴秀吉と対立した徳川家康は小牧山に本陣を置き、信長の故城に山麓を取り巻く堀や土塁を付加して堅固な城塞とした。この城を落とせないまま秀吉は、長久手で致命的な敗戦を喫して和睦を選び、役割を終えた小牧は再び廃城となった。現在、山上には天守風の小松市歴史資料館が立つ。

信長生誕地説もある織田弾正家の居城
勝幡城
しょばたじょう(稲沢市・愛西市)

16世紀初頭、尾張下四郡の守護代・織田大和守家の家老を務めた織田弾正忠家の居城。織田信定(信貞)は津島港の権益を手中に収めて経済力を高め、勝幡城に拠って戦国大名としての織田氏の礎を築いた。跡を継いだ子の信秀は那古野城、古渡城を築いて勢いは清州城の主家織田大和守家を凌ぎ、三河の松平氏、美濃の斎藤氏と争う。信秀の嫡子で1534年生まれの信長の生誕地については、勝幡城説と那古野城説がある。1555年、信長は主家大和守家を滅ぼして奪取した清州城を本拠と定め、その前後に勝幡城は廃城となったとみられる。

新城城
しんしろじょう(新城市)

末森城
すえもりじょう

 

干拓で海と切り離された海城
田原城
たはらじょう(田原市)

1480年、戸田宗光が渥美半島統一の拠点として築城。周囲を海で囲まれて入江を形成した形状が巴紋に似ていることから巴江(はこう)城と呼ばれた。1542年、5代堯光の時今川義元によって落城するが、1565年には徳川家康が奪取する。吉田城主池田輝政の城代を経て関が原後は戸田氏傍系の戸田尊次が1万石で入るが3代で加増転封となり、1664年以降は東京の三宅坂に名を残す三宅氏12代(1万2000石)が明治維新まで続いた。江戸時代の干拓でかつての海城は内陸になり、維新後建物は全て破却されたが、二の丸櫓、桜門などが復元されている。

徳川と武田に翻弄された菅沼氏
田峯城
たみねじょう(北設楽郡設楽町)

奥三河の有力国人で、作手奥平氏、長篠菅沼氏とともに山家三方衆と呼ばれた田峰菅沼氏の菅沼定信が1470年に築城。戦国時代には織田・今川・武田・徳川氏らの勢力争いに巻き込まれ、山家三方衆は揃って徳川家康から武田信玄に寝返るが、その後三方衆の結束は乱れていった。田峰菅沼氏内部でも武田方と徳川方に分裂し、1576年、武田方の当主・菅沼定忠が徳川方の叔父定直ら一族を惨殺する舞台にもなった。1582年、武田滅亡とともに定忠は討たれ、定直の子・定利が城主となるが、家康の関東入りに従い廃城となる。現在、本丸跡には、本丸御殿、大手門、搦手門等が復元されている。

酒井忠次、信玄弟の砦を急襲
鳶ヶ巣山砦
とびがすやまとりで(新城市)

長沢城


武田軍を防いで歴史的勝利に貢献
長篠城
ながしのじょう(新城市)

1508年に菅沼元成が築城。遠江を支配した今川氏の滅亡後は徳川-武田-徳川と所属を変える。1575年、武田勝頼軍1万5000が奥平貞昌の守る長篠城を囲むと、徳川家康は織田信長に救援を求め、城の西方にある設楽原で長篠の戦いが発生。以後武田氏の勢力は大幅に衰え、戦略的価値を失った長篠城は、合戦で破壊されたこともあり廃城となる。写真は南方から本丸を望んだ情景で、左側からきた寒狭川(豊川)に右側の大野川が合流する、天然の要害であることがわかる。


金鯱かがやく徳川御三家筆頭の城
名古屋城
なごやじょう(名古屋市中区・北区)

国の特別史跡。戦国時代に今川氏が築き、織田信秀が奪った那古野城が起源。信長生誕の城とも伝わる。戦国後期には役割を清洲城に譲り廃城となるが、1609年、徳川家康が豊臣への備えとして清洲から名古屋への城下町ごと移転を決断、1612年に完成する。江戸時代は尾張徳川家の居城として栄え、維新後天守や本丸御殿などが国宝に指定されるが、1945年5月の名古屋大空襲で焼失。天守は1959年に鉄筋コンクリート造りで外観復元された。現在、本丸御殿の再建中。耐震補強が難しいこともあり、天守は2020年代に木造で再建される方針。

那古野城
なごやじょう(名古屋市中区)

 

天守が二の丸にあった珍しい城
西尾城
にしおじょう(西尾市)

鎌倉時代初期に足利義氏が築いた西条城が起源と伝わる。土着した子孫は吉良氏を名乗り統治するが、戦国時代末には徳川領となり、1585年、酒井重忠が二の丸に天守を築く。家康の関東移封後を襲った田中吉政は三の丸を造営し、城郭が確定された。江戸時代には本多康俊を皮切りに譜代大名が入れ替わり、1764年以降は大給松平氏6万石の居城として明治維新を迎えた。1996年、西尾市歴史公園として復元された本丸丑寅櫓、二の丸鍮石門、土塁、堀に続き、2014年には公園が旧二の丸にも拡張され、天守台、丑寅櫓台、北側土塁などが復元されている。

狙撃伝説残る信玄最後の攻城戦
野田城
のだじょう(新城市)

1508年、菅沼定則が築城し、子・定村、孫・定盈と受け継がれる。1572年、3万の大軍を率いて遠江に侵攻した武田軍は、浜名湖東方の三方原で徳川家康軍を一蹴。1573年1月には、さらに三河に侵入して定盈の守る野田城を囲む。小規模ながら堅固な城に力攻めを避け、甲州の金堀人足に水脈を切らせて1カ月で開城に追い込んだものの、武田軍は直後に撤退。信玄の病状が悪化したことによるものだが、突然の撤退だったことで、「笛の音に誘き出されて狙撃された」という伝説を残した。1590年、徳川家康の関東移封に定盈も従い、野田城は廃城となる。


古宮城
ふるみやじょう

古渡城
ふるわたりじょう

加賀百万石の起源、前田本家の城
前田城
まえだじょう(名古屋市中川区)

菅原氏の末裔を称する前田氏は、戦国時代、前田城を中心に、西の蟹江、東の荒子、南の一色など諸城を支配し、織田信長に仕えていた。前田利家もここで生まれ、幼少時に荒子へ移ったとも伝わる。利家を輩出した荒子前田家の本家格だったが、1584年、長久手合戦後に徳川軍の攻撃で落城、城主与十郎長定は蟹江で討ち死に、その子長種は北陸の利家を頼り、その長女・幸を妻として一族に連なる。利家の叔父・利則は出家して前田城跡に建つ速念寺の住職となり、一族の菩提を弔った。

徳川の歴史、ここに始まる?
松平氏館
まつだいらしやかた

 

松平城
まつだいらじょう

猛将佐久間盛重、奮戦及ばず
丸根砦
まるねとりで(名古屋市緑区)

今川・織田両氏の勢力争いが繰り広げられた尾張東部の丘陵に設けられた付城。この地域の織田方拠点、大高城が今川義元の手に落ちた後の1559年、織田信長によって鷲津砦、善照寺砦などとともに築かれた。場所は大高城の東約800m、鳴海から伸びる旧領の先端で、今川方の沓掛城から大高城への補給路を扼す位置にあった。1560年5月、今川義元の大軍が尾張に侵入すると、佐久間盛重を将とする守備隊は善戦するも、松平元康(後の徳川家康)隊の鉄砲攻撃に衆寡敵せず全滅した。桶狭間の戦いで今川義元が戦死し、松平・織田両氏が同盟を結ぶと存在意義を失った丸根砦は放棄された。

守山城
もりやまじょう

山中城
やまなかじょう


戦乱の最前線から東海道の要に
吉田城
よしだじょう(愛知県豊橋市)

1505年、牧野古白が築いた今橋城が起源。1532年、今橋改め吉田城は松平清康(家康の祖父)に攻められ落城。1546年には今川義元が攻略するが、1565年には徳川家康が奪取し、重臣酒井忠次を城主とする。その後も1571年に武田信玄の侵攻を受けるなど、激しい争奪戦が繰り広げられたが、1590年、豊臣秀吉の天下統一がなると、池田輝政が15万石で封じられ、大規模な近世城郭を築く。輝政の姫路転封後は、有力譜代大名が頻繁に入れ替わり、江戸中期以降は大河内松平家が幕末まで続いた。1954年に、実質的な天守だった鉄櫓が復元されている。

丸根砦と共に桶狭間前哨戦で陥落
鷲津砦
わしづとりで(愛知県名古屋市緑区)

1559年、今川方の手に落ちた大高城を牽制する目的で、丸根砦、善照寺砦などとともに織田信長が築城。場所は大高城の北東約700m、丸根砦からは北西約600mの丘陵で、鳴海城と大高城を結ぶ交通路を押さえる位置にあった。規模は東西25m、南北27mと伝わる。1560年5月19日に行われた桶狭間の前哨戦では、織田秀敏(信長の大叔父)、飯尾定宗(信長の父信秀の従兄弟)、同尚清(定宗の子)ら織田一族衆が守るが、今川方の朝比奈泰朝軍の攻撃により陥落、秀敏、定宗らが戦死する。桶狭間の戦い後、織田・松平両氏が同盟を結ぶと、丸根砦とともに放棄された。
 
 
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